マルセル・コンシュ著『形而上学』の第1章では、「哲学者になる」とはどういうことなのかを論じている
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普通の人は、仕事をして社会における役割を果たしている
自らの状況や人間とは何かなどの問いには向き合うことなく
それに対して哲学者は、社会から距離を取り、孤独の中にいるという選択をする
哲学者と哲学研究者との違いもここで明らかになる
哲学研究者とは学生の相手をするという社会的な仕事をしている普通の人なのである
コンシュ氏によれば、哲学とは社会の要求に応えるものではないという
人間の問題とは、もの・ことの全体における人間の意味である
現実の政治的決断や歴史には何の関係もない
それから、哲学とは宗教が思考に影響を与えないところでのみ存在し得るとしている
そのような状態にあったのは、古代ギリシアしかない
子供の精神を縛ることなく、自由に思考できるようにしていたからである
前もって与えられた「真理」がなかったのである
その意味では、哲学者になるということは、古代ギリシア人になるということである
近代の哲学は、デカルトもカントもヘーゲルも「神学化された」哲学であった
しかし、宗教との和解は哲学と真理を犠牲にしたのである
哲学者は次のようなものから離れなければならない
欲望、名誉、金銭、栄光、意見、幸福、気晴らし
ただ、哲学者の孤独は人がいる中での孤独である
自分自身との会話があり、過去や現在の哲学者との会話もある
ご本人もいろいろな哲学者について書いてきた
しかし、読み過ぎると人文科学や博識の中に入り込み、哲学者から離れることになる
勿論、研究することを否定しているのではない
哲学的活動を阻害するものから離れよ、と言っているに過ぎない
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しかし、すべての社会において哲学が一つの回答を与えることができるわけではない。
哲学は、宗教が思考に対して優先的に権利を行使していないところでしか存在し得ない。
このような状態はギリシアで、そしておそらくギリシアだけで突然出現したのである。
なぜならギリシアでは、聖職者が真理そのものの探究――それが哲学である――を排除する「信仰の真理」を教えなかったからである。
聖職者は、子供の精神を思考のために自由にさせたのである。
従って、哲学者になるとは、ある意味でギリシア人になることである。
前もって与えられた真理なしに――すでに決められた「人生の意味」なしに――人生に取り組むギリシア的なやり方への回帰。
これを近代の主要な哲学者はやらなかった。
そのため、デカルト、カント、ヘーゲル、そして彼らの弟子や先人には、神学化された哲学しかない。
彼らは哲学と宗教の和解を行ったが、このような和解は常に哲学と真理の犠牲の上に起こるのである。
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しかし、精神をギリシアのように自由に開くところに回帰することが哲学に仕向けるとしても、真に哲学するためにはまだ、それがどれだけ必要であるとしても、精神が本質的でない活動に過剰に打ち込むことのないように警戒しなければならないと、わたしは言った。
まさに、それが必要であるとなった途端に、如何にその活動に没頭しないかなのである。
もし哲学者に財産がない場合、物乞いに出かけるのか。
シオランはそれができたが、わたしにはできなかった。
わたしは仕事をしなければならず、仕事の中に、そしてこの仕事に対する愛の中に我を忘れていた。
哲学者はその動物的側面の影響により、必要なものには必然的に自己を忘れる。
欲求に自己を忘れることは避けられる。
エピクロスは、愛を欲することは自然ではあるが、それは必要なものではないと言った。
しかも、他のすべての自己喪失は避けられる。
例えば、才能に我を忘れること。
わたしが芸術家の才能を持っていたとした場合、芸術の領域で名を成したいという誘惑に抗することができただろうか。
例えば、名誉、金銭、栄光のような満足感の中に我を忘れること。
あるいは、意見に我を忘れること。
集団の気分の風が一瞬でも我々に共有されるような何らかの意見を主張するために、我々が時間とエネルギーを消費する時。
あるいはまた、幸福に我を忘れること。
日常生活の楽しみに身を任せ、努力を要し、困難や痛みや絶望さえも齎しかねない省察を行わない時。
あるいは、気晴らしに我を忘れること。
絵やゲームあるいはテレビシリーズを前にして、あるいは観光旅行の楽しみの中で、人々の心は貧しさの中に傷付くのである。
もっともわたしが今言ったすべてのことは、パスカルが「気晴らし」という言葉の中に込めている。
