ここでは、「哲学的自然主義」の章を読むことにしたい。
(1)
現代における形而上学は、唯物論者そして自然主義者でさえも形而上学者ではあり得ないように定義されてきた。
その対象(transphysica)は神学と同じだが、方法として知性(intellectus)と理性(ratio)だけしか用いないという点で神学とは異なっている。
デカルトにとっての形而上学は、「自然の理性によって」神と魂を知ることが目的であった。
ボシュエによれば、形而上学は「物質ではない」ものを扱う。
従って、物質でないようなものを否定する唯物論者は形而上学者ではあり得ない。
ヴォルテールはその『哲学辞典』において、「物質ではないものは形而上学的である」という一般的な意見を書いている。
彼が反対する実証主義によって、「我々は以下の二つを同じように遠ざける。一つは、宇宙には理由があり、それを知ることができると断言する人たち――汎神論者、観念論者、唯心論者、形而上学者のすべての学派――で、もう一つは、現象には最終的な目的があることを自信を持って否定する人たち――唯物論者、無神論者、すべての形而上学の敵――である」。
1965から1969年にかけて、わたしはリールの文学部で教えていた。
わたしは形而上学のテーマを扱いたかった。
その時一人の同僚が、形而上学はカトリックの学部に任せなければならないと言ったのである。
(2)
それは結局、形而上学と特定の形而上学、この場合、唯心論的形而上学を混同していることになる。
わたしは、形而上学を「もの・こと」の全体性に関する言説であると理解している。
あるいは、「全体」という言葉を好むのであれば、現実の全体についての言説としてもよい。
この「全体」とか「現実」という概念は、やはり問題である。
「全体」とは、有機的な全体、繰り返される総計、あるいは寄せ集めることができない多数性のことである。
そして「現実的な」ものとは、現実の度合い(の違い)を伴ったり伴わなかったりするプラトンとヘーゲルの "ontôs on"(現実に存在するもの) のようなものであるとわたしは言いたい。
その上で、唯物論者のエピクロスはプラトンと同程度に形而上学者である。
エピクロスが全体としての現実の表象を我々に提示したからだ。
形而上学の対象は現実の全体である、とわたしは言った。
しかし、その対象は分かち難く人間自身でもある。
人間の問題とは何なのか。
人間とは何かを知るためには、人間が全体の中で意味するところを知らないければならない(だろう)。
超自然的な現実があるのか、あるいは自然しか存在しないのか。
それぞれの立場によって、死の意味が変わってくる。
もう一つは「人間とは何か」という問いに対する答えであり、もう一つは人間が自分自身に対して持っている考えである。
すなわち、人間には意味や運命があるのか、あるいは植物や動物以上の運命や意味はないのか。
それは「もの・こと」の全体において人間に帰せられる場所は何なのか、すなわち人間存在の地位は何なのかを知ることである。
これは権利の問題である。
人文科学は事実の問題しか解決できない。
科学的視点から見れば、人間についてこれほど知識を得たことはなかった。
しかし、形而上学的視点から見れば、これほど無知であったこともなかった。
マックス・シェラーは「人間は、人間とは何かを最早知らない」と言い、こう付け加えた。
「しかし同時に、人間はそれを知らないことを『知っている』」。
(3)
ショーペンハウアーは、「わたしは『形而上学』を、経験を超えた知識であると自負するすべてのものであると理解している」と書いている。
わたしは「知識」という言葉を忌避する。
現実の全体は絶対的に経験を超える。
従って、形而上学は知識であると装うことは決してできない。
科学だけが我々に知識を与える。
わたしが定義したような形而上学は、科学になることを夢見てはいけない。
科学的ではなく、形而上学は基本的に思弁的なものである。
カントの語法による「思弁」という言葉が、ここではぴったりする。
証拠も証明も形而上学にはその場所がなく、あるのは議論だけである。
しかし、誰でも議論に与える重み(それが決定的であろうとなかろうと)からは自由なので、説得力があるとして一方に従い、他方を無視するのである。
(4)
従って、形而上学は自由に立脚している。
如何なる哲学者も――それが自然主義者であれ唯物論者であれ――否定することができないものが1つあるとすれば、それは自由である。
なぜなら、自由がなければそれ自身の体系が不可能になるからである。
と言うのも、原因によって決定された彼の判断は、真理の視点から見ればそうではあり得ないので(なぜなら、真理は原因ではなく、世界の中の何かではないからである)、彼は真理を語ることができない。
鸚鵡は明るくなる時、「夜が明ける」と言うように条件付けできる。
しかしわたしは、明るくなるのを見たので「夜が明ける」と言う。
もしわたしの判断がすべての因果関係――社会学的、生物学的、心理学的などの――から自由でないとすれば、それが真となるにはどんな偶然が必要となるだろうか。
わたしは「法律上の」自由と理解する。
なぜなら、実際には多くの判断が利益、欲求、気分、影響、習慣に隷属する表現に過ぎないからである。
なぜダミアンは「神は存在する」と言うのか。
彼はそのことについて何も知らないが、そう人に言われたので彼が繰り返しているだけである。
彼はなぜ、「民主主義は政治体制の中で最良のものである」と言うのだろうか。
彼はその理由を知らない。
その判断は真かもしれないが――それを認めよう――、彼は真理の感覚を持っていない。
なぜなら、彼は理性と省察の明白さを根拠にしていないからである。
普遍的な決定論を主張する者は誰でも自己矛盾に陥る。
なぜなら、決定論が普遍的でない限り、決定論が普遍的であることを真として主張することができないからである。
(5)
唯物論は唯物論の真理を肯定した途端に、自由を否定する場合、自己矛盾を起こす。
なぜなら、その肯定は自由を通してしか真理の意味を持ち得ないからである。
さらに、世界に感覚を開くことは、それだけですでに自由である。
自由な存在だけが目の前にあるものを、ただ目の前のここにあるものとして見ることができるのである。
わたしは動物が彼らの世界を持っていないとは言いたくない。
猫や犬のように、ハエや蜂あるいはハリネズミの世界がないとは言いたくない。
しかし、それは開いた世界ではない。
確かに、人間の世界も、何かに没頭する世界でしかない限りは、同じように閉じている。
例えば、農民や猟師や散策者のような世界は閉じている。
しかし、この柵は開口部の底にある。
農民は農民であることを一瞬忘れ、囚われのない自由な視線に現れる世界を虚心坦懐に眺めることができる。
なぜなら彼は、農民である前に考える人だからである。
動物はその程度は様々だが、知性や意識を持っているが、思考はしない。
考えるとは、「これは存在する」あるいは「これは存在しない」と言えることである。
それは真なる判断をすることができることである。
思考は人間にしか属しておらず、自由によってのみ可能になるものである。
(6)
しかし、わたしが語るこの自由――それは現れたものを純粋に受け入れ、無関係なものを加えることなく見るものを表現する判断を可能にするものだが――、これは依然として因果関係による決定がないことを意味するネガティブな自由でしかない。
これはまた、普遍的な自由でもある。
なぜなら、この自由が内包する開かれた構造――それはハイデッガーが Dasein (現存在)と名付けた構造である――はすべての人間において本質的なものであるからだ。
しかし、この自由にはうっとりさせる側面はあるが、別の側面も持っている。
疎外させるものと言うこともできる因果関係による決定の支配が法的に終わるところは、いわゆる良心の裁きの場である。
自己による自己についての瞑想から出発することにより、純粋に内奥から発する決定が生まれ得る。
その時、自由は個人的な独自の因果関係の出現に委ねられ、そこではそれぞれが自己の原因となる。
なぜなら、ベルクソンがレオン・ブランシュヴィックに「自由は虚しい言葉に過ぎないかも知れないし、心理的な因果関係かも知れない」と書いたように――勿論、原因と結果が同等である物理的因果関係をモデルに基づいて考えるべきではないが、創造的因果性として考えるべきである。
なぜなら、「行為自体により、以前には存在しなかった何かを創造すること」を意味しているからである。
(7)
ベルクソンが語った「自己による自己の創造」は、我々が形のない要素すなわち精神の中にいることを前提としている。
しかし、実証主義の形而上学に対する用心深さだけに満足することは難しい。
そのため、彼は唯物論に陥ったことを非難される。
確かに、唯物論者が「物理学者が物質には重みがあると認識するように、生理学者は神経の物質が考えると認める」と書くことはよい。
今日の唯物論者は「脳は考える」と言う。
しかし、「脳は考える」と言わなければならないのは、脳がなければ考えることができないからではない。
必要条件は十分条件ではない。
「すべての物体を合わせたものからでも、小さな思考を生み出すことはできない。それは不可能であり、他の秩序に属しているのである」(fr. 793 Br.)
