27.1.14

6-SHE Sapporo 「技術」



第6回サイファイ・カフェSHE札幌 

ポスター 

テーマ: ハイデッガーとともに「技術」を考える
 今回は、現代では科学と不可分なものとして「科学技術」などと言われることが多い「技術」について考えます。20世紀の哲学者マルティン・ハイデッガーの思索を基に、科学、そして科学の「方法」が現代社会に及ぼしている目に見えない影響、技術、そして技術により「挑発」される自然と人間、さらに科学と技術の真の関係について考える予定です。ハイデッガーの考えは技術への問い(関口浩訳、平凡社、2013)などで知ることができます。
 いつものようにこの問題について講師が概説した後、参加された皆様に議論を展開していただき、懇親会においても継続されることを願っております。興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

日時: 2018年10月27日(土) 16:00~18:00 

会場: 札幌カフェ 5Fスペース
札幌市北区北8条西5丁目2-3 


参加費: 一般 1,000円、学生 無料
(飲み物は各自お持ちください)

(2018年8月24日) 

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会のまとめ





 今回は技術について考えることにした。この問題は多くの人が取り上げているが、ここでは全くの個人的な理由から、ハイデッガーを参照しながら考えることにした。その理由は、フランスに渡る1年ほど前の2006年、わたしの拙いフランス語ブログを全部読んだというフランスの哲学教師が、わたしはハイデッガーを愛するために存在しているとのコメントを送ってくれたからである。これまで、どうしてそうなのかよく分からなかった(確かめるための時間がなかった)が、今回読んでみて目の付け所が似ているのかもしれないと思った。例えば、彼は科学時代に見られる特徴として、思考の欠如を挙げている。あなたたちは考えていないと言われると反発したくもなるだろう。反発している人たちがやっていると思っているのは、一つのタイプの思考、すなわち計算に基づく思考、目的に向けた思考でしかないと彼は言っている。欠けているのは、ものそのものの意味を問うような瞑想的思考である。このような見方はわたしが提唱している意識の三層構造を思い浮かべると非常によく理解できる。彼の言う計算に基づく思考は意識の第二層におけるもので、瞑想的思考は第三層の開拓と動員が必要になるものと対応しているように見えるからである。

 「技術への問い」というエッセイの冒頭、「技術との自由な関係」という問題が提示される。それはどういうことなのだろうか。技術との自由な関係を結ぶためには、我々は技術の本質を掴まなければならない。その本質は技術的なものではなく、中立的なものとして技術を観察するという態度では本質には到達できないと言っている。科学的にいくら技術について解析しても本質は見えて来ず、本質が見えてこなければ技術にまともに対処できないということだろう。これは科学の成果の本質を捉まえるためには形而上学の動員が必要であるとする「科学の形而上学化」にも通じる考え方で、ここにも繋がりが感じられる。

 技術の本質を問う時、それがある目的のための手段であり、人間の活動であるという二つの要素が浮かび上がる。そこには、道具、機械の製作・利用、製作・利用されるもの、そして技術の必要性・目的があり、この全体を技術として捉えている。しかし、この道具的概念は正しいかもしれないが、まだ本質は露わになっていない、つまり真ではないという。技術の本質に達するためには、正しいものを通り抜けて真なるものを求めなければならないという。私流に解釈すれば、正しいものとは技術的で中立的なもので科学が明らかにするもの、それに対する真なるものとは本質的で「さらに問う」思索が求められるもので哲学が明らかにするものではないだろうか。真なるものに達するためには、「科学の形而上学化」が必要になるのだ。

 ここから、道具とは?手段とは?目的とは?原因とは?という「さらに問う」作業が展開する。原因については、アリストテレスの四原因説が長い間支配的であった。つまり、質料因(何かを作るための材料)、形相因(作るもののデザイン、アイディア)、作用因(それを実際に作ること)、目的因(何のために作るのか)の四つである。そこから原因とは作用を及ぼし結果を実現するもので、作用するとは結果を達成することと考えられてきた。ハイデッガーは言葉の解析からこの問題を考え直す。ラテン語の原因(causa)は古代ギリシアでは異なる意味を持っていたというのだ。それは「アイティオン」(他のものに責めを負うもの)を意味したが、道徳的な過失に対するものではなく、何かを誘い出して現前することに向かわせるもの、すなわち誘い出すことで責めを負うこと=「誘発すること」(Veranlassung)であった。これが因果性の本質だという。

 プラトンの『饗宴』によれば、現前していないもの(伏蔵)から現前(不伏蔵)へと進むものにとって、誘発とはポイエーシスである。ここで、「こちらへと・前へと・もたらすこと」 (Her-vor-bringen)=生み出すこと、という公式が成り立つ。伏蔵性から不伏蔵性へと仕向けるものが「開蔵」で、これは「真理」を意味する古代ギリシアの「アレーテイア」、ローマの「ヴェーリタース」にあたる。つまり、技術は開蔵に基づいていることを示している。さらに、ピュシス(自然=それ自らが立ち現れること)が最高のポイエーシスだとも言っている。

