ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む

      
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』(白水社、1975)


2025.8.20

これから、半世紀前の本『自然の哲学』に目を通すことにした。モントリオール大学やチュニス大学の教授を務めたフランス人哲学者ミシェル・アンバシェ(Michel Ambacher, 1915-1982)による著作である。

この本でアンバシェは、「自然哲学」と「自然の哲学」を峻別している。序論において、ガリレイ(1564-1642)、ニュートン(1642-1727)、コント(1798-1857)、ダーウィン(1809-1882)の流れにある「自然哲学」に対して、ライプニッツ(1646-1716)、バークリー(1685-1753)、シェリング(1775-1854)、ヘーゲル(1770-1831)、ベルクソン(1859-1941)の流れにあるものを「自然の哲学」としている。前者は自然を包括的、客観的に受け入れる科学者の態度にも通じるものであるのに対し、後者はドイツロマン派の "Naturphilosophie"(自然哲学)のように、機械論的な見方に質的・直感的要素を回復するものだという。

この分類から見ると、わたしの場合、「自然哲学」から出発して「自然の哲学」の方向に進みたいと考えているようである。しかし、科学での時間が長かったこともあり、その枠から大胆に出るためにはかなり時間がかかりそうな予感がする。いずれにせよ、アンバシェの言う「自然の哲学」に向かうためのヒントを求めて読み進むことにしたい。

第1章では、このような枠組みが、アリストテレスにおいては対立することも融合することもなく、共存していたことを示すようである。



2025.9.2

今日は、第1章「アリストテレスの体系における自然の哲学と自然哲学」を読むことにしたい

その前段として、ギリシア思想の2つの流れについて触れている

一つは『自然について』(ペリ・ピュセオース)という著作を著した人たちであり、もう一つはその視線を内に向け、道徳的考察を行った人たちである

後者には、ソクラテス(c.470-399 BC)以降の哲学者が含まれるだろう

前者には、世界の起源を水としたタレス(c. 624-c.564 BC)、無限の中に起源を見たアナクシマンドロス(c. 610-546 BC)、空気を原初的形態としたアナクシメネス(585-525 BC)、四元素説を唱えたエンペドクレス(c. 490-c.430 BC)、原子論を唱えたデモクリトス(c. 460-c.370)やレウキッポスなどがいる

彼らの仕事がアリストテレス(384-322 BC)の自然学の基礎となるのである


まず、アリストテレスの体系における自然学の位置が検討される

彼は知を3つの領域に分ける

第一に、自然学と数学、後に形而上学となる第一哲学などの理論的諸学

論理学がこの中に入っていないのは、他の学問に入る前段階で所有していなければならないとされたからだという

第二に、倫理学と政治学のような実践的諸学

第三に、有用なもの、美しいものの製造を目的とする制作的諸学

彼の自然学は、自然現象が具体的・感覚的様相を持っているゆえに、形而上学よりもわれわれに近い

自然について考察した作品を見る場合、2つの見方に対応するグループに分けることができるだろう

一つは、自然が一つの広大な探求領野とされ、その中の様々な部分(天界、月下の世界、植物、動物など)を踏査・記述するもので、その後も「自然哲学」と呼ばれるものと対応している

