Evan Thompson "Mind in Life"






2026.1.22

これから折に触れて、Evan Thompson(1962-)の Mind in Life(Harvard UP, 2007)を読むことにしたい

著者のエヴァン・トンプソンは、認知科学現象学心の哲学がご専門のブリティッシュコロンビア大学哲学教授で、仏教に関する著作もあるようだ

本書の副題は、「生物学、現象学、および心の科学」となっている

序を読むと、生命と心との連続性がテーマだという

生命の在るところには心があり、心の構築の特徴は生命のそれと重なる

その特徴とは自己組織化で、生命においてはすでに認知を含意している

そこから心的生命は身体的生命であり、世界に属している

心的生命の起源は脳にあるだけでなく、身体や環境に広がっている

本書において、生物学、現象学、心理学、神経科学の成果を用いて、生命と心――特に、経験や主観性という現象学的な側面――の関係に調和をもたらそうとしている

それは、意識や主観的経験と、脳や身体との関係がどうなっているのかという説明のギャップと言われる問題に向き合うためである

ただし、この問題に対する概念的な分析をしたり、意識に関する新規の理論やモデルを提唱したり、意識と自然を統合するような形而上学的推論をするものではない

むしろ、そのために必要になる経験の構造について、より豊かな現象学的説明をしたり、それに対する科学的説明をすることであり、現象学が心理学、神経科学、生物学と交渉を持つことである

つまり、経験の現象学的解析を、生命と心の科学的解析との相互に啓発し合う関係に導くことが本書の目的になる


本書の意図を読むと、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の「免疫は心的要素を包摂する」という主張と響きあうところがある

ここで心と言われているところを免疫に置き換えれば、それがよく分る

ただ、疑問符が付く話も出てきそうな予感がする

いずれにせよ、どのような議論が展開するのか、興味をもって見守りたい



2026.1.28

第1部は「エナクティブ・アプローチ」となっていて、以下の4つの章に分けられている

第1章 認知科学と人間の経験

第2章 現象学的結びつき

第3章 自律と創発

第4章 行動の構造


まず、第1章から始めたい

認知科学の歴史は非常に浅く、こちらも若い免疫学が1世紀以上前に始まったとすれば、それより半世紀から1世紀遅れの学問である

この言葉を耳にするようになったのは20世紀後半のことになるが、心についての学問はプラトンやアリストテレスにまで遡ることができる

この点も、免疫現象がペロポネソス戦争(431-404 BCE)の時に観察されていることと似ていると言えるだろう

認知科学は、心理学、神経科学、言語学、コンピュータサイエンス、AI、哲学などが統合されたプログラムで、認知の原理やメカニズムを解明することを目的としている

しかし、認知科学は認知を研究してはいるが、感情や愛情、動機付けや意識などの主観的な領域についての理解を深めるところには至っていない

その理由を探るため、著者は1950年代からの認知科学の歴史を振り返る

そこで明らかになるのは、3つのアプローチだという

第1は認知主義(cognitivism)で、著者によれば、心をコンピュータとして捉えるもので、1950年代から70年代に優勢だったもの

第2はコネクショニズム(connectionism)で、心をニューラルネットワークとして捉えるもので、80年代に認知主義に挑戦を始めた

第3は身体化された動態論(embodied dynamicism)で、心は身体が環境と相互作用し続ける絶え間ないプロセスの中にのみ存在するという考えで、90年代から出始めた

これからそれぞれの流れを詳しく見ていくようである


2026.2.3

今日は、認知主義(cognitivism)とは何をいうのかについて、トンプソンの説明を聞いてみることにしたい

認知科学は、行動主義心理学に抗するものとして、1950年代に始まった

その中心には心のコンピュータモデルが据えられ、認知を情報処理過程とするものである

行動主義がインプットとアウトプットだけで判断するのに対して、認知主義はそこで抜けていた内的状態の重要性を説いた

そしてコンピュータ同様、心的プロセスは脳における表象の操作によって行われていると考えたのである

外から入ってきた感覚刺激が表象に変換され、それを操作することによってインプットに対する解決策をアウトプットするという説明をする

これは心の哲学の機能主義と結びついており、何でできているか(ハードウェア)ではなく、何をしているのか(ソフトウェア)が心には重要だと考える

そのため、認知は脳だけが担うというところから離れることになる

コンピュータモデルに当てはまるものがあれば、それは認知ということになる

例えば、身体に拡張された「身体化された認知」(embodied cognition)、環境へも拡張された「拡張された認知」(extended cognition)、さらに文化的遺産にも依存する「文化的認知」(cultural cognition)などへと展開している

