ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』(白水社、1975)
これから、半世紀前の本『自然の哲学』に目を通すことにした。モントリオール大学やチュニス大学の教授を務めたフランス人哲学者ミシェル・アンバシェ(Michel Ambacher, 1915-1982)による著作である。
この分類から見ると、わたしの場合、「自然哲学」から出発して「自然の哲学」の方向に進みたいと考えているようである。しかし、科学での時間が長かったこともあり、その枠から大胆に出るためにはかなり時間がかかりそうな予感がする。いずれにせよ、アンバシェの言う「自然の哲学」に向かうためのヒントを求めて読み進むことにしたい。
第1章では、このような枠組みが、アリストテレスにおいては対立することも融合することもなく、共存していたことを示すようである。
2025.9.2
今日は、第1章「アリストテレスの体系における自然の哲学と自然哲学」を読むことにしたい
その前段として、ギリシア思想の2つの流れについて触れている
一つは『自然について』(ペリ・ピュセオース)という著作を著した人たちであり、もう一つはその視線を内に向け、道徳的考察を行った人たちである
後者には、ソクラテス(c.470-399 BC)以降の哲学者が含まれるだろう
前者には、世界の起源を水としたタレス(c. 624-c.564 BC)、無限の中に起源を見たアナクシマンドロス(c. 610-546 BC)、空気を原初的形態としたアナクシメネス(585-525 BC)、四元素説を唱えたエンペドクレス(c. 490-c.430 BC)、原子論を唱えたデモクリトス(c. 460-c.370)やレウキッポスなどがいる
彼らの仕事がアリストテレス(384-322 BC)の自然学の基礎となるのである
まず、アリストテレスの体系における自然学の位置が検討される
彼は知を3つの領域に分ける
第一に、自然学と数学、後に形而上学となる第一哲学などの理論的諸学
論理学がこの中に入っていないのは、他の学問に入る前段階で所有していなければならないとされたからだという
第二に、倫理学と政治学のような実践的諸学
第三に、有用なもの、美しいものの製造を目的とする制作的諸学
彼の自然学は、自然現象が具体的・感覚的様相を持っているゆえに、形而上学よりもわれわれに近い
自然について考察した作品を見る場合、2つの見方に対応するグループに分けることができるだろう
一つは、自然が一つの広大な探求領野とされ、その中の様々な部分(天界、月下の世界、植物、動物など)を踏査・記述するもので、その後も「自然哲学」と呼ばれるものと対応している
もう一つは、自然を探求領野とは見なさず、説明の原因・原理として考察するもので、「自然の哲学」の名に相応しい
2025.9.4
今日は、「『自然哲学』すなわち探求領野としての自然」という節を読むことにしたい
われわれが理解する自然哲学は、アリストテレス(384-322 BC)の世界における経験的委細を集めたものだという
彼の著作に表れた全体が自然哲学だと言いたいのだろうか
この世界観は、コペルニクス(1473-1543)やガリレイ(1564-1642)が現れるまでの二千年もの間有効だったことになる
その内容を知るために、『天体論』を検討する
まず天体だが、アリストテレスの世界は星を付着して回転する巨大な球の内部に包まれたものとして捉えられ、この球が天と命名された
星自体が運動するのではなく、天の24時間で1回転の運動が星を動かすのである
イオニアの自然学とは異なり、地上の物質から天ができているのではなく、第5元素のエーテルがその実体であった
このエーテルもまた、1887年のマイケルソン=モーリーの実験で否定されるまでの長きに亘ってわれわれの思考を縛り続けることになる
もう一つの特徴は、空虚を含まないことで、同心球が組み合わさり、その中心には不動の大地(地球)があるというものであった