もう一つは、自然を探求領野とは見なさず、説明の原因・原理として考察するもので、「自然の哲学」の名に相応しい


2025.9.4

今日は、「『自然哲学』すなわち探求領野としての自然」という節を読むことにしたい

われわれが理解する自然哲学は、アリストテレス(384-322 BC)の世界における経験的委細を集めたものだという

彼の著作に表れた全体が自然哲学だと言いたいのだろうか

この世界観は、コペルニクス(1473-1543)やガリレイ(1564-1642)が現れるまでの二千年もの間有効だったことになる

その内容を知るために、『天体論』を検討する


まず天体だが、アリストテレスの世界は星を付着して回転する巨大な球の内部に包まれたものとして捉えられ、この球が天と命名された

星自体が運動するのではなく、天の24時間で1回転の運動が星を動かすのである

イオニアの自然学とは異なり、地上の物質から天ができているのではなく、第5元素のエーテルがその実体であった

このエーテルもまた、1887年のマイケルソン=モーリーの実験で否定されるまでの長きに亘ってわれわれの思考を縛り続けることになる

もう一つの特徴は、空虚を含まないことで、同心球が組み合わさり、その中心には不動の大地(地球)があるというものであった

運動は神によって最初の天に伝えられるが、それは物理的なものではなく、魅力と欲求によるもので、その衝撃は「知性」に見守られ、世界の果てまで伝わってゆくのである


2025.9.5

今日は、昨日の「天」に続き、第二のテーマ「月下の世界」である

この世界は天とは違い、不滅でも永遠でもないわれわれが住んでいる世界である

四元素が関わる生成の宇宙である

すなわち、「乾」と結びついた「熱」は「」の本性を規定し、「熱」と「湿」の結合は「空気」を生む

「冷と「湿」の結合は「」を生み、「冷」と「乾」の混合から「」が生まれる

「水」の「冷」と「湿」が「空気」の「熱」と「湿」に変わる時、蒸気が発生する

つまり、水の「消滅」が空気の「生成」になる

原子論者によれば、実体の生成と消滅は、微粒子状のものの集結と離散が原因だとされる

実体は分解されると考えるが、同質なものにはならないとするアリストテレス(384-322 BC)の認識とは異なる

アリストテレスは、四元素のいずれでもない物体は「複合体」を形成するとした


第三のテーマは「生きもの」で、アリストテレスにとって主要な部分である

彼に比べると、リンネ(1707-1778)やキュビエ(1769-1832)などは一介の生徒にしか過ぎないとダーウィン(1809-1882)に言わしめたほどの高い評価を得ていた

例えば、ミツバチの研究、哺乳類の血管系の記述、胚の発達段階、シビレエイの形態論、さらに、脚と翼と鰭(ひれ)の間の相同や羽と鱗(うろこ)の相同を初めて指摘した

いずれにせよ、この広大な領野において2つの方向性を区別する必要があるという

彼は種の分類と形態論で頭角を現した

比較解剖学の創始者と言ってもよいだろう

最初に考察した最も広い2つの部門は有血動物と無血動物で、これは脊椎動物と無脊椎動物に対応するという

もう一つの方向性は、分類の根拠に発生の様式を取り入れようとするものであった

これによれば、高等な動物として胎生動物があり、次に卵生動物が来て、最後は自然発生に近い形で繁殖する動物である

生物学的活動が、生殖、感覚、運動という3つの相で現れることをアリストテレスは知っていた

この中の生殖を研究することで生命現象の本質に迫ることができると考えられる

ただ、質料因と作用因しか考慮せず、形相因と目的因を全く知らないのは誤りであるとした

いわゆる自然哲学を構成する経験的・記述的な著作のほかに、より徹底的・体系的に自然の原因について議論した著作が必要になる

ここで自然の哲学が登場することになる



2025.9.11

これまで、自然(天体、月下の世界、植物、動物)を事実と観察において見る「自然哲学」について簡単に触れてきた

今日から、それとは別の流れにある「自然の哲学」について見ることにする

前者が経験的探求に重きを置くが、こちらは諸現象の存在と運動についての説明に重点が置かれる

具体的には、8巻に及ぶ『自然学』と3巻から成る『霊魂論』である


自然哲学はコスモスの像から始まったが、自然の哲学は自然的世界の定義とともに始まる

アリストテレス(384-322 BC)によれば、「自然的」とは自身の中に動的自立性(運動・静止)の原理を有するもののことである

例えば、星の周転、軽い物体の上昇、重い物体の落下、動物の移動など

しかし、寝台とか外套などの類はすべて技術の産物であるので、自然的傾向を有しないとする

自然と技術の関係を見ると、自然も技術も目的のために作用する

この両者は、目的因によって説明されるのである

さらにアリストテレスは、鍛冶屋の技術と動物の発生を比較する

この両者は外的作用と内的作用という違いはあるが、質料に形相を与えて一つの目的を達成するという点では共通する

技術は自然を模倣すると言われる所以である


アリストテレスは、自然学(天文学、光学などを除き)と数学を乖離させる

自然に対する自然学的アプローチと数学的アプローチは両立しないという立場である

数学は感覚的特性を考慮に入れないが、自然学の対象は感覚的質料と形相を持ち、目的に向かう傾向がある

したがって、 後のガリレイ(1564-1642)やデカルト(1596-1650)がするような運動の評価や測定は自然学の問題にはならない

自然の哲学の目的は、個々の運動が宇宙的全体の調和にどのように寄与しているのかを探ることである


2025.9.14

自然の定義の後に、自然活動を構成する四原因(質料因、形相因、作用因、目的因)に影響を与える条件 ≪宇宙論的カテゴリー≫ の考察が続く


1)偶然と必然: 

アリストテレス(384-322 BC)の自然学では、目的をもって(必然的に)運動・生成する
 
しかし、われわれの日常では目的もなく偶々起こることがある

アリストテレスは、一見すると目的論に反するこのような現象を説明する必要があった

この問題に対して、偶然を「秩序の外の混沌」ではなく、「秩序の中の副次的現象」として位置づけ、彼の考えの大枠を保持した


2)無限と空虚:

  デモクリトス(c. 460-c.370 BC)やエピクロス(341-270 BC)によれば、分割できない原子と空虚からこの世界は成り立っている

そこでは、いろいろな種類の原子が空虚の中を動く機械論的な世界が垣間見える

アリストテレスは、世界には「現実態における」無限はなく、「可能態としての」無限は存在するとした

さらに、そこには「現実的な」空虚も含まないとした

なぜなら、空虚の中では運動は無限の速度になるから

無限や空虚を認めると、目的論的世界観が揺らぐと考えたからだろうか


3)場所と時間:

アリストテレスの世界観の特徴は、次のように言うことができるだろう

第一に、重いものは低所に、軽いものは高所に向かうのが自然であるということと、第二に、存在は一続きの包まれるものと包むものからできているということがある

これにより、存在を限定し、そのものにとって自然な(目的に沿った)動きをすると理解していることが分る

アリストテレスの場所は「包むものの動かない第一の限界」と定義され、「不動の包むもの」である

これに対して、例えば液体を入れた瓶や船を運ぶ川は、「場所」というよりは「容れもの」になるだろう

時間は、運動と意識との依存関係で規定される

われわれの精神が全く動いていない(と思われる)時、あるいは周りの運動に気づかない時には時間が経過したように感じない

運動がない時には時間は存在せず、時間は運動の数によって測定できることになる

月下の世界の出来事は時間の中に包まれ、諸物体は普遍的な場所の中に包まれている
 
のちにプロティノス(c. 205-270)が言うような至福な、消滅を免れる存在は、時間の中に包まれてもいないし、時間で測定されもしない

最近のわたしの経験から想像するとすれば、これは絶対的幸福の状態と言えるのかもしれない



2025.9.15

生物学的研究のおかげで、第三の要素が「自然の哲学」に入ってくる

生について、記述的・観察できる特性を考察するのではなく(それは「自然哲学」の仕事である)、原理や原因のレベルで分析することが課題になる

アリストテレス(384-322 BC)は、生の自然的原理を霊魂(プシュケー)であるという

最も初歩的な霊魂は、栄養摂取的な生を営む上で基底にあるようなもの

次に動物の感覚的霊魂があり、五感を通して受け取るもののほかに、快楽、苦痛、嫌悪、欲望を感じる能力も持っている

さらに、想像や記憶を持つ動物もおり、人間に見られる最高の能力は知性あるいは理性である


そのうえで改めて、アリストテレスにとって 自然学とは「自然的な運動や変化をもつ存在の研究」であり、自然的な存在は「質料」(ヒューレ)と「形相」(エイドス)から成り立つ

霊魂を神学的なものではなく自然学の対象とし、自然体としての生命存在の原理 として理解されると考えたのである

彼の出発点は、自然的発動者としての霊魂が、自然それ自体のように、運動の原理であるはずだという考えである

しかし、自然的運動は有魂の存在には含まれないと言われる

霊魂は動かされず、動かす主動者であり、運動の原因である

霊魂は質料の形相化のレベルに位置づけるられる

目の霊魂は視覚を働かせることであるという言い方をする

霊魂は「自然的・有機的物体の第一の現実態」(生きているものに生命を与える第一の現実態)である

霊魂の本質的特徴として示されるのは、形相と目的になる



2025.9.16

今日は、「第一動者」(不動の動者)についてである

アリストテレス(384-322 BC)の世界において、自己自身で可能態から現実態に移行するものは何もないとすれば、動いているものは他のものによって動かされていなければならない

しかし、このような原因と結果の連鎖を際限なく遡ること(無限後退)ができない

そこから、形なく、動かず、永遠で、その衝撃が宇宙の果てまで伝わる「第一動者」が想定されることになる

 アンバシェは言う

運動と変化についての感覚的経験に出発点を置きながらも、形而上学的分析は感覚的経験を、経験的特殊性を通してではなく、「存在としてのかぎりにおいて」われわれに把捉させる

ここは「科学の形而上学化」を考えるうえでも重要なところだと思うが、具体的にどういうことを言っているのだろうか

最初はあくまでも経験から出発する

そこから明らかになったことを個別の経験的レベルに留めるのではなく、その存在のレベルにおいて成り立つ構造や法則に思考を飛躍させるのが形而上学である、と言いたいのだろうか

それが、不動の動者に至った思考過程だということなのだろうか


天体論』の「自然哲学」が観察のデータと数学的表象においてしか考察しないの対して、「自然の哲学」は第一動者を一種の世界霊魂という形で盲目的必然性として把握するところで満足する

「形而上学」は、それが神学であるがゆえに、第一動者の存在そのものにまで到達する

形而上学者は、自然学的事実や機構、あるいは自然学者の第一動者以上のもの――天界と自然全体を経巡っているのは、渇仰と欲望の徴表のような何かである、というような――を見るという