そこでは認知が意識(主観的現象)とは切断されることになる

説明のギャップ」は埋まらないままで、新たにコンピュータの心と人間の心との関係を問う「心心問題」まで生まれることになったという

今日の流れは、わたしの免疫論とも通底しており、参考になるところ大である

今後の議論から目が離せなくなってきた



2026.2.6

本日は、1980年代から出てきた心的過程をニューラルネットワークとして捉える「コネクショニズ」(connectionism)から見ていきたい

これは、認知を単純なユニット間の結合パターンの動的変化と捉えるもので、それまで優勢だった認知主義(cognitivism)が心を脳の中に閉じ込めたのに対し、認知過程と環境との関係にまで広げるダイナミックな見方である

すなわち、言語や論理をもたない存在にも認知を認めるもので、生物界に広く存在することになるだけではなく、生態系にもつながる可能性を持っている

わたしが免疫論で展開した議論は、コネクショニズムと親和性が高いとも言えそうである

ただ、この考え方でも「説明のギャップ」は埋まらないままである


3番目に、前出の2つの理論に対抗する形で1990年代から出てきた「身体化された動的認知」(embodied dynamicism)について検討する

基本的には、心を脳に存在するニューラルネットワークとして捉えるのではなく、脳、身体、環境を巻き込んだ「身体化された」システムとして捉えるものである

この場合、インプットはその後の反応を指示するものとしてではなく、システムの動態に対する乱れとして捉えられる

また、内的状態についても外界の表象としてではなく、乱れに誘発された自己組織化として理解される

この考え方が提出された1990年代と言えば、例えば、1990年のフランシス・クリック(1916-2004)とクリストフ・コッホ(1956-)による「意識に相関した脳活動」(NCC)の提唱や、1995年のデイヴィッド・チャーマーズ(1966-)による「意識のハードプロブレム」の指摘などがあり、意識に対する新たな興味が醸成された時期とも重なっている 


2026.2.8

本日は、第1章「認知科学と人間の経験」の最終節「エナクティブ・アプローチ」を読むことにしたい

フランシスコ・ヴァレラ(1946-2001)は、スペインの詩人アントニオ・マチャード(1875-1939)の次の有名な詩を引用して「エナクティブ・アプローチ」の本質を指摘している
Caminante, no hay camino,
se hace camino al andar. 
旅人よ、道などない
歩くことで道は作られるのだ

Wanderer, the road is your footsteps, nothing else;

you lay down a path in walking.


世界は最初から意味づけられているのではなく、行為によって意味のある世界が生じる

それが認知の本質だという主張である

「エナクティブ・アプローチ」という言葉は、ヴァレラ、トンプソン、ロッシュの1991年の著作 The Embodied Mind(『身体化された心』)の中で紹介されたものである

この言葉は、いくつかの考えを統合する狙いがある

第1は、生物は自律性があり、自らの認知領域を積極的に生成する

第2は、神経系はダイナミックな自律的システムで、計算理論のように情報を処理するのではなく、意味を生成する

第3は、認知とは、状況の中に置かれ、身体化された行動において発揮され、知覚と行動が繰り返す感覚運動パターンから立ち現れてくる。それは、内因的でダイナミックな神経活動パターンの形成を「修飾」させはするが、「決定」するものではない。

第4は、認知的存在の世界は、その脳によって内部的に表象される、事前に指定された外部の領域ではなく、その存在の自律的な行為と環境とのカプリングによってもたらされる関係性の領域である

 第5は、経験は心に理解にとって中心的なもので、現象学的に注意深く研究する必要がある

本書のモチベーションは、エナクティブ・アプローチが自我や主観性を説明することにより、説明のギャップを埋めることができるのかというところにある

そのためには、生物学、神経科学、心理学、哲学、現象学などに知を統合しなければならないだろう

これからの議論を貫く糸は、フッサール(1859-1938)によって始まり、メルロー=ポンティ(1908-1961)によって展開された現象学の伝統である

科学が「生きられた経験」(lived experience)や主観性などを解析しようとすると、現象学が欠かせない

この共同作業は、現象学の自然化にとっても重要になる

エナクティブ・アプローチと現象学が扱う心は、世界を造る(捏造する)のではなく、注意を向ける、明らかにするものである

心の志向性により世界が明かされるのである

主観性と意識、自律性と志向性、これらは心と生命をつなぐものでもある


 2026.2.11

今日から、本書を貫く現象学のテーマを概観する第2章「現象学的結びつき」に入る

現象学が重要になる理由として、以下の2つを挙げている

第1に、人間の心を理解しようとすれば、意識や主観性を問題にしなければならないが、現象学は生の経験を記述、分析、解釈することに根ざしていること

第2に、エナクティブ・アプローチでは、心の解析に生きたオーガニズムや身体が重要になるが、フッサール(1859-1938)やメルロー=ポンティ(1908-1961)の流れをくむ現象学は、生きた身体の哲学であること

