科学の形而上学化(MOS)




当研究所では、科学の成果に対する向き合い方、さらに言えば、この世界の認識の方法として「科学の神学・形而上学化」(theologico-metaphysicalization of science: TMOS)、略して「科学の形而上学化」(metaphysicalization of science: MOS)と呼ぶ過程を重要視している。このような考えに至った歴史を振り返りながら、この方法について概説したい。

 パリ生活が1年ほど経過した2008年のある日、社会学の創始者で実証主義の提唱者でもあるオーギュスト・コント(1798-1857)が書いた『実証哲学講義』(1830-1842)の中で「3段階の法則」に遭遇した。この法則は人類の歴史を顧みることにより確立されたもので、人間の精神はヒトという種としても個人としても、神学的(theological)、形而上学的(metaphysical)、実証的(positive)の3段階を順に辿るというものであった。

 もう少し詳しく見ると、人間精神が辿る最初の段階は、神学的な虚構の世界で、この段階にいる人はすべての自然現象は想像や超自然的な活動によって説明できると考える。すなわち、自然界には存在しない、その外にある超越的なものが自然現象を支配しているとする精神世界である。この段階はさらに3つに分けられる。最初に、物体に超自然的な力が宿るとする呪物崇拝が現れ、その後多神教を経て一神教に至る。第2段階は形而上学的な世界で、超自然的な要素を排除して自然現象や社会現象を説明するために人間が考えた抽象的な概念を用いる。ただ、抽象的な概念の世界と現実世界との間には乖離が見られ、自然を観る時の新たな主人が神的で超自然的なものから人間の思考の産物に置き換わったに過ぎないとも言える。そのため、形而上学的段階は次の段階に至る過渡的なものと見なされた。そして、最後の実証的で科学的な第3段階が、人間精神が辿り着く最高の状態とされる。最終段階のポジティブな状態に対するネガティブな段階とはその前の形而上学的段階を指し、最高の段階に達するためにはそれを乗り越えなければならないとコントは考えたのである。この最終段階を体現する哲学が実証主義(positivism)だが、そこでは省察や直観から得られる形而上学的な知は拒否され、あくまでも観察や実験が尊重され、そこから法則を抽出しようという精神が働くことになった。

 コントは形而上学的精神の中に客観的な事実や観察を支配しようとする傲慢で危険な要素を見ており、その支配を逆転しなければならないと考えていた。フランス革命の中で見られた抽象的概念による思考の帰結を振り返った哲学者の1つの結論とも言えるだろうか。つまり、彼は哲学を科学と対峙するものとして捉え、健全な社会の発展のためには哲学を乗り越えた科学が確立されなければならないと考えていたことになる。コントの実証主義は20世紀初頭以降の科学の方向性を決定し、いまに至るまでの目覚ましい発展の基礎を築いたのである。

 コントの理論を最初に読んだ時にまず浮かんできた感想は、神学的あるいは形而上学的視点から自然を見直すことで新しい豊かな世界が開けるのではないかと感じたため、何ともったいないことをするのかというものだった。現代的な意味での科学の形が固まる前に生きたコントと、すでに実証主義で固められた科学の営みを経験したわたしとでは、受け止め方に違いがあるのは当然である。わたしの立場はコントやウィーン学団などが神学と形而上学を排除した以前の時代に戻そうとするものではない。あくまでもコントの理論の歴史的な意義を認めた上で、これからの科学、ひいては我々の知的世界の在り方という視点からコントの理論を発展させたいという願いに裏打ちされたものである。

 「科学の形而上学化」(MOS)には、3つの段階を想定している。第1段階は、考察の対象とする現象について科学が明らかにした事実をできるだけ広く集め、その全体から対象である現象を特徴づける要素、あるいはその基礎を成す本質的性質を炙り出すもので、「科学的抽出」 (scientific abstraction)の段階と名づけた。第2段階では、前段で明らかにされた要素や性質について、その背後にあると思われる哲学的・形而上学的概念、時に神学的概念を探索しながら、自然現象を幅広いパースペクティブに入れ直して省察を繰り返し、現象の根源的な性質を明らかにする。これを「哲学的省察」(philosophical reflection)の段階と呼び、ここで重要になるのは論理的な厳密さを失わないことである。このように形而下と形而上の2つの世界を視野に入れ、自在に行き来をすることは、単に科学の成果に向き合う時だけではなく、日常の出来事も含めたあらゆる「もの・こと」を理解しようとする時に、豊かで大きな力を生み出すのではないかと考えるようになったため、第3段階では「科学の形而上学化」が目指しているものの見方や思考方法の「普及」 (dissemination)が行われる。

 コントの「3段階の法則」に肖るとすれば、実証的な第3段階の先に第4段階として形而上学化された科学の段階が続くべきだという提案になり、「人間精神の4段階理論」と呼ぶこともできるだろう。そこで指摘されなければならない点は、第4段階で求められる精神世界の在り方が、単に各人の内的生活を豊かにする可能性があるだけではなく、現代社会が生み出している問題を解決するための必要条件になると考えられることである。