自然とすべての自然的存在によって住み慣らされた領域の外へわれわれを導き出すのである


アンバシェは次のようにアリストテレスの思想をまとめる

形而上学者の宇宙の原理は「純粋の現実態」であり、すべての存在がそれを渇仰する。それは自己自身の内に自己の対象を見出す至福で単独な思惟である。

宇宙の原理は純粋の現実態であり、思惟だと言っている

これはどういう意味なのだろうか

現実態とはすでに完結してしまったものなので、他のものによって動かされることがない

むしろ相手に働きかけるもの、相手を引き付けるもので、それは真善美のような憧れの対象になるものでなければならない

そのような憧れの対象の在り方は、自己充足した思惟、自分に閉じた至福の思惟に他ならないという

宇宙を動かしている原理は、このような思惟だと言いたいようだ

驚くべき思考の羽ばたきである


2025.9.17

これまで見たように、アリストテレス(384-322 BC)の自然学の体系内部には、探求者の「自然哲学」と理論家の「自然の哲学」が同居し、そうあることを理想としていた

しかし、彼の後継者や中世のアリストテレス学徒はこの課題を成し遂げるすべを知らなかった

彼らの中では、「自然哲学」と「自然の哲学」の間に亀裂があり、2つの学問の間の調和は消失していくのである

中世文明が確立した時期を見ると、ギリシア・ローマの自然主義の伝統を継承するロバート・グロステスト(c. 1175-1253)、ロジャー・ベーコン(1214-1294)、ヴァンサン・ド・ボーヴェ(c. 1184/1194–c. 1264)、アルベルトゥス・マグヌス(c. 1200-1280)などの探究者群が見られる

彼らは明晰な観察者であり貪欲な経験の蒐集者ではあったものの、認識の分散を克服して体系的全体へと統合させることには興味を示さなかった

しかし同時代に真の哲学的精神を発揮したのは、スコラの神学者や形而上学者の一派であった

中でも著名なのは、トマス・アクィナス(c. 1225-1274)である

しかし、彼の興味は神学であり、彼が付きあっていた科学は、モンテーニュ(1533-1592)に言わせれば、千年以上昔の書物の中の死んだ科学であった

「自然の哲学」が実験的探求から断ち切られていたのである

聖トマスの著作を見ると、「自然の哲学」に帰せられる形相性を通しての解析よりもはるかに多くの質料性において考察されている

「自然の哲学」の考察――原理と原因のレベルにおける世界の出来事の考察――を止めるのである

ガリレイ(1564-1642)の『新科学対話』(1638)においても哲学者を皮肉っている


2025.9.19


今日は、アリストテレス(384-322 BC)の自然学と敵対する体系としての原子論と新プラトン主義がテーマのようだ

なぜ原子論と新プラトン主義が敵対するのか

それは、アリストテレスの中では結びついていた「自然哲学」と「自然の哲学」の絆を緩めているからである

すなわち、原子論の自然哲学は客観的明証性の上に立っているし、新プラトン主義の自然の哲学は観念論的・内省的明証性から生まれているのである

この点について、前者についてはルクレティウス(c. 99-55 BC)の『物の本質について』、後者についてはプロティノス(c. 205-270)の『エンネアデス』にある「自然、観照、一者について」を例に検討してみたい


自然哲学は、原理的に自己の理性の分析と自然の働きとの間に平衡を打ち立てようとする

例えば、アリストテレスは自然の働きを職人の活動に透写して説明する

擬人論的な側面である

これに対して自然の哲学は、擬人論的思考を遠ざけ、自然についての経験と一致させて(自然からの与件に合わせて)説明しようとする

物の本質について』には、自然と理性の擬人論的同化が最初から見られる

しかしアリストテレスとは異なり、そこから超越的で至上の自然についての経験への超出が見られない

自然は本質的に物体と物体が運動する空虚から成り立っていると考える

アリストテレスの有限で円環的なコスモスに対して、あらゆる方向で衝突し合う混乱した無限の宇宙像を描くのである

すべては盲目的進化の結果であり、そこでは偶然と必然が主役で、神を見ることはない

プロティノスと新プラトン主義の思想は、遥かに高く、遥かに遠いところから見る自然の哲学を現している

エンネアデス』では、自然の機械論的解釈をアリストテレスの技術主義として隔てている

自然は形相であって、形相と質料の合成物ではないとする

自然は手仕事によるのではなく、霊魂であるという唯心論的自然学に向かう

事物が存在するのではなく、精神的生の運動が存在する

観照する主観しか存在しないのである

プロティノスにおいて、自然はどう解釈されるのだろうか

彼は答える
自然とは、沈黙の、だがいくらか曖昧な観照である。なぜなら、自然についての観照とは別の、またそれよりもっと明確な観照があるからである。
より明確な観照とは、霊魂が知性的秩序を観照することによって成し遂げる観照だという

