1.11.12

やはり科学は哲学に行き着く



昨日、NHK特集 「神の数式」 の2日分(第1回第2回)を見た。ミクロの世界とマクロの世界を理解するための数式を発見しようとしてきた科学者の物語である。それを観ながら再び浮かび上がってきたのが、昨年 「医学のあゆみ」 で問い掛けた言葉だった。

医学のあゆみ(2012.9.8) 242 (10): 832-836, 2012

例えば、ミクロの世界の完全な理解が可能になり、マクロの世界ではこの宇宙がどこから来たのかが明らかになったとする。その時、われわれを取り巻く世界やわれわれの存在に対する科学的な理解は得られるだろう。それは、この世界がわれわれの直観を超えたものであることを教えてくれるだろう。その成果を基に、この世界の新しい見方を構築できるだろう。

しかし、その科学的理解により、人間が問うべき問題に対する解は得られるだろうか。例えば、この生は生きるに値するのか 、われわれは如何に生きるべきなのかというような問いに対する解である。そこに至るには、科学的な理解を基にしながらも、別の次元へと思索を羽ばたかせなければならなくなる。それこそが哲学的思考と言えるものである。

すなわち、科学の出発点にあった哲学が、科学の行く先にもなければならないことを意味している。わたしが昨年書いた 「科学は哲学に行き着くのか」 という問い掛けは、次第に確信に変わりつつある。それは、わたしの唱える 「デカルトの 『哲学の樹』 の逆転」の世界が待たれることをも意味している。その世界では、すべての科学的知の上に形而上学(今の哲学)があり、そこから下を照らすことになる。

科学の成果から応用へという反射的な回路が優勢な現代である。しかし、科学の成果から思索を介して世界の理解に至る回路を回復することなくして、科学の成果を真に生かしたことにはならないのではないだろうか。そこで待っているのが、哲学的思考ということになる。


 (2013年9月24日)