マルセル・コンシュ MARCEL CONCHE (I) ――2006.9.25
二三ヶ月前だろうか、IFJ のメディアテークに行ったところ新しい雑誌に目が行った。PHILOSOPHIE MAGAZINE という哲学雑誌である。いくつか面白そうな記事があったが、モンテーニュを師と仰ぐ、無神論者 athée (この言葉については異議があるようだが) のこの人について読んでみることにした。
マルセル・コンシュ MARCEL CONCHE (27 mars 1922 - )
御年、84歳。今年に入って Avec des « si ». Journal étrange という新しい本を出したのを機に、アン県 Ain の自宅でインタビューを受けている。タイトルは、« La mort ne peut plus m'enlever ma vie » (「死はもはや私の人生を奪うことはできない」) となっている。印象に残った件を数回に分けて紹介したい。
---------------------------------------
「自ら哲学する」 とは、まず最初に根底を揺るがすような一つの経験に動揺し、圧倒されることである。ショーペンハウアーは、すべての哲学はただ一つの (特異な) 考えを発展させたものにしか過ぎないと言っているし、ベルグソンもその考えを引き継いだ。
Philosopher par soi-même, cela veut dire être initialement voulversé par une expérience fondamentale. Schopenhauer a dit que toute philosophie n'était que le dévelopement d'une unique pensée. Bergson a repis cette idée.
私の哲学の元になった経験は、アウシュビッツや広島の子供たちの苦しみを絶対悪 (mal absolu) 、すなわちどんな視点からも正当化できないものとして自覚したことと関係している。それは神の存在を疑わせるのに充分ではないか。私は神学哲学者 philosophes théologiens や神の正当化を非難するが、啓示を信じる人に私の非難は向かわない。
私はキリスト教の中で育ったが、信じることなく早い時期から神学的な世界の見方を拒否していた。それで青春時代に哲学に傾斜していった。
哲学とは、人間の理性のなせる技で神に出会いようがない。それゆえ、真の哲学はギリシャのものである。神なき精神性。デカルト、カント、ヘーゲルなどはキリスト教信者で、信仰を見つけるために理性を用いた人たちである。その意味で、彼らは影響力から言っても偉大な思想家ではあるが、真の哲学者とは私は考えていない。近代の真の哲学者はモンテーニュである。彼は信仰と全く離れて、特に当時の社会に浸透していた一神教から全く独立した視点で作品を書いた。
La philosophie, c'est l'œuvre de la raison humaine et elle ne peut pas rencontrer Dieu. C'est pourquoi la vraie philosophie est grecque. La spiritualité sans Dieu. Les philosophes de l'époche moderne -- Descartes, Kant, Hegel -- sont des chrétiens qui utilisent la raison pour retrouver une foi pré-donnée. Je ne les considère pas comme des philosophes authentiques. Ce sont de grands penseurs par leur influence. Mais le vrai philosophe de l'époche moderne, c'est Montaigne. Il a écrit son œuvre dans une grande indépendence à l'égard des croyances collectives, notamment à l'égard de la croyance monothéiste qui imbibait la société.
---------------------------------------
彼が無神論者という言葉に抵抗があるのは以下の理由による。
J'hésite, cependant, à me dire athée, car le mot "Dieu" a peu à peu perdu, pour moi, toute signification. Il me paraît sans objet, et je ne cois pas qu'il y ait lieu de nier ce qui n'est rien." ("Le destin de solitude")
「しかし私は自らを無神論者と言うことに躊躇を感じる。なぜなら、「神」 という言葉が私にとって徐々にそのすべての意味を失ってきたからだ。それは私には根拠のないものに見え、したがって実体のないものを否定する理由はないと考える。」 (「孤独の運命」から)
(II) ――2006.9.26
デカルト、カント、ヘーゲルは、形而上学としての哲学を理解していなかった。彼らにとって哲学とは科学の形態をとっていなければならなかった。それは根本的な誤りである。なぜなら、形而上学としての哲学は、すべての実在についての真実を発見する試み (la tentative) であり、科学の本性とは異なっている。哲学の本質は試みること (un essai) であり、何かを所有・把握すること (possession) ではない。形而上学とは何かを証明すること (démonstration) ではなく、瞑想・沈思黙考すること (méditation) である。形而上学で確認・肯定することは、いつでも変わりうる意見 (opinions) ではなく、真の体験から生れた信念 (convictions vécues) である。
これまでにも 「哲学と科学」 の対立や 「研究と瞑想」 の違いについて考えが及んでいた。哲学と科学ははっきりと異なるものであることが、彼の言葉からよくわかる。最近、瞑想の世界に遊ぶ機会が増えているが、そういう時には科学的思考から離れる傾向が強くなるように感じる。ある意味、科学を進める上で邪魔になるようにも思える。しかし、この両者をうまく結び付けられないか、少なくとも両方の立場を意識しながら思索を続け、どこかの高みに辿り着かないかという途方もない願いも芽生えてくる。
彼は、体系立ったもの、ドグマ、認知された哲学というようなものを信じない。懐疑主義者 (sceptique) である。そして彼の哲学は常に発展し、発展しながら一貫性を求めているという。それから自然を第一に考えている naturaliste ようだ。
私にとって絶対的なものは自然である。物質という概念は私にとっては不十分に見える。物質の創造性を考えるのは難しい。そこに自然の天才がなければならない。原因だけであれば、この世は何とつまらないものだろう。原因が結果を生み出す過程は単純な繰り返しではなく、そこには革新 (innovation) がある。そこに、エピキュロス Epicure は原子のいたずらが働く空間 (l'espèce d'espièglerie de l'atome) を想像していた。
自然は原因の連続 (enchaînement ou concaténation de causes) としてではなく、即興 (improvisation) として理解すべきものである。自然は詩人なのである。自然を詩的に捉えなければならない。この見方はソクラテス以前の自然主義哲学者に最も近いベルグソンに通じるものである。
このような考え方になったのは、子供の頃から農民として働いていた私の育ちと関係がある。この自然との関係は、私にとって根源的な (foncier, constitutif) ものである。大学以降の抽象的な哲学の影響でこのことを忘れていたが、モンテーニュのお陰で自然との関係の上に成り立つ私の存在の根の部分に再び触れることになった。
(III) ――2006.9.27
Philosophie Magazine: あなたは熱烈な平和主義者ですが、その平和主義は個人的な倫理の問題なのか、あなたが絶対的なものという道徳に関わることなのでしょうか?