自然が質料の中に映る夢のように見えるのは、この観照の下層においてである

そして、この層の反映を抽象すれば、あらゆる実在を欠いた場所しか残らないという

プロティノスによれば、行動は決して観照の延長や補足物ではなく、それはむしろ観照の「衰弱」を意味している

彼は言う

「観照が人間のうちで衰弱する時こそ、人間は行動に移る」

わたしはいかなる図形も引かないが、「わたしが観照すると、物体の線はあたかもわたしから落ちるかのように現実化する」

観照こそ、人間の最高の営みであり、それは生成的な力を持つと言いたいようである

これで第1章が終わったことになる



2025.9.29

今日から、第2章「近代の自然哲学.自然学者.自然主義者.実証主義者」に入りたい

この章は、次のような構成になっている

第1節 自然哲学と近代自然学

 1 自然学と数学

 2 数学的自然学と実験技術

 3 自然哲学と技術的思考

第2節 自然哲学と自然主義者

 1 自然の秩序の表象の探究

 2 生理学の研究.機械論と生気論

 3 古い自然主義と新しい自然主義

第3節 自然哲学と実証哲学

 1 自然の秩序と技術の進歩

 2 自然哲学と諸科学の実証哲学

 3 自然哲学と現代の新実証主義



2025.10.9

中断があったが、改めて第2章「近代の自然哲学.自然学者.自然主義者.実証主義者」に入る

今日は、この章のイントロをまとめたい

17世紀中葉には、これまで扱ってきた「自然」の概念は消滅傾向にあった

デカルト(1596-1650)は『哲学原理』のなかで、機械的技術の生産と自然の生産は同一であると見なしている

さらに、それまであった「自然哲学」と「自然の哲学」の区別を根底から覆すのである

そして、「自然」がその古い意味――女神だとか、何か想像的な力を指していた――から、質料そのものを指すために用いられるようになる

デカルト流の機械論者、合理主義者には、「自然」という観念は神話臭を帯びていたのである

彼らは「物理学」とか「自然科学」という呼称を用いるようになる

しかし、「自然哲学」は、自然学にとって、自然主義にとって、あるいは実証主義にとって異なる関心事となっていかざるを得なかった

これから、自然哲学とそれぞれの分野の関係を見ていくことになるようだ



2025.12.21

2か月振りに再開することにした

前回は、近代の自然哲学と自然学、自然主義、実証主義を論じた第2章の第1節「自然哲学と近代自然学」を取り上げた

今回は第2章、第2節「自然哲学と自然主義者」のイントロを読むことにした

近代的な自然学とアリストテレス(384-322 BC)の自然哲学の亀裂は早くから現れていたという

しかし、生物学などの領域では、ペリパトス派の思想から解放されるのにかなりの時間を要した

例えば、ビュフォン(1707-1788)は次のようなことを書いている
自然は一つの事物ではない。なぜなら、この事物はすべてであろうから。自然は一つの存在ではない。なぜなら、この存在は神であろうから。むしろ自然は、すべてを抱擁し、すべてに生命をあたえ、第一存在の力にしたがいながらその秩序によってしか動きはじめず、またその協力と同意によってしか行動しない生きた巨大な力である、と考えることができる。