しかし、脳は肉体に他ならない。
肉体に過ぎないものから、どのようにして精神を生み出すのか。
思考のないものから、どのようにして考え、考えられるものを引き出すのか。
つまり、決定論に従属する宇宙から出発する唯物論者は自由の出現を説明できない。
自由がなければ彼自身、少なくとも真理の意味を持つ何の言説も口にできなくなる。
同様に、脳組織にある複雑で分化した物質から出発する唯物論者は、心の内奥としての何か、それによって一人の人間になる自己と自己の関係を可能にする自由をそれ以上には説明できないのである。
(8)
サルトルは、わたしを選ぶことによってわたしは人間を選択する、と言った。
それは正しい。
しかし、彼はそれを厳密に道徳的な意味で理解した。
ところが、人間の意味は「もの・こと」の全体性のレベルで決定される。
創造主の神が存在する、しないで、死を超えた生の希望が正当化されたり、されなかったりする。
有神論であれ、無神論であれ、証拠を引き合いに出すことができないので、これらの形而上学的オプションの選択はそれぞれの自由に任されている。
わたしが正確に言うとすれば、形而上学においては、となる。
――なぜなら、道徳においてはそうはならないからである(わたしは倫理とは言っていない。二つの概念をわたしが混同しないようにしているものである)
わたしを選択することにより、わたしは人間を選択すると言うことは、もしわたしのためにこのようなオプションを選ぶとすれば、あなたにもそのオプションを選ぶことになる。
もしわたしが無神論者であれば、わたしにとってもすべての人間にとっても、すべては死と共に終わるとわたしは考える。
もしわたしが創造主である神を信じているならば、永遠の魂をわたしが与えるのはわたしと共にあなたでもある。
なぜなら、形而上学的選択には普遍的な意味があるからである。
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前半の「形而上学には理性的な決定基準はない」というところと、後半の「形而上学的選択には普遍的な意味がある」というところがわたしの中ではうまく繋がらなかった
規準がないところで選ばれたものに普遍的な意味があるとすることに違和感を覚えたのだが、、
もう少し時間をおいて考えることにしたい
(9)
民主制において、選挙の選択の場合、人々は一般に自分の利益であると考えるものに従うか、政府がやるべきなのにやっていないことに立脚する考えに従って行動するか、個人的な好み、共感あるいは反感に任せるかである。
彼らは自分の選択が非常に異なった興味や計画、あるいは全く異なる共感や反感を持っている人にも有効であると主張しているわけではない。
しかし、形而上学的選択には普遍性がある。
なぜなら、我々が選ぶものは現実の全体について、従って世界と人間の全体についての真実だからである。
科学的真理は選ばれてはいない。
微生物が存在し、水は水素と酸素から構成され、地球は太陽の周りを回っている。
これらすべてをあなたたちは認めなければならない。
しかし、形而上学的真理は選ばれている。
なぜなら、我々はそれが何であるのかを知らないが、それでも形而上学的真理なしに済ますことはできないからである。
選択は不可避であると同時に、自由である。
しかしながら、我々は不確実性の中で選択するのである。
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今回も普遍性の問題が引っ掛かった
科学的真理は選ぶことができず、受け入れなければならない
それに対して、形而上学的真理は選ばれているので誰にでも当て嵌まるわけではないという
とすれば、科学的真理の方に普遍性があるように見えるのだが、、
あるいは、科学は部分についての真理を求めるのに対して、形而上学は人間、世界の全体に対する真理を扱っているからと言いたいのだろうか
ただ、それはすべての人に当て嵌まるわけではなく、選択が行われている
選ばれたそれぞれは万能ではないが、それぞれの中では全体に迫ろうとしていることをもって普遍的だと言いたいのだろうか
もう少し考える時間が必要のようだ
(10)
そこで、選択するためには何に基づくのか、という問題が生じる。
エピクロスも同じだが、デカルトによれば、出発点は必然的に、我々にとって余りにも明確に見えるので真であると認めないことが不可能であることの中にある。
デカルトは知的な証拠を、エピクロスは感覚的な証拠を考えていた。
しかし、証拠が常に真理の基準であるということにどのような保証があるのだろうか。
「欺かない」神に基づき反対のことを強く支持したエピクロスもそうだが特にデカルトの考えにもかかわらず、我々はそのような保証を持っていない。
我々に明らかに真に見えるものがそうでないことはあり得る。
「われ思う、ゆえにわれ在り」(Cogito ergo sum)は確かである。
つまり、コギトと共に、紛れもない真理を保有していると信じることは正当化されるだろう。
しかし、証拠は決して単なる事実ではないし、当然の確かさがある確実性は事実の確かさ以上のものではない。
我々は不確実性の中で哲学する。
モンテーニュは、我々はその状況で同じようによく哲学することを示した。
我々は普遍的に有効であると考える真理に辿り着く。
しかし、確信しているが、それが不確かなものであることを知っているので――なぜなら、確信は確実性ではないから――、我々は自分の真理を誰にでも押し付けようとすることを――それが説得によるものであっても――避けるのである。
そこから寛容の体制が生まれる。
形而上学的な多元主義を、そして我々以外の真理があることを認めるのである。
我々のものではないこれらの真理は、我々はそれを間違いだと思っているので、括弧付きの真理とするのではあるが、、
(11)
しかしその上で、わたし自身の選択――それは唯物論ではない自然主義に向けられているのだが――について語る時である。
わたしは素直に哲学するつもりである。
「素直に」とは、わたしの省察を理性の正当性に関するカントの批判から生まれた制約に従わせることなく、という意味です。
カントの批判は、実際のところ、現実の全体に関する知として与えられた形而上学に反するものである。
しかし、我々はこのような形而上学の捉え方に別れを告げた。
形而上学は、科学とか知識であるという思い上がりなしに行われる自由な思弁である。
「哲学者は多様なやり方で世界を『解釈した』だけであった」とマルクスは言った(フォイエルバッハについての11番目のテーゼ)。
彼はそこで哲学が解釈以上のものではなかったことを認めている。
科学しか与えられない知識ではなく、従って一つの纏まりに還元されない多様な哲学が可能であること、そしてその多様な哲学の中から個人的な瞑想によってのみ選択が可能になることをマルクスは認識していたのである。
(12)
エホバの証人の人がわたしに会いに来て、わたしは神を信じていないと打ち明けたが、彼らが抱く聖書の信念にわたしを引き込もうとして「あなたは世界がそれ自体で作られたものではないことをよく認識すべきです」言った時、わたしは決定論が持つ他にはない驚くべき価値を持ち出さないように、そして「世界の原因は何であるか」という質問の正当性に疑義を差し挟まないようにした。
もっとも、「世界はそれ自体で作られたものではない」ということを聞くのはありきたりなことである。
従って、この問題については善良は人たちの同意がある。
ところでプラトンは、「善良な人たちの同意は、言ってみれば他の人たちの同意よりも重みがある」と言った。
従って、わたしも訪問者と同じ土俵に身を置くことを受け入れ、こう返したのである。
「世界の原因は神ではなく、自然である」
彼らの内の一人はこの反応に衝撃を受けたようにわたしには見えた。
(13)
この回答はわたしの考えをよく表現していた。
わたしが少なくとも家庭内においてはキリスト教の教育を受けていた時期、現実の全体は神、世界、人間という3つの要素から成るものとして提示された。
わたしはやがてこれらの要素の中の最初のもの、すなわち神を抹消した。