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ここに書かれていることはわたしも考えたことがあり、5年前のエッセイでも取り上げている
「意識の第三層」、あるいはパスカルの「気晴らし」(2016.7.9)
このエッセイも好きなものの一つであると同時に、わたしにとって重要なものとなっている
コンシュさんの考えによれば、哲学者は何をするのかよりも、何をしないのかの方が重要になる
つまり、本質的なことに打ち込むために、それ以外のことを捨てなければならないという
これは言うは易く、行うは難しである
パスカルにとって本質的なものは神だったので、コンシュさんに言わせれば哲学者ではないとなるのかもしれない
この見方によると、哲学者とはそれぞれが本質的だと思うことに没頭する人と言えるだろうか
彼らにしてみれば、どうでもよいことに時間を使う暇などないということになる
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このように、哲学者は自身の哲学的活動から気を逸らせる危険性のあるすべての活動をできるだけ手放さなければならない。
同時に、哲学と哲学でないもの(神話とか神学)とを分けなければならない。
これは、デカルト主義者やカント主義者がやらなかったし、宗教に自己を見失っていてでできなかったことである。
それがモンテーニュやスピノザとの違いである。
デカルトやカントにおいて神は存在しているので、もしわたしがこれらの著者に取り組んでいたならば、明確な良心を(わたしの哲学者としての良心を言っている)持つには至らなかっただろう。
本当のことを言えば、わたしが最初に書いたものはデカルトについての論文だったが、それは幸いにもなくなった。
わたしが若い時には、後にデカルト(必ずしも細部ではない)を拒絶することになる理由を持っていなかった。
わたしは真理を求める時に明らかにされた真理に頼ることの矛盾に気付かなかった。
モンテーニュは、彼の判断を歪める宗教的信念に委ねることなく哲学する。
それはしばしば、彼がカトリック教徒であることを忘れているようである。
彼がカトリック教徒であることは疑われたのである。
デカルトは反対に、形而上学の対象として神学の対象を定義する。
神すなわち魂なのである。
わたしとしては、神は「対象」ではないと言うだろう。
なぜなら、わたしが会うことはないからである。
それは理性や経験の外にある文化的対象に過ぎないのである。
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哲学者は宗教的な寓話、一般的には集団が共有する幻想をすぐに否定して横に置くこと。
そして、自分に還ること。
すなわち、意識が直に受け取る情報ではなく――それは、なぜ意識が特別に存在するのかという問いに関わる――、そこに存在する人間に、そして恰も今この世界に来たばかりであるかのような人間に還ること。
親や教師の信条を教育されることにより自己を失うことなく、ただ自らの理性をもって。
この世界に来るとはどういう意味か。
それは二つのことを意味している。
「空間によって、宇宙はわたしを包み。一つの点としてわたしを飲み込むが、思考によって、わたしは宇宙を包む」とパスカルは言った(『パンセ』、Br. 断片348)。
まず、わたしがそうである開かれた存在に関係するものとして世界がある。
その考えが宇宙に広がる前に、森の樵は樵の世界と関係を持っている。
それは丁度、散策者が散策者の世界と関係を持ち、画家は画家の世界と関係を持つようなものである。
このように、「わたしはあなたのところ(ため)にいる(何でもおっしゃってください)」(Je suis à vous)と言うように、我々は世界に在る(On est au monde)。
しかし他方、我々は世界の中、地球のどこかの場所にいる(On est dans le monde)。
従って、空間の問題になる。
一方で、われわれに開いている世界、開かれた存在としての人間(Dasein)との関係を内に持つ世界がある。
しかし他方では、他の生物と同様に人間に対しても超然としている世界があり、その中に彼らを含んでいる。
ところで、哲学者はどちらかの側に位置している。
一つは、世界は自身の前にあり、そこには開き(Offenheit)がある。
デカルト、カント、サルトル、フッサール、ハイデッガーの哲学のように、コギト、主体、主体性、存在、時間性、ダーザインの哲学がある。
あるいは、世界は我々を包み込む住まいであり、そこでは他者とともに存在している。
スピノザ、モンテーニュ、唯物論者だけではなく広く古代ギリシア人の哲学のように、存在、生成、時間、コスモス、絶対、絶対的現実の哲学がある。
エゴから、あるいは世界(コスモス)から哲学する。
