MOS-SEM





MOS-SEMいう往還運動の試み

MOSにより免疫を解析する過程で、科学から形而上学に向かう運動だけではなく、逆方向の運動も重要になるのではないかと思い当たった。その運動とは、一つの形而上学のシステムを科学の成果のなかに落とし込むことにより、その形而上学を具体的なものと対応させて検証し、より豊かで精緻なものに蘇生しようとする道である。これを、科学によって哲学の中に埋もれている形而上学を生き生きとしたものにさせるという意味で、「形而上学の科学的充実」(scientific enrichment of metaphysics:SEM)と名づけた。これからいろいろな形而上学を検討しながら、免疫の成果をもとに検討する予定である。この試みをMOSと併せて一つの往還運動として定式化し、“MOS-SEM”と命名する。このように形而上学と科学が一つのエコシステムのなかで双方向に密に交流することにより、自然のより深い理解に寄与することを期待している。

歴史的に見ると、MOS-SEMの道は、自然や存在の本質・真理の探究を哲学の使命とする伝統の流れにあり、20世紀前半から力を増してきた論理実証主義や分析哲学などの反本質主義に抗するものであり、科学的本質主義に続くものと見ることができる。また、19世紀後半のチャールズ・サンダース・パース(1839–1914)やウィリアム・ジェームズ(1842–1910)らに端を発するプラグマティズムは、「本質とは何か」を問う代わりに「それは何を可能にするのか」「それがもたらす帰結は何か」という問いの立て方をした。

さらに、ネオ・プラグマティズムの流れにあるリチャード・ローティ(1931–2007)は、哲学者が世界を特権的に表象し、その究極的真理を把握できるという考えを批判し、むしろ哲学を一つの文学的営みと捉え、哲学書を書き継ぐことによって世界を新たに描写すること(redescription)こそ哲学であるとした。MOS-SEMの営みは、このような20世紀哲学の反形而上学的潮流に対する応答として位置づけることができる。その一方で、ローティが哲学を専門家だけの営みから解放し、新たな語彙によって世界を再記述することを重視した点は高く評価されるべきである。MOS-SEMもまた、科学によって明らかになった自然の本質を、新たな語彙によって人間の世界理解へと開く営みとして、ローティの試みを積極的に取り入れることになるだろう。


MOS-SEMの意義

ここで、MOS-SEMの存在意義について考えてみたい。確かに、科学的問いに日々向き合っている科学者の観点に立つ場合、このような試みに直接的な意義は認められないかもしれない。科学は対象を限定して、その構造や機能を解析する。医学の場合であれば、実験事実の全体的な意味を吟味することなく、ただちに治療法の開発へと向かおうとする。反省のない短絡的思考といえるかもしれないが、それが多くの人が求めるものであるかぎり、この傾向はなくならないだろう。

しかし、科学的思考は全体的な意味は問わない。科学そのものが全体を相手にしていないからである。そのため、そもそも免疫とは何か、あるいは生命とは何か、運動とは何か、というような問いの出し方はしない。それに対して形而上学は、科学では得られない「全体」についての「意味」を模索する。知ることではなく、解釈することに重点が置かれる。その結果、部分だけの分析からでは見えてこない意味の世界が新たに開けたという感触を得る可能性が高くなる。

それだけではない。科学的知見に文化的な広がりを与えるだけではなく、科学とは隔絶されているかに見える形而上学を科学によってわれわれに拓くことが起こり得る。MOS-SEMの意義について考える際に行き着く先は、われわれは科学によって得られた知を、個別的な問題解決のためだけに用いるのか、それとも、それを自然・生命・存在についてわれわれの理解そのものを変える契機として引き受けるのか、という問題になるだろう。

科学と形而上学を相互に往還させることにより、科学によって得られた知を具体的な問題解決のために閉じるのではなく、自然や生命を取り巻くより広い問いへと開くことができる。同時に、形而上学を科学から切り離された思弁としてではなく、科学によって新たに問い直される知として捉え直すことである。ただ、それは形而上学を科学にすることではない。このような科学と形而上学の往還を繰り返すことにより、われわれの自然理解を更新し続ける新たな自然哲学の可能性を示すことを目指している。

矢倉英隆
2026年10月16日