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「科学の形而上学化」の最初のアイディアは、2013年のエッセイ「 21 世紀の科学,あるいは新しい『知のエティック』」(医学のあゆみ 244: 572-576, 2013)で紹介し、その後も以下のようなエッセイにまとめています。

国境の町リールで、「科学の形而上学化」について再考する.医学のあゆみ 250: 1063-1068, 2014

● オーギュスト・コントの人類教、あるいは「科学の形而上学化」の精神.医学のあゆみ 258: 1085-1089, 2016

文化としての科学、あるいは「科学の形而上学化」の実践.医学のあゆみ 260: 187-191, 2017

徳認識論、あるいは「科学の形而上学化」の役割.医学のあゆみ 278: 180-183, 2021

● 「科学の形而上学化」を文化に、そして今なぜ改めて「科学精神」なのか.医学のあゆみ 279: 759-763, 2021 

また、拙著『免疫学者のパリ心景―新しい「知のエティック」を求めて』(医歯薬出版、2022)の第4章「科学と哲学の創造的関係を求めて」ではそれらをまとめる形でこの考えを提示しているので、参照していただければ幸いです。また、この考え方を用いて免疫という現象について省察を試みたものとして『免疫から哲学としての科学へ』(みすず書房、2023)があります。併せて、お読みいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

矢倉英隆

2023年12月29日


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自然のより深い認識に至る道としての MOS

 

上で概説したMOSの過程を以下のような簡単な図に眺めることができます。

 


そして、この図を頭の中で動かしている時、MOSという過程には別の含意があることが見えてきました。それは以下のような図が浮かんだ時でした。



生き方としての MOS




自らのこれまでの歩みも重なり、科学的事実を獲得する作業に関わる時期の後に、その事実を形而上学化する時期が続くというイメージでした。つまり、忙しく事実を追う科学者の時代を経て、それらの事実について省察・思惟する MOS の時代に移行するというものです。これは、科学者の一つの生き方として興味深いだけではなく、そのような scientist-philosophers が増えることにより、自然や社会に対する理解が深く豊かになることが想像できます。このような方向性で歩む人が増えることを願うばかりです。 

矢倉英隆

2024年4月4日

 

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MOS のもう一つの側面について


これまでMOSの方向性として強調してきたのは、科学が明らかにした成果について形而上学、歴史、神学などの視点を動員して省察する必要性であった。しかし、このような方向性には同時に、科学の営みそのものに対する批判的な視座も内包されている。それらを分析することは、これまで強調してきたMOSの営みが提示する現在の科学の範囲を超える「新しい科学」だけではなく、現在の科学が抱えている存在論的な問題点を炙り出し、それらを超克する「より緻密な科学」を創出する上で重要な貢献につながるはずである。その試みの概略をスケッチしておきたい。

まず、自然科学は価値中立的であり、形而上学とは一線を画しているという見方について考えてみたい。MOSの前提も、形而上学と決別したものとして科学を捉えるところにあった。しかし、実際にはどうであろうか。科学者が意識しているか否かは分からないが、自然科学を動かしている信念のようなもの(信仰とまでは言わないまでも)があるのではないだろうか。例えば、自然界は理性によって理解可能である、原因と結果から自然現象は説明可能であり、そこには法則性がある、それは数学的様式によって表現可能である、観察できるものが存在するものであり、観察可能なものだけを対象とする、など、科学には暗黙の前提があるように見える。

このような前提は、人類が歩む中で出来上がってきた歴史が刻まれた考え方である。例えば、ソクラテス以前の哲学者のヘラクレイトス(c.540-c.480 BC)はロゴス(理性・言葉・秩序)を世界の根本原理とし、ピタゴラス(582-496 BC)は「万物は数である」と考えていた。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)も「自然という書物は数学という言葉で書かれている」という見方を採っていた。これらは自然がどのように出来上がっているのかについての考え方を示す言葉であり、科学の前提・信念は科学そのものに内在する形而上学と言ってもよいのではないだろうか。 

このことは、意識されることが少ない科学の形而上学について、哲学的に省察することもMOSの大きな役割になるということを意味している。換言すれば、「科学の形而上学の形而上学化」(metaphysicalization of metaphysics of science: MOMOS)とでも言うべき試みになる。この形而上学化の過程においても哲学だけではなく、歴史、倫理、詩などを動員して当たることになる。具体的な問題として、量子論の確率的要素や非線形力学など必ずしも合理的には見えない自然が姿を現し、数式には表しきれない生命現象も明らかにされている。これらを問題にすることはすなわち、科学の暗黙の前提を問い直すことに繋がり、科学とはどういう営みなのか、さらに科学はどうあるべきなのかという根源的な思索へとわれわれを導くはずである。

このように、冒頭に掲げたMOSの2つの側面を追求することは、現在進行中の科学を批判的、発展的に認識するだけではなく、「形而上学的解析を含めた科学」という新しい科学の姿を模索する上でも重要なステップになるものと確信している。

矢倉英隆

2025年3月27日