18世紀を代表する科学者が、アリストテレスを彷彿とさせる思想を展開している

少し遅れて、ラマルク(1744-1829)もまたアリストテレス流の生命論を強調し、「自然の力」を喚起する

これはシェリング(1775-1854)やベルクソン(1859-1941)を予告しているかのようであるという

アリストテレスの伝統との真の決別が起こるのは、現代になってからだった



2025.12.22

今日は、第2章、第2節「自然哲学と自然主義者」の第1項「自然の秩序の表象の探究」を読むことにしたい

アリストテレス(384-322 BC)は、人間を比較の起点を見なして「存在の階梯」(scala naturæ)を作りあげた


その後も、同様の階梯(chain of being)が考案されたが、基本的には、一番下に鉱物が置かれ、植物、動物、そして最上位に人類が配置された

18世紀に至っても、スイスの博物学者シャルル・ボネ(1720-1793)は左図のような分類を提案している

下から見ていくと、石、植物、昆虫、貝、蛇、魚、鳥、四足類、そして最上位には人類が並んでいる

近代科学(物理学、天文学)において古代の世界観が拭い去られた時にも、生物哲学はアリストテレス主義に何ら批判を加えなかった

新しい合理精神が自然科学の中に入ると、存在(自然)の階梯という古代の形而上学的見方は、自然の体系に移行するようになる

自然をわれわれに晒された形相の階層として考察するのではなく、それらの形相を結び付けている分類体系を発見するようになる

リンネ(1707-1778)は、植物の部分の数、形態、比例、位置というような性質の中に、植物を区別するのに適したものを見出した

例えば、雄蕊だけを見ることにより、24種の分類に成功した

しかし、このやり方は古代の自然主義的方法によく似た純粋に記述的な方法を取っているビュフォン(1707-1788)のような者たちを激昂させた

このような対立は、キュヴィエ(1769-1832)の不変説とラマルク(1744-1829)の変移説の対立を予感させるものである

ダーウィン(1809-1882)は、注意深くこう書いている

若干の優れた著者たちは、すべての種がそれぞれ独立に創造されたという仮説に十分満足しているようである。私の考えでは、造物主によって物質に課せられた法則について我々の知っていることは、地球の過去および現在の居住者の誕生と滅亡が二次的原因の結果であるという仮説と、もっともよく合致するように思われる。

ここで二次的原因と言っているのは自然のメカニズムのことで、ダーウィンはさらにこう言っている
人工的選択(淘汰)によれば、人間は自分に有益ないくつかの方向に、自然によって与えられる継起的変異を積み重ねるだけであるの対し、自然選択によると、有益な個体的変異の保持と有害な変異の除去を保証してくれるのは自然そのものである。

人工的な選択が狭い範囲の目的しか達し得ないのに対し、自然選択では個体の生存(コナトゥス)という長い時間軸における自然の創造性が作用しているということだろう

ただ、このような自然選択の持つ力は擬人的な思想を誘発しかねないので、ダーウィンはこう釘を刺している
自然というときに私が理解するのはただ、数多くの自然的法則の協働と複雑な結果だけである。

クロード・ベルナール(1813-1878)が生気論を攻撃した時に使った論理と同じである

こうして、自然と機械論が合体され、世界の物理化が進むことになる


2025.12.23

今日は2-2-2「生理学の研究.機械論と生気論」に入ることにしたい

自然主義者がアリストテレス(384-322 BC)に対する伝統的な忠誠を示したのに対し、近代の生理学者にはその痕跡は見られない

生理学における説明には、自然学と同様、アリストテレスの物活論との決裂が見られるからである

身体器官と自動水力装置との間に、機械論的比較をやる

デカルト(1596-1650)は、装置の運動に役立つバネを筋と腱の中に見出す

神経をパイプに譬え、水の流れを「動物精神」の流出に譬える

呼吸などの生命活動は、彼に川の流れが動かす水車や時計の運動を思い起こさせる

そして1世紀足らずの間に生気論からの多くの転向が見られる

この転換期において、機械論は自然学の領域を征服したが、生理学からは除外されることになる

これはどういうことなのだろうか

手法的には還元主義的、機械論的に生命現象を分析しているが、それだけでは説明できない個体に特有の傾向――それは生存に向けての努力(=コナトゥス)とも言えるものだが――について全体論的、哲学的に考えなければならない、あるいは生物にはそういう側面があるということなのか

クロード・ベルナール(1813-1878)は、次のようなことを言っている
生命力は、それが産出しない現象を支配するもので、物理的動因は、それが支配しない現象を産出するものである
生気論が話題にする生命力のようなものは、生命現象を直接産出するものではなく、物理的動因が現象の産出に直接手を下す

しかし、現象の全体を統括し、方向づけているのは生命力の方で、物理的動因ではない

ということなのだろうか

であるとすれば、生命現象の全体を支配している「生命力」と言われるようなものがあり、それに基づいて具体的な作用を及ぼしているのが物理化学的な要素であるという立場なのだろうか

いずれにせよ、生物学への科学的精神の働きは、2つの軸に沿って行われた

一つは、モデルの構築と類比の探究で、もう一つは、有機体を化学的構成部分に分解しようとする方向性であった

類比の探究においては、例えば、四肢の関節と梃、目とカメラ、神経衝動と電流、脳とコンピューターなどが類比とされるが、人工的なものは自然を完全に写し取るものとはなりえない

第二の道を進むと、そこに見られるのは有機体の外観を失った化学反応だけになってしまう



2025.12.24

本日から、第2章、第3節「自然哲学と実証哲学」に入ることにしたい

この2つの哲学をつなぐ関係は、オーギュスト・コント(1798-1857)が示している

彼が主張する「実証哲学」と、ニュートン(1642-1727)以来「自然哲学」と呼ばれているものとの間には多くの類似点がある

しかしアンバシェによれば、自然哲学が自然現象という唯一のカテゴリー向かうのに対して、実証哲学は現象の全体に通暁し、天体の自然学である天文学、地上の自然学である生理学あるいは有機体の自然学、さらに社会の自然学である社会学などを包摂するという違いがある