すべての「もの・こと」の源泉には全能で善なる神がいたが、これは地上で見るすべての悪や苦悩、特に「絶対」悪――つまり、我々がどのような視点から見ても正当化できない悪――とわたしが考える飢餓に曝され、虐待される子供の苦悩と相容れない。
これはまた、戦争における子供の運命に関する考えでもあり、わたしを徹底的な平和主義に導いたのである。
この平和主義に対する反対は良く知っていたがそれを拒絶して、わたしは自分の意見を決して変えることはなかった。
もし正当化できない悪の立場から有神論に反対の議論をしていなかったならば、超越的な神への信仰を守ることができたであろうか。
わたしはそうは思わない。
なぜなら、特に「聖なる」と言われている書物が人間の作品に過ぎないこと、そしてそれが意味するすべてのことを考えれば、わたしには「信じる」僅かな理由も見出せない。
もし聖書が神に霊感を得たものであるとすれば、その本は暴力的な神によるものに違いないだろう。
(14)
引き離された「神」、わたしにはそもそも少しずつ意味がなくなっているように見える概念だが、現実の全体はどうだろうか。
他には何もないので、それは必然的に無限である。
しかし、三要素の体系においては、神も存在するので世界は有限であり無限ではない。
わたしは今、世界に無限という性質を与えることができるだろうか。
ところで、世界はそれ自体で説明可能なのだろうか。
ここで我々が問い掛ける権利があることを知る必要がある。
何かが存在し、その何かは世界である。
まず、何かが存在するという事実について疑問を投げ掛けるべきなのか。
ある人たちは「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いを尊重する。
しかし、これは間違った問いである。
なぜなら、我々がパルメニデスやベルクソンなどから学んだように、「何もない」ということ、すなわち無は考えられないからである。
マルブランシュが「何もないものを見るということは、見るということではない」、「何もないものを考えるということは、そもそも考えることにならない」と言ったように。
従って、この問いは「形而上学の根本的な問い」からは程遠く、我々がよく言うように「そもそも問いになっていない」とジャン・ヴァールは言う。
反対に、「なぜ『もの・こと』が他のようにではなく、このようであるのか」という問いは真の問いである。
エピクロスは、なぜ世界は我々がそうであると見ているようにあるのか、と自問した。
彼は原子仮説を使えば、詳細に至るまで説明できると考えたのである。
彼は「世界」という言葉を、星座も含めた見えるものの全体と理解した。
「世界」は、ギリシア語では秩序と構造を意味するコスモス(cosmos)と言う。
これらの言葉自体は有限性を意味し、無限の源泉である起源――それは説明力のない概念である神ではあり得ない――を想定しなければならない。
なぜなら、説明すべきものが何であれ、世界がどんなに異なっていても、いつも同じ「神」が引き合いに出されたからである。
反対に原子で満ちた自然は、世界のすべての現象を説明できるに十分なものを持っている。
(15)
「自然主義」が意味するものは何だろうか。
世界に存在するすべてのものの中で、特に人間について考えれば、それを最もよく示すことができる。
その起源に関して言えば、二つの解しかない。
すなわち、人間は自分より高いところから来たとするか、自分より低いところから来たとするかである。
一方に、起源に精神を置く唯心論があり、他方には、起源に自然を置く自然主義があるが、その中のある者は自然を物質に還元する。
ダーウィンの進化論は、人間が自然に由来することを示している。
キリスト教神学者は、進化論は人間の体については有効だが、神によって創られる魂については有効ではないことを認める材料を持っていない。
これは、ポッパーであれば言うであろう「反証可能」ではない仮説のタイプそのものである。
唯心論と自然主義との二律背反は、「イズム(主義)」という言葉のあるなしに関わらず、世界と生命について素直に省察した人の心に浮かんだ二律背反である。
例えば、イギリスの政治家グラッドストンは、自然の上位に自然とは異なる原理を認めるかどうかで2種類の精神を区別した。
『法律』の第10巻の中でプラトンによって始められた対立は、哲学の全歴史を貫いて見られる。
ライプニッツによって始められ、マルクス主義者によって再び取り上げられた観念論と唯物論の対立は横に置いておくべきである。
なぜなら、「観念論」という言葉は、例えばプラトンあるいはカントで全く同じ意味ではないのみならず、観念論とは唯心論の特別な形に過ぎず、唯物論は自然主義の特別形に過ぎないからである。
(16)
唯心論は、絶対的精神は神であると我々に言う。
そして、神の属性を列挙する。
しかし、自然の方はどうだろうか。
神の存在を疑うことはできるが、アリストテレスが言うように、自然の存在を疑うことは「馬鹿げている」だろう。
感覚的な証拠においては、自然は敢えて言えば生身の人間にそれ自身を提供する。
しかし、我々は感覚を信用することができるだろうか。
デカルトはそうは考えなかった。
彼はこう言っている。
「わたしは感覚は間違えるということを時々経験した。我々を一度間違わせたものを完全に信頼しないことは慎重さである。」
しかし、感覚の証を拒絶する理由は、感覚が現実に我々を欺くから――この主張は正当化される必要があるのだが――ではない。
そうではなく、デカルトがこれから先は感覚的な確実さとは全く異なる確実性に彼の体系の基礎を置くことを決めたことである。
反対に、エピクロスは彼の体系を以下のような確実性の上に打ち立てた。
彼は言う。
「誤りや間違いは常に」感覚データに「意見が加えられたものの中にあり」、感覚データそのものの中にはない。
ルクレティウスは「感覚の誤り」と言われる多くの例を分析し、「誤りは我々の判断に由来し」、感覚そのものではないことを示した。
感覚の証は疑うべくもないのである。
その上、「我々に最初に真理の概念を与えたのは感覚である」とも言っている。
なぜなら、もし我々の目が見、我々の聴覚が聞いたこと、あるいはその反対を誰かが我々に主張した場合、その主張の正しさあるいは誤りは、我々にはすぐに分かるからである。
(17)
エピクロスとルクレティウスが言っていることは、わたしには正しく見える。
そしてデカルトはそれに反論しない。
感覚の意味は、世界への適応を可能にすることである。
もし感覚が我々を欺いているなら、適応はどうだろうか。
盲人の痛ましい状態を見なさい。
感覚は種によって異なる。
ミツバチは偏光を感知でき、それが自らの位置を決めることを可能にしている。
彼らにとっての光は、太陽との角度によって多少とも明るくなるのである。
犬は我々が感受できない非常に高い音を聞き取る。
蝶は遠くにいる雌の匂いを嗅ぐ。
常に良い姿勢で飛ぶ鳥は、我々が持っていない平衡感覚を持っている、など。
これはすべて我々がまず第一に生きているということであり、生のための意味における感覚を理解しなければならないということである。
(18)
感覚は「もの・こと」がそうあるものとしてではなく、我々の感覚器の構造が認めるものとしての「もの・こと」を我々に提示すると言えるだろう。
しかし、我々の感覚器の構造は、まさしく我々が見、聞き、、するもので、我々を取り巻くものを真に知ることを可能にしているものである。
木は視覚にとって緑なのである。
確かにそうだ!すなわち、視覚のお陰で我々は木がそうであるもの――緑――として見ている。
望遠鏡の助けを借りて、わたしは遠くの船に乗っている人を見る。
それは「望遠鏡にとっての」人と言うのだろうか。
ヒトはヒトの感覚で自然を感じ取る。
犬は犬の感覚で別の自然を感じ取り、ミツバチも同様に異なった感覚で異なった自然を感じ取っているといった具合である。
これらの知覚は、何らかの統一性を想定することと相容れないのではなく共存する――わたしは相互に補完するとは言わないが――ものである。
自然はまさしくそう見えるものである。
自然は表れなければならないことをあらゆる方法で解決する。
外見よりも深いものは何もない。
存在しているということ――多数の存在、分散した存在――は外見である。
(19)
しかし、真の自然は科学にとってのものだと言われるだろう。