運動は神によって最初の天に伝えられるが、それは物理的なものではなく、魅力と欲求によるもので、その衝撃は「知性」に見守られ、世界の果てまで伝わってゆくのである
2025.9.5
今日は、昨日の「天」に続き、第二のテーマ「月下の世界」である
この世界は天とは違い、不滅でも永遠でもないわれわれが住んでいる世界である
四元素が関わる生成の宇宙である
すなわち、「乾」と結びついた「熱」は「火」の本性を規定し、「熱」と「湿」の結合は「空気」を生む
「冷と「湿」の結合は「水」を生み、「冷」と「乾」の混合から「土」が生まれる
「水」の「冷」と「湿」が「空気」の「熱」と「湿」に変わる時、蒸気が発生する
つまり、水の「消滅」が空気の「生成」になる
原子論者によれば、実体の生成と消滅は、微粒子状のものの集結と離散が原因だとされる
実体は分解されると考えるが、同質なものにはならないとする
アリストテレス(384-322 BC)の認識とは異なる
アリストテレスは、四元素のいずれでもない物体は「複合体」を形成するとした
第三のテーマは「生きもの」で、アリストテレスにとって主要な部分である
彼に比べると、
リンネ(1707-1778)や
キュビエ(1769-1832)などは一介の生徒にしか過ぎないと
ダーウィン(1809-1882)に言わしめたほどの高い評価を得ていた
例えば、ミツバチの研究、哺乳類の血管系の記述、胚の発達段階、シビレエイの形態論、さらに、脚と翼と鰭(ひれ)の間の相同や羽と鱗(うろこ)の相同を初めて指摘した
いずれにせよ、この広大な領野において2つの方向性を区別する必要があるという
彼は種の分類と形態論で頭角を現した
比較解剖学の創始者と言ってもよいだろう
最初に考察した最も広い2つの部門は有血動物と無血動物で、これは脊椎動物と無脊椎動物に対応するという
もう一つの方向性は、分類の根拠に発生の様式を取り入れようとするものであった
これによれば、高等な動物として胎生動物があり、次に卵生動物が来て、最後は自然発生に近い形で繁殖する動物である
生物学的活動が、生殖、感覚、運動という3つの相で現れることをアリストテレスは知っていた
この中の生殖を研究することで生命現象の本質に迫ることができると考えられる
ただ、質料因と作用因しか考慮せず、形相因と目的因を全く知らないのは誤りであるとした
いわゆる自然哲学を構成する経験的・記述的な著作のほかに、より徹底的・体系的に自然の原因について議論した著作が必要になる
ここで自然の哲学が登場することになる
2025.9.11
これまで、自然(天体、月下の世界、植物、動物)を事実と観察において見る「自然哲学」について簡単に触れてきた
今日から、それとは別の流れにある「自然の哲学」について見ることにする
前者が経験的探求に重きを置くが、こちらは諸現象の存在と運動についての説明に重点が置かれる
具体的には、8巻に及ぶ『
自然学』と3巻から成る『
霊魂論』である
自然哲学はコスモスの像から始まったが、自然の哲学は自然的世界の定義とともに始まる
アリストテレス(384-322 BC)によれば、「自然的」とは自身の中に動的自立性(運動・静止)の原理を有するもののことである
例えば、星の周転、軽い物体の上昇、重い物体の落下、動物の移動など
しかし、寝台とか外套などの類はすべて技術の産物であるので、自然的傾向を有しないとする
自然と技術の関係を見ると、自然も技術も目的のために作用する
この両者は、目的因によって説明されるのである
さらにアリストテレスは、鍛冶屋の技術と動物の発生を比較する
この両者は外的作用と内的作用という違いはあるが、質料に形相を与えて一つの目的を達成するという点では共通する
技術は自然を模倣すると言われる所以である
アリストテレスは、自然学(天文学、光学などを除き)と数学を乖離させる
自然に対する自然学的アプローチと数学的アプローチは両立しないという立場である
数学は感覚的特性を考慮に入れないが、自然学の対象は感覚的質料と形相を持ち、目的に向かう傾向がある