実証精神はその出現以来、その枠を慎重にはみ出していったと見ている

実証主義はコントが歴史を省察したところに起源がある

彼はどのように自然を考察することを学んだのであろうか


まず、2-3-1「自然の秩序と技術の進歩」を読むことにする

コントが発見したとする「偉大な基本法則」として、3段階の法則がある

すなわち、我々の認識は、神学的あるいは虚構的状態、形而上学的あるいは抽象的状態、実証的あるいは科学的状態を次々に経過するというものである

神学的状態においては、人間精神は自然の諸現象を超自然的作動因の直接的産物として見る

この状態の一般的変形としての形而上学的段階においては、超自然的作動因に代わり、抽象的な力が自然現象を説明することになる

そして、実証的段階においては、「宇宙の起源や運命を探究することも、諸現象の内的原因を認識することもやめて、推理と観察をうまく組み合わせて活用しながら、もっぱら現象間の有効な諸法則を発見することに努める」

最後の段階と、その前の2段階との差を次のようにまとめる

神学者や形而上学者は、人間と世界の起源と運命について、解決不能な思弁へとしゃにむに突き進む

神学的思考は出来事の流れを神の意思、もしくは摂理の意図に依存させることにより、決定論からも実証的予見からも引き離す

これに対して実証主義者は、「賢明な慎み」を示し、実際的な問題にしか関心を抱かない



2025.12.25

今日は、2-3-2「自然哲学と諸科学の実証哲学」を読む

オーギュスト・コント(1798-1857)の自然哲学は、自然学や自然研究を構成する5~6の基礎科学の総体によって形作られる

科学の哲学は、これらの学問の整理や分類の原理以外の何ものでもない

科学の特徴として、極端な専門化の結果生まれる「細部の精神」があるのに対し、哲学的思考に特有な徴は「全体の精神」である

したがって、科学の哲学は最初、自然的・具体的な諸科学を除外する

コントがやったことは、哲学から技術者が取り扱う応用科学や技術を切り離すだけではなく、具体的・記述的とされる自然科学をも遠ざけたのである

彼はこう言っている
あらゆる種類の現象に関して二種類の自然科学を区別しなければならない。一つは抽象的・一般的なもので、考えうるすべての場合を考慮して、様々な段階の現象を支配している法則の発見を目的とする。 もう一つは個別的・具体的・記述的で、ときには厳密な意味における自然科学の名をもって呼ばれるものであるが、その法則をいろいろな存在者の事実上の歴史に適用する。

つまりコントによれば、科学の哲学が注目するのは第一のカテゴリーの法則だけであり、自然科学はその法則をもとに個別の事象の解明に当たるということだろうか


コントの科学の哲学は、自然を機械に還元するデカルト(1596-1650)の理想に与するものではない

 科学の哲学は、自然の多様性については遥かに意識的で、それぞれの基礎的学問に自然の一領域を帰属させている

そのため、科学の哲学が最上位にあり、他の領域による侵入を恐れる必要がなくなる

ところで、コントは単純なものから複雑なものへと絶えず取り組んでゆかねばならないという考えに反発している

生理学や社会学のような科学においては、全体から諸部分へ向かう方が適していると考えているようなのである

数学者がいたるところで分析と抽象を繰り返す百科全書的体系の主権を取り上げ、それを社会学者に委ねようとする

コントが見るところ、社会学は、知の構築物のあらゆる次元において自然の観念の「実証主義的」等価物である真の組織的同意を優位に立たせるのに最も適しているという

これは何を言っているのだろうか

実証主義的段階における自然に関する知は、神学的、形而上学的で抽象的な観念が力を及ぼすものではなく、全体において部分が調和しながら(普遍的同意= consensus universel を得ながら)動いているものとして捉える必要があり、社会学はそれに適しているという考えになるのだろうか