 技術という言葉は、ギリシア語のテクネ―に由来し、手仕事的な行為や技量だけではなく、芸術を意味している。それは、ポイエーシスに属する「何かポエティック(詩的)なもの」である。さらに重要なことは、プラトンの時代まで「テクネ―」は「エピステーメー」(ある事柄の前に立ち止まってそれを理解すること)と密接に関係し、何かに精通すること、何かに熟達することを意味していたことである。つまり、「開蔵」にも通じる最も広い意味での「知」を指す言葉であった。「開蔵」は対象の形相と質料をあらかじめ完全に知ることを前提とし、実際に手を動かすところ(作用)は二次的な部分に過ぎない。つまり、技術の本質は「開蔵」と「不伏蔵性」(アレーテイア)が起こる領域にあることになる。

 これまでに明らかにされた古典的な意味における技術は、その後どのように変容したのであろうか。ハイデッガーの観察によると、現代技術を支配している「開蔵」は昔のようなポイエーシス的なものではなく、「挑発」だという。自然に対して、エネルギーを引き渡せと要求する。「調達」(開発し、外に運び出し、別のものを促進すること)を要求するのである。この状態を「用象」(即座に使えるように手許にあり、さらに用立てるために用立てうる状態にあること)という言葉で表現しているが、この状態は自立的ではない。今や、人間の方が自然よりもより根源的に「用象」の状態にあり、自然エネルギーを開発するように「挑発」されていると見ている。

 現代技術のこの本質をハイデッガーは「集立」(ゲシュテル:Gestell)とした。これは、現実的なものを用立てという仕方で「用象」として「開蔵」するように人間を「挑発」(調達)するもので、技術的なものではない。問題は、人間はすでに「集立」の本質の中に立ち、何かをするように導かれ、自らも引き出される資源の一つになりうることである。 つまり、人間であることが先にあって技術に向き合うのではなく、最初から「集立」の構図の中に置かれ、原初的な意味での「開蔵」(真理への問いかけ)に向き合うことが困難になっているだけではなく、その状態が見えないことである。現代技術の危険性は技術そのものではなく、技術の本質の中にあったのである。

 ハイデッガーは『芸術の由来と思索の使命』において、ニーチェの次の言葉を引用している。
我々の十九世紀を特徴づけるのは科学(Wissenschaft)の勝利ではなく、科学に対する科学的な方法(Methode)の勝利である。
ハイデッガーの解釈は次のようなものだ。「方法」とは研究対象の領野を扱うための手段(Instrument)ではない。研究に先んじて、その領野が対象をどのように取り出すのか、その取り出し方のことである。それは、実験によって到達でき、検証可能であるようなあらゆるものの普遍的な算定可能性である。つまり、科学に対するこの方法の勝利は、物理学者のマックス・プランクがいみじくも言ったように、「現実的なものとは、測定されうるもの」であり、真に現実的なものは科学的に証明可能なものだけという決定に導く。「方法」とは、世界を人間にとっての普遍的な処理可能性へと向けて挑発することである。

 ハイデッガーは「技術は科学の応用であり、科学は技術の基礎である」というテーゼを否定し、技術は知であり、技術に基づいて科学が展開すると考えていた。歴史的経過を見ると科学は先駆者ではあるが、それは技術の先駆者ではなく、「集立」を先触れする現代技術の本質の先駆者であった。つまり、科学の中に技術の本質がすでに表れていたということになる。このことから、原初的なものは人間には最後になって示される、というフォルミュールを引き出し、原初的に思索されたものを一層原初的に、徹底的に思索する努力が必要であると説いている。これはわたしにとっては重要な指摘であると感じながら読んでいた。

 最後に、役に立たないものの有用性についてハイデッガーが考えていたことを紹介した。科学時代は役に立つものが優位な時代である。そこで、役に立たないとされるもの(哲学や文学など?)は何をすべきで、何をなしうるのか?そこからは何も実用的なことはなされない。しかし、それこそが事物の意義だという。事物の意義を沈思する省察は実用的な利益は何も生み出さないが、事物の意義は最も必要なものである。なぜなら、それなしには役立つものも意義を失い、役立つこともないからだ。そして、役に立たないということは、それ故に他のものから侵食されることなく持続するという特質がある。それこそが偉大さと決定的な力を与えるのである。そして、役に立たないことを恥ずべきではないとも言っている。

 このテーマに関連して、鶴見俊輔氏の「積極的能力」と「消極的能力」について簡単に触れた。「積極的能力」とは、戦争などにおいて爆弾などを発明するなどして積極的に貢献する能力で、「消極的能力」とは戦争について記憶する、枠の外に在る文学者や歴史家が持っている能力を指している。鶴見氏は、人類の未来は「消極的能力」にかかっていると考えていた。哲学などが役立つように振舞う時、哲学が本来持っている何か重要なものが失われるように感じられるのは、わたしだけだろうか。

 今回もお忙しい中参加していただき、懇親会に至るまで議論を展開していただいた皆様に改めて感謝いたします。今後ともご理解のほど、よろしくお願いいたします。




フォトギャラリー

長谷川氏のスマートフォンで撮影した


(2018年11月1日)