2008年、癌のために亡くなったアイルランドの作家がいる。
彼女は脳腫瘍とその転移の治療を拒否して、68歳で逝った。癌と最後まで戦ったスーザン・ソンタグさん(Susan Sontag, 1933-2004) とは対照的である。亡くなる前のインタビュー記事はこちらで、肉声はこちらから聞くことができる。注意を惹いたところを以下に少しだけ紹介したい。
彼女はその6週間前まで幸せな生活を送っていたという。その時、右足に異常を感じニューヨークの病院で診断を受けた。その結果は、脳に2つの腫瘍があり、他にも広がっている転移性の癌であった。
不治であると告げられた時、ショックと恐怖と治療のことが頭に浮かんだ。治療をどうするのか。治療で感じるだろう自らの無力さ、恐怖、その結果得られる生の質などを考え、治療を断念する。
マンハッタンで手に入れたばかりの素晴らしいアパートも全く意味のないものになった。どんな芸術作品に触れても、それまで感じたマジックは消
え失せていた。死後の世界も神も信じることもできない。すべてが全く意味のないものに変わっていた。辛いのは、この世界から拒絶されたような孤独感である。
その彼女にとって人生で大切なもの、それは健康とreflectivenessだと答えている。
これから先に大きな希望をもって生活していた時だったため、尚更絶望を強く感じたのだろう。彼女の言葉 「人生で大切なものは、健康とreflectiveness」 は、本質を突いた深い分析から出ているように見える。
7年前のわたしは、reflectivenessを思慮深さとか熟考しようとすることと訳している。しかし、思慮深さとはどういうことを言うのか、熟考するとは何を言うのか。そのことを理解していたとは言い難い。
その後の7年余りの生活で reflection という営みの意味を体得したと感じているからだ。その経験からreflectivenessを日本語に変換するとすれば、次のようになるだろう。
第一に自らを振り返ること、そこから進んで自らを取り巻く世界について振り返ること。そのような状態であり、その状態を齎すことができる能力をも含めたい。
それでは、振り返るという作業を何を言うのか。それは、一つのテーマについて自らの記憶、人類の記憶を動員して大きな繋がりを見つけ出し、紡ぎ出すこと。そのテーマの周りに関連するものを大きな塊として作り出すことである。振り返るという作業、考えるという作業は、思い出すということを意識した営みなのである。
こちらでの8年の生活の中で体得したことの一つが、このことであった。こちらに来る前には想像もしていなかった収穫である。このことから次のフォルミュールを提出しておきたい。
「哲学とは言葉の意味を体得することである」
この視点から今の世の中を見ると、reflectivenessが著しく減弱しているように映る。本当に世の中が変わったのか、あるいは見る者の視点が変わっただけなのか、それは分からない。ただ、少なくとも今のわたしからは、この世が深みのない、何とも貧しい世界に見えるようになったことだけは言えそうである。
ところで、ヌアラさんを主人公にしたドキュメンタリー"Nuala"が2011年に発表されている。以下にそのトレーラーを。
(2015年9月9日)