Louis-René des Forêts (1916-2000)
近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディと考える』(ISHE出版、2025)において、アドーの「対話することを学ぶ」に関連した思索の過程で、ガダマー(1900-2002)の考えを引用した(28-29ページ)。
問いを出すとは、可能性の扉を開け、開いたままにしておくことである。疑問を出すことなしに、われわれは経験することができない。問いかけることにより、問題にしていることをあるパースペクティブのなかに入れるのである。問いの技術とは、問いを続ける技術であり、それは取りも直さず思考の技術なのである。
もともとは2018年の「医学のあゆみ」のエセーで紹介したものである(ハンス・ゲオルク・ガダマー、あるいは対話すること、理解すること.医学のあゆみ 265: 911-915, 2018)。最近、この引用の最後にある「問いの技術とは、思考の技術なのである」というフォルミュールの深い意味がこれまで分っていなかったということに気づいたのである。換言すれば、これを読んだ後、なぜ問いを出すことが考えることになるのかについて、完全に納得したという感触を得ていなかったということになる。そのあたりの事情をメモしておきたい。
その切っ掛けは、AIを使うようになったことにあると考えている。AIは、時に誤りを堂々と語るものの、人間を上回るより完全な知を提供してくれることを知った。そうすると、知識を持っているか否かは重要ではなくなり、従来型の知を所有するというやり方はほとんど意味がなくなる。それは自分の外にあると思った方がよいのである。2007年に観想生活に入る前から、外付けのハードディスクはわたしの記憶装置であると気づいてはいたが、考えることとの関連までには思いが至っていなかった。それでは、このような状況で問題になるのは一体何なのか。それは、どのような問いを出すのかに絞られてくる。問いを出した後は、自分で考えてもよいし、AIに相談してもよい。AIは思考過程を示しながら回答に至る道筋を明らかにしてくれる。つまり、思考を深めるためには、問いの出し方に創造性が求められることになる。そして、この繰り返しが思考の技術になると言ってもよいだろう。まさに、ガダマーが語っていたことの真の意味が見えてきた瞬間であった。
(2025年12月28日)