それは分子、原子、プロトン、ニュートロン、エレクトロンなどから構成されている。
わたしがいま語ったばかりの見かけの自然があり、見かけの自然の原因である真の自然がある。
これは、ホワイトヘッドが「自然の分岐」と呼んだもので、彼自身はもっともなことだが放棄した概念である。
彼はこう言っている。
「我々は『見かけの』という言葉を削除しなければならない。なぜなら、自然は一つしかないからで、それは我々の前にあり、知覚による知の中にある自然である。」
17-18世紀の哲学において、我々はボイルと共に「1次性質」と「2次性質」を区別することで自然を二つに分けた。
ガリレイによれば、自然は運動する物質の最小部分である「粒子」から構成される。
ただ、色、匂い、味は感覚器に依存している。
デカルトも同様の見方をしている。
ここに石がある。
彼は言う。
そこから硬さ、色、重さ、冷たさ、熱さなど、他のすべてのこの種の性質を取り除いてみよう。
なぜなら、それらが石の中にあるとは思わないからだ。
そうすると、我々が持っている本当の考えが残る。
その考えを構成するのは、長さ、幅、奥行きをもって広がる物質であると我々が明確に認識するということだけである。
(20)
ロックによれば、我々の知とは独立して物体の中に実際にある「1次」性質と言われるものは、硬さ、広さ、形、数、運動であるのに対し、光、色、音、熱さあるいは寒さ、匂いなどの「2次」性質は、一次性質が我々の感覚に与えた影響に過ぎない。
バークリーは色から幾何学的データを分離するのを拒否することにより、色は「精神の外にはない」と言うが、それは物質的なものを消滅させることになる。
これはスコットランドの実在主義が反対する非物質主義(後の主観的観念論)である。
「『色』という言葉は、庶民が使うように、精神という考えを意味しようがなく、物体の永続的な性質を指している。」
(21)
有名な数学者のオイラーは『ドイツ王妃への書簡』の中で、「受け入れられている話し方から離れるいかなる理由もない」と語っている。
彼は、庶民の上に立って農民のように話そうとしない哲学者を次のようにからかっている。
「農民はこの物体は赤い、別のものは青い、さらに別のものは緑であると思い描くので、哲学者は反対のことを言うことによってしか自分を区別できなかった」(1760年7月15日の手紙)
わたしもまた、農民は正しく、色、味、音、匂いという固有に感覚されるもの(sensibilia propria)は実際の物体の性質であるというアリストテレス・スコラ学派の見方に戻るべきだと言うだろう。
色づく樹木の緑は自然の中にある。
「黄昏時の仄かな赤い光は、我々が想像する分子や電波と同じように、自然の一部である」とホワイトヘッドは言っている。
(22)
しかし、この二つの側面――感知し得る性質の面と微粒子や電波の面――をどのように折り合いをつけ、一つにするのか。
次のようにするとできるように、わたしには見える。
感知し得る対象、例えば木の葉を遠くから見てみよう。
すると、緑のものしか見えない。
今度は少し近くから見てみよう。
そうすると、裂片や葉脈が見える。
光学顕微鏡、それから電子顕微鏡で、さらに近くから見てみよう。
すると、セルロースの分子が見える。
100万倍に拡大して大きな分子や細菌の構造を明らかにする電子顕微鏡――電子線は可視光の波長よりずっと短い波長を持つ――により、ウイルスや他の非常に小さな対象を撮影することができる。
結晶の空間における配列は、もはや不可視ではない。
他方、ウィルソンの霧箱の中で見たもの――放射性核から放出された粒子の軌道、他の粒子との衝突による粒子の生成、粒子の崩壊と放出――を撮影できる。
技術化された目のお陰で、視線が物質の構造に入り込むのである。
確かに、照射された湿ったガスが膨張するとその中に現れるものは、小さな液滴で形成された不規則な白い紐のようなものである。
今わたしが言ったことは、最近まで言われていたことであった。
すなわち、白い線は粒子あるいは小体の途方もなく微妙で速い軌道を表していると。
今日であれば、このイメージは別の解釈が可能になると言われている。
(23)
遠くから見る場合、見えるものはぼやけている。
技術化された目で見ても同様である。
「軌道」と言うべきか。
「粒子」と言うべきか。
議論されている。
トンネル効果という量子現象を利用する1981年に発明された走査型トンネル顕微鏡は、特定の表面の電子状態の形態と濃度を、原子のサイズと同等かそれ以下の解像度で決定する。
にもかかわらず、原子の写真を手に入れることができず、合成イメージだけである。
しかし、ミシェル・ビットボルは、「スクリーンへの影響も、泡箱の痕跡も、走査型トンネル顕微鏡によって提供される刺激的な画像も、それらが証明しているように見えることを証明していない」と書いている。
わたしには彼が懐疑主義を進め過ぎたように見える。
目の前に倍率が1,000万に達する可能性があるイオン顕微鏡で得られたタングステン先端表面の画像があり、特定の条件下では先端表面の原子を識別できる時には、彼に付いていく気にはならない。
ただ問題が残っている。
「我々は正確に何を見ているのか?」が肉眼と同様に技術化された目についても問われる。
わたしが受け入れていることは、いずれにせよ、目に届くものは夕日のように自然の中で起っているということである。
つまり、自然の一貫性があるのである。
(24)
自然の一貫性の原理は物質なのだろうか。
それは唯物論者が認めるところである。
これに対しては、ポジティブにもネガティブにも語ることができる。
物質は思考ではない、従って「意識のないものすべて、考えないもの(存在するために思考が必要でないもの)すべて、記憶、知性、意志、情動を欠いたすべて」が物質だとアンドレ・コント・スポンヴィルは言う。
このネガティブな定義は観念論に汚されているように見える。
なぜなら、それは思考に根ざすことから出発し、コギトを想定するからだが、数と空間という数学的存在もまた意識や記憶などを欠いているので、定義が広すぎるからである。
他方、物質とは何かをポジティブに言うのは物理学者の仕事になるだろう。
しかし、それを言おうとしているだろうか。
それは非物質主義に陥ることになる。
我々は電子や陽電子のために「物質」について語るが、光を与えると消滅する。
光はまだ物質である。
なぜなら、それは思考ではないからと言うだろう
しかし、光子に質量はない。
そのすべてのエネルギーは運動エネルギーにしか過ぎない。
それから、アインシュタインの式(E = mc2)によれば、質量自体はエネルギーに過ぎないので、すべてはエネルギーに帰着する。
バシュラールは「エネルギーがすべてを支えている。エネルギーの背後には何も残っていない」と言った。
(25)
ハイゼンベルクは、「『火』を『エネルギー』という言葉で置き換えれば、我々は彼の言葉を殆んど逐一繰り返すことができる」と言った。
哲学的物理学者が今日の彼らがするように、常に「存在論」を語る必要がなかったのは、「存在する」ものがないからである。
しかし、「エネルギー」とは何を言うのだろうか。
さらに、「我々は結局のところ非常に抽象的で、非常に『非物質的な』定義に辿り着くのである。分かりますか。4次元ベクターの構成要素とは、数学的な存在なのである」と付け加える。
我々は「小体」について語るが、確実なことは、もし小体が存在するとすれば、「不変性、不貫入性、そして空間の固定部分を満たす広がりというような物質の本質的特質は何も持っていない。従って、それに関連する波動と同様に、単なる数学的記号としてしか考えられない」とシャンバダルは言う。
それ故ミシェル・セールは、「物質」という言葉は「それが物理学の中で、あるいは物理学によって解析された瞬間から益々意味を成さないものになり、その結果、今日の優れた唯物論者は形而上学的にしか存在しない」と指摘している。
ミシェル・セールが一見して間違ったのは、もし形而上学が現実の全体を考え、物質という概念がこの現実の一部にとって「意味を失った」とすれば、すべてを物質に帰着させようとする形而上学的唯物論は不可能になるからである。
(26)
