1.9.11

ピエール・アドーさんによる 「生き方としての哲学」



ピエール・アドー(Pierre Hadot, 1922-2010)というフランスの哲学者がいる。昨年、わたしのモンペリエ滞在中に亡くなったことを知った。上に掲げた「生き方としての哲学」という対談本は、わたしがこちらに落ち着く前にパリを訪問した際に出遭ったものである。丁度滞在したホテルの隣にあったリブレリーで、生き方を模索していたその目に付いたのがこの本だった。読み始めてすぐに、わたしがそれまでに考えていたことをそのまま言葉にしてくれているように感じただけではなく、恰もわたしを後から押すかのような促しの言葉として飛び込んできたことを懐かしくもまた生々しく思い出す。この本の最終第10章は 「現在こそがわれわれの幸福」 となっている。改めて読み返してみた。

彼の原点は、若き日に本を読み、手術を繰り返す中で浮かんできた死について考えることだった。それは死へ向かうことではなく、死を想起することによってよりよく生きることができることを発見したことである。この世界を最後のものとして観ることによる視点の転換である。そして、過去を懐かしみ、あるいは悔むのでも、未来を思い悩み、あるいはそこに想いを託して向かうのでもない。今日、この一瞬に集中して、そのもののだけのために生きることを意識すること。その大切さに気付くことになった。これはエピクロス(紀元前341–270)と同時に、エピクロスを批判していたストア派の哲学者も勧めていた生き方である。この「現在への集中」はアドーさんの専売特許ではなく、ローマのストア派哲人政治家マルクス・アウレリウス (121-180)、モンテーニュ (1533-1592;「エセー」)、ルソー (1712-1778;「孤独な散歩者の夢想」)、そしてアドーさんが敬愛するゲーテ(1749-1832)など多くの哲学者や文学者が書いている。

モンテーニュは一日中何もしていないように見える人に向かってこう言っている。
「何ですって?あなたは生きているのですか?生きることは最も基本的であるだけではなく、最も素晴らしいあなたの仕事なのです」
アドーさんは「高みからの視点」についても語っている。古代人が山に登るのは、そこに山があるからでも、好奇心や楽しみのためでもなく、そこに神殿を作ることが目的だったという。高みに登るということは、人間を壮大な宇宙の中の置き直し、人間の弱さも含め人間とは何なのかについて考えることを余儀なくさせる。自己中心的な視点から抜け出し、普遍的な視点で考えざるを得なくなる。高みからの視点は公正さへの視点をも生み出すものである。ル・モンドの創業者であるユベール・ブーヴ・メリーさん(Hubert Beuve-Méry, 1902-1989)が使っていた「シリウスの視点」(le point de vue de Sirius) は、歴史家の客観性、公正さ、さらに自己を離れて普遍的な視点に自分を開いて行くこと、人間社会や宇宙における個人を意識することを意味していた。 

この二つの視点を得ることは哲学することと同義ではないかと考えている。問題はその視点を意識する機会に恵まれるかどうかに掛っている。アドーさんがそうであったように、わたしの場合も自分の死を初めて意識できた時にその視点が視界に入ってきた。随分と遅い気付きではあったが、その時が来ないことを考えると喜ばなければならないだろう。

最後に、この章のまとめとも言うべき一節を引用して終わりたい。
「現在に生きること、それはこの世界を最後であるものとしてのみならず初めてのものとして見るように生きることである。世界をあたかも初めて見るように努めること、それは型にはまった見方を排すること、現実を在るがままに見る、囚われることのない視点を取り戻すこと、日頃見逃 している世界の素晴らしさに気付くことである」 (p. 268)

(2011年9月6日)