我々は選択しなければならないのだろうか。
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哲学は現実の全体――それは無限である――についての真理を探究する。
なぜなら、それを制限するものは他に何もないからである。
もし、ある宗教の信者である哲学者が真理を得たとすれば、彼は真理を探求しないだろう。
哲学者は自分が持っていないもの、欠けているものを探求するからである。
そこから彼は、自分の限界、有限性(もし自分が死ぬことを知っていることを加えるとすれば、有限であるという事実)に気付いている。
これは「それ自体に無限の否定が含まれている」(デカルト)。
自分自身の思考は無限の否定を包み込み、そのため「わたしはある意味で最初に無限の概念を持ち、有限の概念を持つのである。」(デカルト)。
この無限をデカルトは「神」と名付けた。
スピノザも同じだが、彼は "sive natura"(すなわち自然)と付け加えたのである。
わたしも同じようにする。
世界は我々がいる住まいである。
しかし、この住いの限界はどこに設定されているのか。
どこで世界は終わるのか。
我々を囲っている住まいはそれ自体がより広い住まいによって囲まれている。
エピクロスは「我々の」世界を星で止めている。
しかし今日、我々が見ている星は銀河系では取るに足らないもののようであり、銀河系は・・・
デカルトは、世界は無限ではなく、不確定なものに過ぎないと言った。
従って、無限が有限とは別物であるように、神すなわち自然は世界と別物なのである。
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じっくり読まなければ分からないところだった
まず、現実の全体の真理を求めるのが哲学である規定し、その全体の捉え方の違いをデカルトとスピノザに見ている
デカルトは世界の全体を不確定なものとしたが、それはいずれその全体を確定できると考えていることが含意されている
これに対して、スピノザは「神即自然」を全体としたが、それはデカルトが言う「世界」を超えているとコンシュさんは考えているため、両者は別物であると結論したのではないだろうか
つまり、スピノザの方がより大きな全体――おそらく永遠に捉えることができない――を相手にしていると考えているようなのだが、、
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デカルトは無限の「概念」について語る。
しかし、そこで取り上げられていることは、単に一つの「概念」ではない。
人間は、自然の外にいて天使のようにその上を飛んでいるのではないことを知り、常にそう感じている。
力から見れば、すぐにでも人間を消滅させることができる根本的な依存状態にあることを人間は感じている。
パスカルに戻ってみよう。
「人間は自然の中で最も弱い葦にしか過ぎない。しかしそれは考える葦である。宇宙全体がそれを押し潰すために武装する必要はない。人間を殺すためには、蒸気や一滴の水で十分なのだ。しかし、宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は人間を殺すものより高貴だろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことや宇宙が自分に対して持っている優位性を知っているが、宇宙は何も知らないからである」(Br. 断片347)。
我々はそのことを分かっている。
それは神の問題ではなく、人間そのものよりも「高貴」ではない力の問題である。
なぜなら、自分のしていることを知らない(理由なく我々を「殺す」)盲目の存在だからである。
人間を押し潰すもの。
それは、すべての有限な存在が人間のように、それ自体は有限の存在ではない根本的な依存状態にある非人格的な力。
なぜなら、この場合、それもまた依存しており、従って無限である。
主体の哲学は、人間の実際の存在の抽象化を行う。
哲学者は、単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない。
自分が自然の一部――自然の中の考える部分――であると感じなければならない。
兎に角、実際の哲学が始まるのはここである。
しかし、それは始まりにしか過ぎない。
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今日のポイントは、自分が自然の一部を構成する考える存在であることを感じることから哲学が始まるということであった
この点に関しては、わたしの中に出来上がっていると感じている
これで第1章「哲学者になる」が終わりになった
哲学者はそこからどのように歩むのだろうか
もう少し読み進みたい気分でもある