しかし、形而上学的な射程を持たない場合、物質という概念は狭い範囲の概念として有効である可能性がある。
ミシェル・セールは言う。
「物質は科学がない限りにおいて、良い概念である」
なぜなら、科学は自然の非物質性の深さを見出すからである。
非物質主義やピタゴラス主義に陥るのを望まないならば、科学を横に置いておき、常識に留まることにしよう。
自然と同一視するのが適切ではない物質の概念は、現象学的概念としての価値を保っている。
いつ地上に生命が現れたのかと自問する。
生命は火星に存在したのか。
おそらく。
しかし今は生命の形は存在せず、固体、液体、あるいは気体の物質だけが存在している。
取り巻く世界において、我々は生きているものと生きていないものを識別する。
砂糖は生きていないが、砂糖が引き付けるアリは生きている。
屋根の瓦は生きていないが、瓦の苔は生きている
生命は地上の至るところに存在するが、今日見るような星は物質でしかない。
従って、この概念は記載する際に価値がある。
(27)
ところで、物理学者は我々が「物質」と呼ぶものは、非常に小さい異なる粒子からできていると言う。
分子は原子から構成され、原子は陽子、中性子、電子などの構成要素を含んでいる。
まあいいだろう。
そうでないわけはないだろう。
しかし、これらの多様な構成要素について理解しているところを物理学者に訊くと、物質という概念が雲散霧消するのが分かる。
つまり、物質の構成要素は物質ではないというところに戻るのである。
もちろん、その構成要素は霊的なものでもないのだが。
「精神」とか「物質」という概念は、英語でいえば "irrelevant"(不適切、無意味)なのである。
「物質」という言葉に正確な意味を保つためには、我々に見えるもの、つまり、生きものと生きていないものの両方が存在するという確実さに固執するようにしよう。
(28)
ところで、我々は木の葉を観察した。
遠くからでは、それは緑の斑点に過ぎなかった。
近くに寄れば、葉脈が見えた。
木は植物なので、その葉は生きている。
しかし唯物論者は、それを構成するのは「物質」、つまり生きていないものだと言う。
どのようにして生きていないものから生きているものを説明するのだろうか。
生命で起こっていること、そして物質だけでは説明できないことをより正確に見てみよう。
わたしは木の葉を切り離して考えたが、自然には切り離されているものは何もない。
この葉の上にコガネムシを置いてみる。
しかし、コガネムシとは何なのか。
それは感覚データを解釈する存在であり、すべての動物が同じである。
蟻は匂いの世界に生きている。
匂いが仲間、重要でないもの、奴隷、敵の識別を可能にしている。
蟻は宇宙の中で「蟻」の意味以外には関心を示さない。
ヒトの匂いに関心がない。
犬はその反対で、足、腋の下、性器、頭髪の匂いを嗅ぎ分けることができる。
その反対に、植物の匂いにはほとんど関心を示さない。
我々の目には白く見える花も、ミツバチにとっては違う色になっている、という具合である。
(29)
それぞれの動物は意味の世界に生きていて、それは他の種の動物には捉え切れない。
多くの種があり、二つとして同じ個体はない。
生命の世界は数え切れず、途方もない多様性を実現している。
どのようにして物質は、物質レベルでは考えられない何か――それはわたしが「世界」という内面性なのだが――が出現する生命を説明するのだろうか。
高等動物は意識を持っている。
なぜなら、眠り、目覚め、目覚めた状態にいるということは、意識があるということだから。
しかし、すべての動物には心の奥のようなものが存在し、それは人間の理解を拒む内面性の側面である。
なぜなら、我々は猫やハリネズミや鳥などの世界を生きるために動物の立場に身を置くことができないからである。
(30)
周囲の(ambiant)という言葉は、「取り囲む」を意味するラテン語の ambireに由来する。
フォン・ユクスキュルの環世界(Umwelt)は、シグナルの価値がある刺激の集合によって決定される生物の行動の環境で、それは刺激の重要な選別を前提としている。
ダニは小枝の見張り場所で何年もの間、木の下を哺乳類が通り過ぎ、その匂いで刺激されて動物の上に落ち、皮膚の下に落ち着くのを待つことができる。
この間、森のような環境から来る刺激には全く反応しない。
ダニは自分独自の世界、自分を中心とした環世界、認識が起こらない閉じた世界の中で生きるのである。
生物の中での原子の配置や相互の反応は物体の中よりも遥かに複雑であり、おそらく物理学や化学に挑戦していると言えるかもしれない。
しかし、生物を構成する分子や原子のシステムがどんなものであれ、それは原則として認識を拒むものではないだろう。
しかし結果として、認識には動かされない自分独自の世界に生きている存在がいる。
物質が説明できないことは、主体である存在――「主体」という言葉を、内面性の核となるものと理解して――の出現である。
(31)
自律的な主体は存在しない。
その意味は、すべての生き考える存在は存在の条件を物質性の中に持っているので、この事実から死を運命付けられているということである。
しかし、主体を必須条件に過ぎないものに単純化してはならない。
なぜなら、他のものでは説明できない、単純化できない体験があるからである。
その上、人間の場合には思考や自由、一言でいえば個性がある。
唯物論者は、わたしが今しがた念を押したように、「考えるのは脳である」と言う。
それは、チンパンジーや他のすべての脳を持つ動物についてであれば、正しいかもしれない、あるいは少なくとも是認できるかもしれない。
ただ、「考える」という言葉を他の言葉に置き換えれば、という条件付きではあるのだが、。
脳の活動は、動物がその世界で生きる方法の必要十分の条件であり原因であると認めることはできるが、その原因は効果を生み出すが、それを説明はしない。
しかし、人間の場合には異なる。
「ピエレット、わたしはあなたを愛しています」と言うことは、「わたしの脳はあなたを愛しています」ということと同じではない。
要するに、唯物論は生命と精神を説明することに失敗しているのである。
(32)
自然はその中に物質を含んでいるが、物質は自然の一つの側面にしか過ぎない。
自然は全体的な効果である。
物質という概念は一般的な意味や伝統に則って語る時に使うことができるとわたしは言った。
しかし、意味を奪われた言葉を使いたくないのであれば、現代物理学――量子物理学――は「非物質的」であると言わなければならない。
マクロのレベルでは、物体、物質がある。
原子下のレベルでは物質は消えたが、自然は常にある。
従って、物質は死を意味するが、自然は生と死を意味している。
マクロのレベルでは、生き、そして死ぬ物体がある。
原子下のレベルでは、生を支配する微細な要素がある。
人間の段階では、その影響は無視できるが、原子下の段階では現象の特徴を指図する。
象を見てみよう。
それは大きな物質の物体である。
触ると固く、容積も大きく、重たい、、、が、それは生きていて、その点から見ればミクロの世界に属している。
(33)
生物を説明すること、それは科学がまだ躊躇している自然の深みからしかできないし、これからもできないだろう。
小ささの無限の中に自然の創造性の秘密と生命の飛躍の鍵がある。
生命はまず組織化を意味する。
もし物質の構成要素がフェルミ粒子(電子、クォークなど)でなかったとしたならば、もし宇宙がボース粒子(光子、中間子など)だけから構成されていたとすれば、宇宙はカオスであり、生命のような組織化の形は不可能だっただろう。
粒子はそれ自身を中心に回転するスピンを持っていて、それはフェルミ粒子の場合は半整数であり、ボース粒子の場合はゼロか整数である。
1/2に等しいスピンとその角運動量は、原子の中で電子層が飽和することを可能にし、その結果、原子が閉じた組織化した安定な小システムを形成する。
原子の安定性は分子や結晶や遺伝子などの組織化のすべての形態を支配している。
しかしなぜよりによって生命、すなわち自己組織化なのだろうか。
(34)
暗闇では、視覚を惹起するには数光子で十分であるということは、生物学的活性は微細な何かの中にその発端があることを示唆しているとニールス・ボーアは言っている。