したがって、 後の
ガリレイ(1564-1642)や
デカルト(1596-1650)がするような運動の評価や測定は自然学の問題にはならない
自然の哲学の目的は、個々の運動が宇宙的全体の調和にどのように寄与しているのかを探ることである
2025.9.14
自然の定義の後に、自然活動を構成する四原因(質料因、形相因、作用因、目的因)に影響を与える条件 ≪宇宙論的カテゴリー≫ の考察が続く
1)偶然と必然:
アリストテレス(384-322 BC)の自然学では、目的をもって(必然的に)運動・生成する
しかし、われわれの日常では目的もなく偶々起こることがある
アリストテレスは、一見すると目的論に反するこのような現象を説明する必要があった
この問題に対して、偶然を「秩序の外の混沌」ではなく、「秩序の中の副次的現象」として位置づけ、彼の考えの大枠を保持した
2)無限と空虚:
デモクリトス(c. 460-c.370 BC)や
エピクロス(341-270 BC)によれば、分割できない原子と空虚からこの世界は成り立っている
そこでは、いろいろな種類の原子が空虚の中を動く機械論的な世界が垣間見える
アリストテレスは、世界には「現実態における」無限はなく、「可能態としての」無限は存在するとした
さらに、そこには「現実的な」空虚も含まないとした
なぜなら、空虚の中では運動は無限の速度になるから
無限や空虚を認めると、目的論的世界観が揺らぐと考えたからだろうか
3)場所と時間:
アリストテレスの世界観の特徴は、次のように言うことができるだろう
第一に、重いものは低所に、軽いものは高所に向かうのが自然であるということと、第二に、存在は一続きの包まれるものと包むものからできているということがある
これにより、存在を限定し、そのものにとって自然な(目的に沿った)動きをすると理解していることが分る
アリストテレスの場所は「包むものの動かない第一の限界」と定義され、「不動の包むもの」である
これに対して、例えば液体を入れた瓶や船を運ぶ川は、「場所」というよりは「容れもの」になるだろう
時間は、運動と意識との依存関係で規定される
われわれの精神が全く動いていない(と思われる)時、あるいは周りの運動に気づかない時には時間が経過したように感じない
運動がない時には時間は存在せず、時間は運動の数によって測定できることになる
月下の世界の出来事は時間の中に包まれ、諸物体は普遍的な場所の中に包まれている
のちに
プロティノス(c. 205-270)が言うような至福な、消滅を免れる存在は、時間の中に包まれてもいないし、時間で測定されもしない
最近のわたしの経験から想像するとすれば、これは絶対的幸福の状態と言えるのかもしれない
2025.9.15
生物学的研究のおかげで、第三の要素が「自然の哲学」に入ってくる
生について、記述的・観察できる特性を考察するのではなく(それは「自然哲学」の仕事である)、原理や原因のレベルで分析することが課題になる
最も初歩的な霊魂は、栄養摂取的な生を営む上で基底にあるようなもの
次に動物の感覚的霊魂があり、五感を通して受け取るもののほかに、快楽、苦痛、嫌悪、欲望を感じる能力も持っている
さらに、想像や記憶を持つ動物もおり、人間に見られる最高の能力は
知性あるいは
理性である
そのうえで改めて、アリストテレスにとって 自然学とは「自然的な運動や変化をもつ存在の研究」であり、自然的な存在は「質料」(ヒューレ)と「形相」(エイドス)から成り立つ
霊魂を神学的なものではなく自然学の対象とし、自然体としての生命存在の原理 として理解されると考えたのである
彼の出発点は、自然的発動者としての霊魂が、自然それ自体のように、運動の原理であるはずだという考えである
しかし、自然的運動は有魂の存在には含まれないと言われる
霊魂は動かされず、動かす主動者であり、運動の原因である
霊魂は質料の形相化のレベルに位置づけるられる
目の霊魂は視覚を働かせることであるという言い方をする