Marcel Conche: 私はそれがどんなものであれ、いかなる戦争にも参加しない。正義の戦争があると考える罠には嵌らない。正義の爆弾と不正儀の爆弾がわからない子供のように、私はそれを区別することを拒む。しかし、もし敵が国境に迫っていたらどうするか。そこでは平和主義のプロパガンダをする権利は私にはない。なぜならそれは普遍的なものだから。敵がそこにいたら平和主義は自己矛盾に陥る。敵に組することで (おそらく、道徳に従うと他人を人間として敬うことになるので) その普遍性を失うからだ。しかし私は個人的に平和主義に徹する。私の立場は普遍的になりうるが、普遍化し得ないので抽象的で矛盾するものである。基本的に政治的人間のすることは平和を実現すること。ドゴールはそのことをよく理解していた。戦争を輸出して民主主義を実現しようとするのは犯罪である (Vouloir réaliser la démocratie en l'exportant par la guerre, c'est criminel)。
PM: あなたの歴史との関係は、矛盾しているように見えます。一方で、あなたの哲学を導いたのは世紀の極度の不安定さであると言い、他方哲学者はその時代を考慮に入れてはいけないと言っておられます。真の人生は歴史性のないもの (anhistorique) なのでしょうか。
MC: その点についてですが、行動 (l'action) と活動 (l'activité) とは区別しなければならないと思います。哲学者は行動する人である必要はありません。哲学者は行動する必要はなく、考えなければならないのです。一度に両方をやるのは難しい。老子 Lao-tseu (Lao Zi) の 「道徳経」 (Tao Te King) では両者の違いが根本的なものとして書かれている。行動に参加しなくても活動的でいることができる。その活動は創造的自発性 une spontanéité créatrice からなっている。私が教師をしている時は行動することに縛られていた (J'étais assujetti à une action) が、今は一日を即興的に過ごす (J'improvise mes journées)。まるで生きるということが (日々を) 詩的にすることであるかのように (Comme si vivre, c'était poétiser ...)。
活動とは、驚きや予想もしないことに委ねることが多くなる。もし真の人生が社会の出来事の中にあると考えるならば、それはヘーゲル的になる。社会の中の誰かとして自らを捉えることになる。もしあなたが詩人ならば、現実的になるためには編集作業 (詩的な心の状態を現実に戻す作業?) が必要になるだろう。ただ私はそれとは違う見方をしたい。それは、他人との関係において微妙なニュアンスを加えなければならないということである。人生の実体は友情のニュアンス、愛情のニュアンスでなっている (La substantialité de la vie est faite des nuances de l'amitié, de l'amour)。私の年になると愛情と言っても性とは無縁であるが (A mon âge, l'amour s'est purifié de la sexualité...)。
余り性急にあなたにレッテルを貼る人は信用すべきではない (Ceux qui vous cataloguent trop rapidement, il faut s'en méfier)。私の無神論にしても、それがアンチ・キリスト教になるわけではないのだから (Mon athéisme ne me rend pas antichrétien)。私の妻はカソリックだった。人をじっくり見ることの方が信仰や意見より重要である (Le discernement de la personne est plus essentiel que toutes les croyances et opinions)。このことは、左右の対立の中でしばしば忘れられることである。そこには人格の化石化 (une fossilisation des personnalités) が行われており、そういう固定化の中には真の人生はない。
PM: あなたの新著 "Journal étrange" で、今日突然死が襲ってきても最早人生を奪うものではないと言っていますが・・。
MC: 今や平均寿命が男で77歳、女で83歳にまでなっている。私は84歳まで生きているので今日死んでも失うものは何もない。死はもはや私から人生を奪うことはできない (La mort ne peut plus m'enlever ma vie)。エピキュロス Epicure は死の後には何もないと言っている。しかし死 (la mort) と死ぬこと (le mourir) とは別物である。どんな死に目に会うのかはわからない。それゆえモンテーニュをも悩ませていて、彼は気付かないうちに死ぬことを望んでいた。
数日前に発見したエミール・シオラン Emile Cioran がパリのオデオン通りで会った94歳の女性の話を語っている。彼女は死ぬことは何も怖くない、ただこのオデオン通りと別れなければならないのが辛い、と言ったという。人間は死後が怖いのではなく、今まで最も執着し、愛着を覚えていた人生に別れを告げなければならないことに恐れを感じるのではないか、とシオランは言っている。