これらの理由から、現象学が主観性や意識の研究を導き、成果の意義について哲学的フレームワークを提供する可能性があるとしている

本章の目的は2つある

第1は、フッサール現象学の中心概念、特に現象学的還元(経験の研究方法)と志向性について紹介すること

第2は、現象学の3つの相――静的(static)、遺伝的(genetic)、生成的現象学(generative)――を概観すること

(1)静的現象学とは、意識の構造を対象と対象に対する志向性を、時間的な生成過程を考慮に入れずに解析する

(2)遺伝的現象学は、志向性と対象との関係が時間経過とともにどのように現れるのかを解析する

例えば、ある経験が後にどのように動機づけするのかという視点から解析する

経験は「沈殿」する構造を持つが、その研究には生身の身体と時間意識が重要になる

(3)生成的現象学においては、経験の文化的、歴史的、間主観的成り立ちが重要になる


2026.2.12

今日から、本書を貫く現象学のテーマを概観する第2章「現象学的結びつき」に入る

現象学が重要になる理由として、以下の2つを挙げている

第1に、人間の心を理解しようとすれば、意識や主観性を問題にしなければならないが、現象学は生の経験を記述、分析、解釈することに根ざしていること

第2に、エナクティブ・アプローチでは、心の解析に生きたオーガニズムや身体が重要になるが、フッサール(1859-1938)やメルロー=ポンティ(1908-1961)の流れをくむ現象学は、生きた身体の哲学であること

これらの理由から、現象学が主観性や意識の研究を導き、成果の意義について哲学的フレームワークを提供する可能性があるとしている

本章の目的は2つある

第1は、フッサール現象学の中心概念、特に現象学的還元(経験の研究方法)と志向性について紹介すること

第2は、現象学の3つの相――静的(static)、遺伝的(genetic)、生成的現象学(generative)――を概観すること

(1)静的現象学とは、意識の構造を対象と対象に対する志向性を、時間的な生成過程を考慮に入れずに解析する

(2)遺伝的現象学は、志向性と対象との関係が時間経過とともにどのように現れるのかを解析する

例えば、ある経験が後にどのように動機づけするのかという視点から解析する

経験は「沈殿」する構造を持つが、その研究には生身の身体と時間意識が重要になる

(3)生成的現象学においては、経験の文化的、歴史的、間主観的成り立ちが重要になる


2026.3.1

久しぶりに、Mind in Life を読むことにしたい

第2章「現象学的結びつき」の第2節「志向性」(intentionality)である

現象学によれば、意識とは何かに「向かう」あるいは何かを「意図する」という意味で、「志向的」である

これは何かをしようとする時に目的を持つというような意味合いではない

もちろん、それも志向性の一部ではあるのだが、、

「志向性」とは、それ自身を超えて指し示すという意識特有の現象に対する言葉である

語源的には、「弓を弾く」あるいは「標的を狙う」という意味のラテン語 intendere に由来する

狭義には、対象に向かうものとしての志向性を指すが、広義には、世界に開かれていること、あるいは他者であること=他者性(alterity)を意味する

いずれの場合も、意識が自己に閉じていることを否定している


「対象に向かう」における対象とは、元々は我々の前にあるものという意味である

自身を超えたところにあるものを意識することが、狭義の志向性で、対象となるものは身の回りにあるものでも、過去の出来事でも、未来のことでも、あるいは存在しないものについてでもよい

日常に感じる感情や感覚、気分のようなものは対象に向かう志向性とはなりえない

ただ、その感情や気分が世界に開かれている場合には――例えば共感など――広義の志向性に入るものがある


現象学において、志向的経験は心的行為(mental acts)と記述される

その行為は内省など内的に閉じているものではない

また、主体と対象とが分れているのではなく、関係性の中にある

志向性は、相関関係にある(correlational)――主体の行為と対象とを一体として捉えられる――と言われる

フッサール(1859-1938)の現象学では、対象に当たるものをノエマ(noema)、対象に向かう心的行為をノエシス(noesis)と呼ぶ


ここで、現象学が言う志向性と、心の哲学が言う「心的表象」(mental representation)の関係を見ておきたい

心的表象とは、意味の性質(内容、真理の条件など)を伴う心的構造(概念、思想、映像など)のことで、通常、認知の対象ではなく、それによって認知したり、世界における何かを認識するものを指す

両者の違いは以下の点でも見られる

現象学における志向性の経験は、内容を持った状態ではなく、方向性を持つ行為であること

現象学における re-presentation は、今は存在していないものを心的に呼び覚ますという心的行為に限られること

このように、現象学においては、感覚による受容を示す presentation と re-presentation は明確に区別される