原子核内のレベルでは自然の軽い刺激を、そしてそこから生物に向き合うことができるマクロのレベルまで増幅する装置を想定できる。
量子生物学の創始者の一人であるパスクアル・ヨルダンは、「細胞の指令はミクロ物理学のレベルにある要素によって出される」と言った。
さらに続けて、解明されるべき「まだ明らかにされていない新しい法則」についても語ったのである。
ここでは、科学者に研究してもらわなければならないということ以外に言うことはないだろう。
(35)
パスカルの2つの無限のもう一つの側面、すなわち大きさの無限に向き合ってみよう。
自然はそれ自身によってしか境されていないので、もし自然の創造性が無限であるとすれば――古代ギリシアの何人かが考え、そのように見えるのだが――、自然が際限なく自らの姿を現し、すなわち自然が無限に大きく、天体物理学者が考えるささやかな宇宙に制限されることのないものとして、際限なく展開するものと思わなければならない。
経験はこの考えを支持している。
なぜなら、我々の限られた興味のためにそれを「見ること」が妨げられない時、仕事や役割から解放し、懸念で閉じた世界を剥き出しにし、自然が与えるように自然に開くことが可能だからである。
パスカルは、自然が与えられたものを超えて無限に広がるものとしてそれ自体を与えるという恍惚の経験を書いた(fr. 72 Br. )。
パスツールも、エミール・リトレの跡を継いだアカデミー・フランセーズ会員としての受諾講演で、実証主義者とは反対に、無限が最も実証的な概念であることに気付き、このような経験に訴えている。
確かに、わたしが窓を開け、わたしを取り囲む田舎――それはわたしに開かれたものなのだが――に目をやる時、それは直ちに無限の中の自然ではなく、わたしを取り囲む世界、すなわち、わたしの環世界(Umwelt)である。
それは組織化された全体である。
なぜなら、空、森のある丘、そして畑は、どのようにでもよいようには配置されておらず、ある秩序の中にある。
しかし、このようなゲシュタルト(全体の形)は無限の背景の上に与えられている。
この形、感知される世界は、パスカルの言葉に肖るとすれば、その全体性の中で背景に提示された自然の表情である。
(36)
世界は有限である。
我々はカントのアンチテーゼと最初の二律背反を知っている。
ショーペンハウアーがテーゼの証明は一つの独我論で、アンチテーゼの証明が真の証明であると言ったのは、おそらく正しいだろう。
しかし、「世界」が無限であると言ったのは間違っている。
無限なのは自然であり、世界は有限でしかあり得ない。
そのように、古代ギリシア人は理解している。
ついさっき言ったように、「コスモス」、「世界」は秩序を意味している。
世界は組織化され、構造を持っており、構造を持っているものは必然的に有限である。
全体としての自然は、組織化されたものと考えることができない。
無限の構造というものは存在しないからである。
しかし、それは組織化され得るものである。
無限の中に構造が存在することはあり得る。
自然は多くのやり方で組織化され、無数の世界を生み出す。
(37)
数学者のゲオルク・カントールは、「多数性」(Vielheiten)と「集合」(Mengen)という2種類の集合を区別した。
後者は前者と異なり、一つのものとして考えることができる。
自然は集合-多数性であり、唯一のものではあるが一つではない。
タペストリーは唯一のものではあり得るが、模様が必ずしも相互に関連を持たない場合には一つのものではないように。
自然は大きさにおいて無限なのだろうか。
エピクロス主義者が望んだように、分子や原子というような自然の構成要素の数は無限である。
つまり、我々が数えた原子の数がどれだけ大きくても、常にそれ以上のものが存在する。
しかし、自然は大きさにおいて無限ではない。
その意味は、前に与えられた大きさよりさらに大きいものだからである。
この特徴は数や種類に属することだが、自然はむしろ大きさを超えたところにある。
同様に、老子の『道徳経』において、「道」は老子によって「大きい」と命名されている。
それは絶対的な言葉で、道――Nature naturante のようにすべてを生み出す創造者、神のようなもの――はすべてを包み込むもので、すべてがそれ自身によりその中で生まれ、その中で一時的に留まるものを持っている。
(38)
わたしは自然をタペストリーになぞらえた。
自然は「出口なし」なので、迷宮にも譬えることができるだろう。
これはエウリピデスが apeiros という言葉で表現したものである。
「無限」――「終わり」なし、つまり出口なしである。
我々は自然から出ることはない。
我々はそこで果てしなく、出口を見つけることなく歩くのである。
それは不可解な藪である。
従って、科学知を使って自然の秘密に入り込む仕事は、終わりなき仕事なのである。
我々が物理学の本で読む自然現象の法則は、単純である。
なぜなら、現象を複雑にしているものを無視するからである。
もし、単純さが現実のもので深いならば、測定法の精度の向上はこの単純さと互換性があるだろう。
しかし、「おそらく」そのようにはいかないとポアンカレは言う。
「もし我々の研究方法が益々深く入り込むとすれば、複雑なものの下に単純なものを発見するだろう。
それから単純なものの下に複雑なものが、そして複雑なものの下に新しい単純なものが、という具合に進み、どれが最後のものなのかを知ることはないだろう。」
ポアンカレは「最後のもの」があることを明らかに疑っている。
(39)
科学が自然の知の中を進むことができる限り、無限の課題に直面するように見えるが、知の永続的進歩も同様に無限なのである。
しかし、ここでは唯物論者の間でよく見られる科学的熱意を制限し、緩和する2つの考慮事項が求められる。
まず、自然の中には知を拒否するすべてのものが存在しているということ。
第二に、科学が特定の形而上学を示唆している以上、幻想を醸成しているのは科学自体ではないかを自問することができることである。
第一の点は難しくはない。
ポアンカレは「科学は常に不完全である」と言った。
そして「精神は対象を外からしか見ることができないので」、対象を完全に知ることはできないとした。
実を言えば、物体には内面性がない。
知を拒否するものはその中には何もない――少なくとも形式上はであるが。
なぜなら、実際のところ、原子下のレベルでは見ているものを修正することなく観察することは不可能なので限界が生じるからである。
そこからハイゼンベルクの不確定原理が生まれた。
内面性は生物界とともに出現する。
内面性は客体化できない。
客体化できないものは知り得ない。
猫の精神で何が起こっているのか。
それをどのように知るのか。
モンテーニュはそれに当惑した。
この問いには意味があるのだろうか。
もし、動物の生きている内面に我々が入り込むことができないのだとしたら、人間についても同じである。
我々は、他者の心持や精神状態を思い描き、喜びや痛みに共感することはできるが、他者自身にしか見せない極端な剥き出しの姿の中で出会うことはない。
科学は個人の内奥を知る手段を与えていないのである。
(40)
第二に、科学が哲学者にとって幻想の原因ではないかどうか、少なくとも自然が彼らの目に一体性には還元されない真の多数性(Vielheit)であるのかどうかを問うことができるとわたしは言った。
わたしが「科学」と言う時、科学者に自然を捉えることを保証し、わたしが論理数学的ロゴスと名付ける強力な知的骨組みのことを考えている。
このロゴスは、自然が反応することを望むのであれば話さなければならない言語であることを我々は知っている。
しかし、科学者はこれらの反応がチグハグであるのを認めることができない。
科学者はそれらの反応がすべてを包み込んで唯一無二のものでなければならなかったかのように、それぞれの反応を結び付けようとする。
コスモス(宇宙)の統一性を前提としているのである。
なぜなら、科学者は基本的な力を統一に持って行こうとするからである。
そこから、場の統一理論の探究、「大統一」と呼ばれる理論、「宇宙全体の」量子理論の探究などが行われる.
