「本章の冒頭で引用した免疫学の二人の先達が同様に指摘しているように、免疫学が生み出す成果には哲学的問題が溢れている。免疫という現象に内包されるこれらの問題は、すでに議論されているものだけではなく、新たに見出された事実のなかにも省察されてしかるべきものがあるだろう。わたしがとった方法は、免疫という現象の科学的解析から入り、そこで明らかになった成果のなかに潜んでいる哲学的テーマを探索し、その全体から免疫という自然現象について省察するというものであった。科学知を材料として、そこに含まれる最も根源的なものを抽出するという意味で、どこか錬金術師の精神を見るような思いでもあった。それは同時に、いまは忘れられている自然哲学に新たないのちを吹き込む試みだったといえるかもしれない。」
『免疫から哲学としての科学へ』(みすず書房、2023)p. 296
古代ギリシアのソクラテス以前の哲学者に起源があるとされる「自然哲学」(philosophia naturalis)は、自然を統一的に理解・説明しようとして世界の始原(アルケー)を探索する試みとして始まった。その後、近代の科学革命を経て自然科学は細部の分析に向かい、細分化が進行することになった結果、自然哲学は自然科学から排除され、後景に退いたかに見える。また哲学においても、自然哲学的アプローチは辺縁化していると言われる。
これが、現時点におけるわたしの中での大雑把な自然哲学の捉え方である。しかし、全体について統合的に見ることに興味がある立場から見れば、自然哲学を取り巻くこのような状況は望ましいものではない。そこから生まれた自然哲学を復活させなければならないという気持ちは、上の引用にも見て取れる。これから折に触れて、自然哲学についての考えを深めていくことにした。
(2025年1月5日)
◉ コリングウッドの自然――『自然の観念』を読む(2018.5.8~2023.2.13)
◉ ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』(白水社、1975)を読む(2025.8.20~)
◉ ファラデー科学宗教研究所所長グラハム・バッド博士との会話(2025.9.22)
ファラデー研究所のアプローチは、科学と哲学が分れていなかった過去に戻ること、すなわち自然哲学的態度を持つことだという。一つの問題を考える際に、科学だけではなく、宗教や哲学などの人文科学を動員して考えるという方向性を目指しているようである。イギリスで言えば、ニュートン(1642~1727)とかマイケル・ファラデー(1791~1867)などが代表例になる。この方向性は、自然哲学者の末裔と考えている者にとって、大きな力を与えてくれるものであった。
もう一つ指摘していたのは、実証的な事実を深く省察することにより、そこを超えた形而上学的・神学的な霊感を得ることができるということ。そのためには、思考がそのような志向性を持っていることが前提になるはずである。突然どこからともなく降りてくることなど期待できないだろう。いずれにせよ、示唆に富む会話となった。
◉ 拙著『免疫から哲学としての科学へ』(みすず書房、2023)の第5章のエピグラフとして、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861~1947)の以下の言葉を引用していたことを思い出した(2025.11.15)。
「すべての自然哲学者の人生を貫く座右銘は『単純さを求め、そしてそれを疑え』でなければならない」
Whitehead, A.N. The Concept of Nature. Tarner Lectures Delivered in Trinity College, November 1919. (Cambridge University Press, Cambridge, UK, 1920) 163
ホワイトヘッドは、イギリスで数学、論理学、物理学、科学哲学などを研究した後、63歳で招かれたハーバード大学で哲学を教えながら86歳で亡くなるまで独自の形而上学を展開した。その形而上学とは、この世界の実体は物質的なものではなくプロセスから構成され、他のプロセスとの相互作用によって明らかになるという独自の有機体の哲学で、それを『過程と実在』(1929)として結実させた。
上のエピグラフにあるように、自然を哲学するすべての者に向けて次のように訴えている。
"Seek simplicity and distrust it."(まず単純さを求め、その後にそれを疑え)
その真意は、科学が複雑な自然を分節化して解析し、単純化して説明することを目的としているため、我々は自然に関して科学が出した単純な結論を最終的なものであると錯覚しやすいことに注意を促すことであった。この言葉に則って考えるならば、まず科学を使って自然を単純化するが、それはあくまでも最初のステップであって、単純ならざる自然のより深い理解に至るためには科学が明らかにしたことを疑わなければならない。それは科学の成果を完全に捨てるということではなく、その成果について別の視点から考えなおさなければ自然の核心に迫ることができないと言っているのではないだろうか。科学の成果をもとにして、その先に見えるもの、科学を超えてさらに言えることを哲学や形而上学や歴史などの成果を動員して探究せよということではないだろうか。つまり、これまでに提出された哲学的概念を現代科学の成果に援用することにより、科学のなかでの議論にとどまるかぎり見えてこない側面や本質を明確に言語化できる可能性があり、そこを目指せというメッセージとしてわたしは受け止めた。この忠告は「科学の形而上学化」の精神と完全に重なるのである。
『免疫から哲学としての科学へ』p. 249