霊魂は「自然的・有機的物体の第一の現実態」(生きているものに生命を与える第一の現実態)である
霊魂の本質的特徴として示されるのは、形相と目的になる
2025.9.16
アリストテレス(384-322 BC)の世界において、自己自身で可能態から現実態に移行するものは何もないとすれば、動いているものは他のものによって動かされていなければならない
しかし、このような原因と結果の連鎖を際限なく遡ること(無限後退)ができない
そこから、形なく、動かず、永遠で、その衝撃が宇宙の果てまで伝わる「第一動者」が想定されることになる
アンバシェは言う
運動と変化についての感覚的経験に出発点を置きながらも、形而上学的分析は感覚的経験を、経験的特殊性を通してではなく、「存在としてのかぎりにおいて」われわれに把捉させる
ここは「科学の形而上学化」を考えるうえでも重要なところだと思うが、具体的にどういうことを言っているのだろうか
最初はあくまでも経験から出発する
そこから明らかになったことを個別の経験的レベルに留めるのではなく、その存在のレベルにおいて成り立つ構造や法則に思考を飛躍させるのが形而上学である、と言いたいのだろうか
それが、不動の動者に至った思考過程だということなのだろうか
『天体論』の「自然哲学」が観察のデータと数学的表象においてしか考察しないの対して、「自然の哲学」は第一動者を一種の世界霊魂という形で盲目的必然性として把握するところで満足する
「形而上学」は、それが神学であるがゆえに、第一動者の存在そのものにまで到達する
形而上学者は、自然学的事実や機構、あるいは自然学者の第一動者以上のもの――天界と自然全体を経巡っているのは、渇仰と欲望の徴表のような何かである、というような――を見るという
自然とすべての自然的存在によって住み慣らされた領域の外へわれわれを導き出すのである
アンバシェは次のようにアリストテレスの思想をまとめる
形而上学者の宇宙の原理は「純粋の現実態」であり、すべての存在がそれを渇仰する。それは自己自身の内に自己の対象を見出す至福で単独な思惟である。
宇宙の原理は純粋の現実態であり、思惟だと言っている
これはどういう意味なのだろうか
現実態とはすでに完結してしまったものなので、他のものによって動かされることがない
むしろ相手に働きかけるもの、相手を引き付けるもので、それは真善美のような憧れの対象になるものでなければならない
そのような憧れの対象の在り方は、自己充足した思惟、自分に閉じた至福の思惟に他ならないという
宇宙を動かしている原理は、このような思惟だと言いたいようだ
驚くべき思考の羽ばたきである
2025.9.17
これまで見たように、アリストテレス(384-322 BC)の自然学の体系内部には、探求者の「自然哲学」と理論家の「自然の哲学」が同居し、そうあることを理想としていた
しかし、彼の後継者や中世のアリストテレス学徒はこの課題を成し遂げるすべを知らなかった
彼らの中では、「自然哲学」と「自然の哲学」の間に亀裂があり、2つの学問の間の調和は消失していくのである
彼らは明晰な観察者であり貪欲な経験の蒐集者ではあったものの、認識の分散を克服して体系的全体へと統合させることには興味を示さなかった
しかし同時代に真の哲学的精神を発揮したのは、スコラの神学者や形而上学者の一派であった
しかし、彼の興味は神学であり、彼が付きあっていた科学は、モンテーニュ(1533-1592)に言わせれば、千年以上昔の書物の中の死んだ科学であった
「自然の哲学」が実験的探求から断ち切られていたのである
聖トマスの著作を見ると、「自然の哲学」に帰せられる形相性を通しての解析よりもはるかに多くの質料性において考察されている
「自然の哲学」の考察――原理と原因のレベルにおける世界の出来事の考察――を止めるのである
2025.9.19
今日は、アリストテレス(384-322 BC)の自然学と敵対する体系としての原子論と新プラトン主義がテーマのようだ
なぜ原子論と新プラトン主義が敵対するのか