全ての法則を一つの統合として結び付ける「全体理論」と呼ばれるものが望まれるのである。
そしておそらく、最小の次元で素粒子物理学によって宇宙を調査するか、最大の次元で天体物理学によって宇宙を調査するかにかかわらず、それは常に同じ宇宙である。 それはまさに「我々の」宇宙なのである。
(41)
20年程前の1985年1月26日、ジュネーブにあるCERNの物理学者故ポール・ミュセが、ソルボンヌで「素粒子、天体物理学、宇宙論」というセミナーを行ったが、多くの疑問が生まれた。
わたしの質問は以下の通りであった。
「あなたの発表原稿では、宇宙と『我々の』宇宙について語られています。あなたの語る宇宙は『観察された事実』に基づいて考えられたものなので、わたしにはこの宇宙が『我々の』もの――すなわち、ヴェルナー・ハイゼンベルクが言ったように人間の宇宙――にしか過ぎないように見えます。哲学者が宏大さの中に多数の宇宙を考えるのを妨げるものは何もありません。それはエピクロスがやったことです。」
これに対してミュセはこう答えた。
「もし宇宙が閉じているとすれば、常にこの仮説を出すことができ、閉じている我々の宇宙は他の宇宙と何のコミュニケーションもありません。」
そして、こう付け加えた。
あなたの提案は「思弁的」なので、物理学者の興味を惹かないと。
表現は正しいが、形而上学は思弁なのである。
我々は常に宇宙の多数性についての仮説を提出できるのである。
なぜなら、物理学者の宇宙は「人間の」宇宙であり、必然的に閉じている。
その意味は、世界という全体性の中で、全ては全てと結び付いている。
ニーチェは「自然を人間的なものにすること」(humanisation de la Nature)について語っている。
わたしが「世界化(世俗化)」(mondanisation)として定義したのは、この「人間的なものにすること」(humanisation)である。
プラトンは世界の単一性について疑問を呈することができることを認めている。
「複数の、あるいは無限の数の天国があるという方がより正確ではなかったのか」と彼は『ティマイオス』の中で言っている。
そして、デモクリトスには反論し得ないことをプラトンは認めている。
確かなことは、科学者は複数の宇宙を認めることができないということだけである。
なぜなら、2つの宇宙があることになった途端、プラトンが示したように、科学者は一つのものにしてしまうからである。
というのは、もし宇宙が2つの場合、科学者は我々の宇宙の中にもう一つの宇宙を認めるように強いる何かを見つけたからである。
そのため、そこでも宇宙は統合されるのである。
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最近、宇宙は一つとする見方と同時に、マルチバース(多元宇宙論)の考え方も出されている
その意味では、形而上学者コンシュさんの見方にも通じるところがある
科学は観察されたもの、実証されたものに基づいて進むので、当時の科学者の意見が間違っていたとしても致し方ないだろう
科学者は想像ではものが言えないのである
その点、形而上学者の方が自由度が大きいとも言えるのだろうか
(42)
我々の宇宙は――天体物理学者が言うところの観察され得る宇宙なのだが――、現実の全体なのだろうか。
物理学者はこの問いを考えない。
なぜなら、彼らの内のある者は信者で、彼らによれば宇宙の外には神がいるからである。
それでは自然だって同じではないだろうか。
宇宙は150億年の歴史があると言われる。
無限の中での150億年とはどういうものなのか、と思わず言いたくなる。
パスカルに助けを求めてみよう。
彼は「有限は無限の前では無に帰し、純粋な無になる」(fr. 233 Br.)と言っている。
従って、これらの言葉に変更すべきものはない。
「人間は自らを自然の遠くにあるこの小さな区画に迷い込んだものとして見ること、そして宇宙という人間が住んでいるこの小さな牢獄から、地球、王国、町、そして自分自身の正当な値を見積もることを学ぶのである。無限における人間とは何なのか」(fr. 72 Br.)
この無限は自然である。
「無限」という言葉が、パスカルが最初に書いた「自然」という言葉に取って代わったのである。
自然の無限の宏大さの中における人間そして人間の「小さな牢獄」である宇宙とは何なのだろうか。
(43)
科学者が必然的にそこに認める統一性のお陰で、宇宙はわたしが世界と呼んでいるもの、すなわち、何らかの有機的なやり方で出来ている全体(holos)、あるいはすべてが結び付いている全体を指している。
草の葉の100分の1プースを厳密に理解するためには、宇宙を理解しなければならないとよく言われたことをフィリップ・フランクは我々に思い出させてくれる。
これは、わたしが自然を世界――それは組織化され有限で、いずれにせよ閉じている――にすると呼んでいるもので、その古代のモデルはストア派の宇宙(cosmos)である。
ハイゼンベルクは「科学は人間によって作られた。この自明の事実は容易に忘れられる」ことを我々に喚起してくれる。
それでは、人間は何をするのか。
人間は自然を「有限にする」のである。
「我々だけのために、有限はある」とニーチェは言った。
さらに加えて「全体、統一性を取り除くことがわたしには重要に見える」と言った。
そこからこのメモが生まれる。
「『混沌即自然』(Chaos sive Natura)、自然の非人間化」。
いくつか引用がある。
ポアンカレを引用する時、わたしはポアンカレの権威の下に身を置く。
ニーチェを引用する時には、ニーチェの権威下に身を置くことはない。
わたしが考えていることが表現されているのを見付けて喜ぶだけで、わたしはその言葉を借りる。
自然を人間化し、自然を世界の中に有限化するという事実によって、無限という考えを排除した途端、科学は錯覚の原理になるのである。
なぜなら、科学は物理学者の宇宙――上に述べた自然――を考えるようになるからである。
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コンシュさんが考える「自然」「宇宙」「世界」の違いが見えてきたように感じる
この中で自然が最も大きい――と言っても無限なので表現のしようがないのだが――もので、本来は宇宙も同じように考えている
しかし、科学は「宇宙」の中から組織化され、閉じているものを取り出して「宇宙」と称している
それはコンシュさんの言う「世界」と同じものだろう
科学は無限の概念を排除し、有限の「宇宙」を相手にする
どうもニーチェは科学のこのやり方に異議を差し挟んでいたようだ
ところで、コンシュさんがニーチェと対した時に感じたことの中に、わたしが発見したことが含まれていて嬉しく思った
それはコンシュさんが考えていたことをニーチェも考えていた、ということである
このような経験をわたしも多くしてきたので、「読書をするのは、自分が何を考えているのかを知るためである」というフォルミュールを作った
さらに言えば「読書は己を知るために欠かせない作業で、魂の鍛錬になる」となり、これまでにも何度か触れてきた
つまり、ソクラテスの教えに従って、己を知ることが生きる意味だとすれば、過去人の考えに触れることは、まさに人生の意味を満たすためことに繋がるのである
コンシュさんはそこまでは言っていないが、、
それを言えば、このような言説をあまり見たことはないのだが、、
(44)
しかし、皆さんはわたしにこう言うだろう。
なぜ、天体物理学者の言葉を借りれば「神秘的なビッグバン」によって始まったこの宇宙が――そこには歴史があり、絶え間なく膨張している、あるいはしていない――、自然の全体ではないのか、と。
さらに、「あなたは、この宇宙が広大な自然の中における『小さな牢獄』にしか過ぎないと主張している。あなたは、他の人たちが神を信じるように、自然を信じている」と。
わたしは、形而上学が純粋に合理的な回答を出すことができないことは認める。
有神論あるいは自然主義の立場に立って議論することもできるが、議論というのは、我々が議論に対して自由に与えたいと思う力しか持っていない。
わたしは、形而上学とは「自由に基づくものである」と言った。
事実と事実を超えたものがあり、この超えたものに中身を与えるには信念が必要になる。
ところで、自然の中にあるものが、わたしにとって最も確かなように見える。
なぜなら、神は事実を超えているのに対し、自然はすべての人に直に開かれており、事実であると同時に事実を超えている。
さらに、神がいないとすれば、人間の自由は制約されない。
人間が自由なのである。
(45)
しかし、人々はこう言うだろう。
もし人間が自然に組み込まれるとしたら、人間の自由はどうなるのか、と。