それは、アリストテレスの中では結びついていた「自然哲学」と「自然の哲学」の絆を緩めているからである
すなわち、原子論の自然哲学は客観的明証性の上に立っているし、新プラトン主義の自然の哲学は観念論的・内省的明証性から生まれているのである
自然哲学は、原理的に自己の理性の分析と自然の働きとの間に平衡を打ち立てようとする
例えば、アリストテレスは自然の働きを職人の活動に透写して説明する
擬人論的な側面である
これに対して自然の哲学は、擬人論的思考を遠ざけ、自然についての経験と一致させて(自然からの与件に合わせて)説明しようとする
しかしアリストテレスとは異なり、そこから超越的で至上の自然についての経験への超出が見られない
自然は本質的に物体と物体が運動する空虚から成り立っていると考える
アリストテレスの有限で円環的なコスモスに対して、あらゆる方向で衝突し合う混乱した無限の宇宙像を描くのである
すべては盲目的進化の結果であり、そこでは偶然と必然が主役で、神を見ることはない
プロティノスと新プラトン主義の思想は、遥かに高く、遥かに遠いところから見る自然の哲学を現している
『エンネアデス』では、自然の機械論的解釈をアリストテレスの技術主義として隔てている
自然は形相であって、形相と質料の合成物ではないとする
自然は手仕事によるのではなく、霊魂であるという唯心論的自然学に向かう
事物が存在するのではなく、精神的生の運動が存在する
観照する主観しか存在しないのである
プロティノスにおいて、自然はどう解釈されるのだろうか
彼は答える
自然とは、沈黙の、だがいくらか曖昧な観照である。なぜなら、自然についての観照とは別の、またそれよりもっと明確な観照があるからである。
より明確な観照とは、霊魂が知性的秩序を観照することによって成し遂げる観照だという
自然が質料の中に映る夢のように見えるのは、この観照の下層においてである
そして、この層の反映を抽象すれば、あらゆる実在を欠いた場所しか残らないという
プロティノスによれば、行動は決して観照の延長や補足物ではなく、それはむしろ観照の「衰弱」を意味している
彼は言う
「観照が人間のうちで衰弱する時こそ、人間は行動に移る」
わたしはいかなる図形も引かないが、「わたしが観照すると、物体の線はあたかもわたしから落ちるかのように現実化する」
観照こそ、人間の最高の営みであり、それは生成的な力を持つと言いたいようである
これで第1章が終わったことになる
2025.9.29
今日から、第2章「近代の自然哲学.自然学者.自然主義者.実証主義者」に入りたい
この章は、次のような構成になっている
第1節 自然哲学と近代自然学
1 自然学と数学
2 数学的自然学と実験技術
3 自然哲学と技術的思考
第2節 自然哲学と自然主義者
1 自然の秩序の表象の探究
2 生理学の研究.機械論と生気論
3 古い自然主義と新しい自然主義
第3節 自然哲学と実証哲学
1 自然の秩序と技術の進歩
2 自然哲学と諸科学の実証哲学
3 自然哲学と現代の新実証主義
2025.10.9
中断があったが、改めて第2章「近代の自然哲学.自然学者.自然主義者.実証主義者」に入る
今日は、この章のイントロをまとめたい
17世紀中葉には、これまで扱ってきた「自然」の概念は消滅傾向にあった
デカルト(1596-1650)は『哲学原理』のなかで、機械的技術の生産と自然の生産は同一であると見なしている
さらに、それまであった「自然哲学」と「自然の哲学」の区別を根底から覆すのである
そして、「自然」がその古い意味――女神だとか、何か想像的な力を指していた――から、質料そのものを指すために用いられるようになる
デカルト流の機械論者、合理主義者には、「自然」という観念は神話臭を帯びていたのである
彼らは「物理学」とか「自然科学」という呼称を用いるようになる
しかし、「自然哲学」は、自然学にとって、自然主義にとって、あるいは実証主義にとって異なる関心事となっていかざるを得なかった
これから、自然哲学とそれぞれの分野の関係を見ていくことになるようだ