唯心論者と唯物論者は、自然主義者が自然の只中で人間の自由を考えることの難しさを共に強調する。
イヴォン・キニウは、そこにわたしの「哲学的構想」における「唯一の盲点」があると指摘する。
しかし、ここにアルキメデスの点(議論の基礎として信頼できる開始点、真理を看取する視点、神の視点)があるという利点がある。
いずれにしても、我々はまず、真理を得る判断を可能にする人間における開放性(Dasein)である普遍的な自由として、そして個人が自身の原因であり、人間であるための可能性の出現である個人的な自由として、自由を疑うことはできないことを知っている。
(46)
従って問題は、そこで自由が可能になるように自然を理解することである。
それはまさしくエピクロスの問題であり、原子の中に自由を位置付けることにより、彼はこの問題を解決したのである。
リュキアのオエノアンダのディオゲネス(2世紀のエピクロス主義者)は言っている。
「君は、デモクリトスは発見しなかったが、エピクロスが明らかにした原子の偏りから成る自由な運動を原子もしていることを知らないのか」(fr. 32 Chilton)
しかし、自身の唯物論によって、エピクロスは原子の自由を真に想定するのを妨げられ、キケロ、それからモンテーニュはエピクロスのクリナメン(原子の偏り)を揶揄わずにはいられなかった。
しかし、すでに見たように、自然を物質に還元すべきではない。
この物質とは、マクロのレベルで常識に訴える自然に過ぎない。
もし、微細なレベル、無限に小さい物理的なレベルにある、プランク定数が支配する自然の深みにまで下っていくと、人間のレベルであったもの――物質、ラプラスの決定論、時空の枠組み、局所実在主義――はなくなるのである。
(47)
それでは我々は何を持っているのだろうか。
わたしは創造性だと言おう。
なぜなら、創造性とは、それなしには自然が存在しないものだからである。
古典的な形での因果性の原理は創造性を排除する。
なぜなら、結果の中には原因より多くのものはあり得ないからだ。
ライプニッツは「十分な原因と結果全体との」等価性の原理を作った。
つまり、「結果は原因を超えないはずだ」ということである。
しかし、原因と結果の間に同一性があるとすれば、何も起こらないのと同然である。
最早、出来事も自然もないことになる。
何も新しいものがないので、我々は全体を理解できるが、自然は消え失せる。
これが因果律の結果である。
このように因果律は古典的な科学を支配していたのである。
エミール・メイヤーソンは「自然を理解できると仮定することにより、自然を完全に破壊することになった」と言っている。
しかし、自然は存在している。
これは、原因とは異なる結果があることを意味している。
原因では説明できない結果を生み出す原因の存在である。
「原因あるいは近接の条件が、結果を説明するために必要となるすべてを含んでいることをどのように理解するのだろうか。原因には、結果と原因を識別するところのもの、因果性の関係に不可欠な条件である『新しい要素』の出現が含まれることは決してないだろう。」
しかし、この新規性こそ自然に内在する特徴なのである。
なぜなら、自然は絶えず入れ替わっているからだ。
(48)
絶えず「ものこと」が始まるのでないとすれば、この創造性とは何を意味しているのだろうか。
起こったことの単純な繰り返しはない。
そうでなければ、時間は何のためになるのか。
時間は創造的ではないし、「同じ川に二度入ることはできない」と言ったヘラクレイトスは間違っていただろう。
今の自然は以前に在ったものの中には含まれていなかったこと、過去に在ったものから見れば自由であったこと、自主性が無限な場であることを。
しかし彼は、デモクリトスの普遍的なメカニズムは保持した上で、その上に単にこのメカニズムの破綻のアイディアを張り付けたのである。
自然はレベルに合わせて解析しなければならない。
自由と自然の所謂矛盾は、自然の唯物論的見方から来たものである。
生命のない物質から生命や精神や自由を引き出すことができないのは確かである。
しかし物質とは、表層は表面的で比較的固まり硬直化しているに過ぎないが、その深みにおいては永遠の活力であり革新に他ならないものである。
自然は常に革新的で、詩人として、すなわち自身の創造を先取りすることなく盲目的に創造する。
自然はペネロペの布のようなもので、それは果てしなく、全体を見渡すことなく、織っては解き、解いては織ることを絶えず繰り返すのである。
なぜなら、何かが起こった途端、自然はそれを無に帰すからである。
自然は自分がやっていることを知らずに人間を創造した。
人間の中で自然は精神になる。
なぜなら、自然は自分を知らないが人間は知っているからである。
自然は自己創造的であるので、人間が自分から始めるという意味で自己創造者と見做す限りにおいて、人間は最も自然な、少なくとも自然の本質に最も合致する存在である。
(49)
18、19世紀においては、唯心論は唯物論と対立させられていた。
エメ・アンリ・ポーリアン(Aimé-Henri Paulian, 1722-1801)の物理学辞典(ニーム、1773)では、二つの並行する欄で一つずつ比較している。
一方に人間は精神であるとあれば、他方にはそれは物質に過ぎないとある。
一方に人間は真に自由であるとあれば、他方には人間は自分を自由だと信じている風見鶏だとある、といった具合だ。
普通の人間の自然に生まれる選択はどちらだろうか。
唯心論に傾くのではないか。
2つの陣営の一方は自然と人間を正当に評価していないので、両者は等価ではない。
人間は、人間が物質に過ぎないとか、動物より自由でないという考えには異議を申し立てる。
それが誤りであることを人間は知っている。
哲学者は自然と人間の創造性を強調しなければならない。
創造的な持続という概念で、彼は正しいところに触れたように、わたしには見える。
しかし彼は、彼がやったように、この概念が一神教的唯心論に与するのを禁じたことをどのように見るのか、どのように見たいのかを知らなかった。
そして、彼は自らが始めたところ――すなわち、自然主義――で終わらなければならなかったのである。
(50)
もし自然の創造性を認めるならば、我々が見ているこの唯一の宇宙を生み出すように自然が自らを制限したことをどのように考えるのだろうか。
ギリシアの多元主義的哲学者が考えたように、このような創造性は無限で、無限の多種多様性を可能とし、唯一の宇宙ではなく、可能なすべての宇宙を生み出すことができるのである。
そうでなければ、制限する原理が必要になり、それは摂理になるだろう。
ライプニッツは、神は最良のものを一つだけ選んだと主張している。
哲学者が神学者に屈服したのである。
空を見てみよう。
物質の集積である銀河系とは何だろうか。
地上の生命は元は物質の集積に過ぎないものに由来していると言われる。
なぜ生命はそこから来たのだろうか。
それは「物質の集積」は物質より遥かに多くのものを含んでいるからである。
(51)
極小のレベルでは、物質の概念はもはや意味を持たない。
原子システムの大きさの次元における基本的な過程は、特定の条件が満たされれば、その活動が生命の活力に導くであろう主軸となる中心の形成を、あちこちに準備する。
我々が他の惑星――それが我々太陽系のものであれ、他のものであれ――に生命を見出すのを待ち望むのは尤もなことである。
また、我々に似た生物から発せられるメッセージが無限の深みからやって来ることもあり得ると考えるのも尤もである。
ビュルマンの問いかけに、デカルトは次のように答えている(ジャン・マリー・ベイサードの訳による)。
「我々は、神が地球の外から、あるいは星などで力を行使しなかったかどうかについて何を知っているだろうか。神が特徴的に異なる他の創造物、他の生命、言ってみれば人間、あるいは少なくとも人間に類似した存在を定着させなかったかどうか、我々は何を知っているだろうか。・・・そして、神が無数の生物種を生み出さなかったかどうか、我々は何を知っているだろうか」
わたしはデカルトが神について言っていることを自然について言うに止める。
しかし、「おそらく」と付け加えてデカルトに同意したいのである。
(了)
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長きに亘ってコンシュさんを読んできたが、ここで一段落としたい
これまでの読みで、彼の形而上学の考え方の骨格が見えてきたように思う
それはわたしのものとも重なるところがあるので、今後さらに検討していきたい
まずは、これまでに読んできたものを纏めながら捉え直す必要があるだろう
陰影が微妙なので、放っておくと闇の彼方に消え入りそうなので・・・