もしそうであれば、デカルトの機械論(還元論)に対して、実証主義をもとにした全体論を唱えるコントが見えてくるのだが、、


2025.12.26

今日は、2-3-3「自然哲学と現代の新実証主義」を読みたい

オーギュスト・コント(1798-1857)は、「進歩」という考えの偉大な立役者と考えられているが、自然については静的な見方を取っているという

彼は、あらゆる科学にとっての本質的な問題は、「秩序をそれにふさわしく完成する目的で眺めることである」としている

ラマルク(1744-1829)の変移説にはあまり興味を示さなかったが、キュヴィエ(1769-1832)の不変説については考察の限りを尽くしている

コントは宇宙の起源と運命に関して関心を示さず、真の実証的宇宙を太陽系と若干の星にしか広げていない

パスカル(1623-1662)の無限の宇宙という観念とは大きな違いである

当時の自然哲学が拒否感を示したのも、コントの実証主義が限界を設けているように見える点であった

これで第2章を読み終えたことになる


ここまで読んだ印象の一つに、次のようなことがある

ある事実について語る時、事実だけがまず提示されるというのではなく、最初からその評価が抽象的に語られることが多いので、理解し難いという印象を拭えなかった

つまり、事実についての蓄積がないと、何を言っているのか分からないということになる

もう一つ思い当たるのは、原著に当たったわけではないので確かなことは言えないが、翻訳の問題があるのかもしれない

文字通り訳しても通じない場合の考え方である

その場合には、真意を汲み取った訳が必要になるような気もするが、もともとは直訳がよいと考えていた者としては判断が難しい

最近ではもともとの考えに否定的になってきてはいるのだが、、

これから先はどうであろうか


2025.12.27

今日から第3章「近代における自然の哲学の諸特徴」に入る

近代の科学者が「自然哲学」という言葉を聞くと困惑を覚えるが、同様のことはこの領域の哲学者にも見られるという

ただし、ドイツロマン主義者だけはその内容を熟知していたようである

例えば、シェリング(1775-1854)は、この学問に多くの試論を書いている

ショーペンハウアー(1788-1860)の『意志と表象としての世界』もまた、生きようとする意志の宇宙的経験があらゆるものことの源泉として現れるという意味において、自然の哲学を構成している

ヘーゲル(1770-1831)においては、『哲学的諸学のエンチクロペディー』の中で、論理学と精神哲学の間に自然哲学が並んでいる

さらに、ライプニッツ(1646-1716)も科学者の機械論に立ち向かう自然哲学を書いているので、自然の哲学者の一人になる

彼はこう書いている
私は現代人に理ありとすることにかけてはいささかもやぶさかではないが、私の見るかぎり、彼らはあまりにも遠くへ改革をおしすすめたために、自然の尊厳について十分に偉大な観念をもたなかった

ジョージ・バークリー(1685-1753)も、数学者と物理学者の抽象的な合理主義に対して敵意を隠さず、 知覚の感覚的・直観的所与を自然の本当の言葉を生むべきものと解釈している

ベルクソン(1859-1941)は、当時けなされていた「自然の哲学」の代わりに「形而上学」という言葉を使っているが、本当の方向性は「自然の哲学」にあったとされている

これらの学説が近代の自然の哲学を構成するものとして、その特徴を探究するのが本章の目的のようである


2025.12.28

今日は、第3章、第1節「自然の哲学は反物理学的・反数学的な思想である」を読むことにしたい

自然哲学に数学的構造を取り入れることは、古代ではピタゴラス(572-494 BC)、プラトン(427-347 BC)の意見であったし、後のガリレイ(1564-1642)とデカルト(1596-1650)の意見でもあった

しかし、「自然の哲学」に抽象化の道は適しておらず、むしろそれと対立する直接的で具体的なものを受け入れる

その具体例を見ていこう

3-1-1「数学的物理学に対するライプニッツの批判」では、ライプニッツ(1646-1716)の自然主義への愛着と機械論への敵意が指摘される

デカルトの哲学では、自然との出会いを実際には経験できず、その哲学は大きな「造りもの」だという

ライプニッツの宇宙は組織化されているが、それは通俗的機械論の道具立てとは「類において」異なっている

すなわち、ライプニッツの組織化は、限りなく細部へ下降して行き、1つの支配的モナドのもとに階層化されたモナドの集合体となる

宇宙の中には、荒廃し、不毛で死滅したものは何もなく、物質の各部分は草木に満ちた庭や魚のたくさんいる池のようなものと考えられている

デカルトの世界とは異なり、どこまで行っても生きているのである


ここで、ライプニッツとアリストテレス(384-322 BC)の自然主義の比較が出てくる

アリストテレスは、自然の因果性を、技術の因果性との類比によって考えながら人格化する

その過程で、自然と産業との連続性が存在するが、ライプニッツにおいては断絶である

ライプニッツ哲学で重要になる「形而上学的機械論」は、物理学者と数学者の粗末な機械論に取って代わるだけではない

この機械論は延長と運動から生まれるのではなく、目的性と調和の原理から出発し、モナドという「形而上学的点」の間の意識の関係しか残さない



2025.12.30

一昨日に続く第3章、第1節では、数学的物理学に対するジョージ・バークリー(1685-1753)ヘーゲル(1770-1831)の批判について分析される

そして、第2節では「自然の哲学は反形而上学的思想である」ことが論じられる

形而上学的知は、アプリオリで超越的な知であることを願い、経験の宇宙と諸科学から解き放たれた知を願う

これは自然の哲学とは相容れない性質である

自然の哲学の精神は、形而上学的哲学や観念論的哲学、さらに主観主義的哲学の精神とも混同されてはならないのである


まず、第3章、第2節、第1項で論じられる「自然の哲学の精神と形而上学の精神の違い」について確認しておこう

その証人として、バークリーを出してくる

感覚的世界を蔑むところがあるプラトン的形而上学とは異なり、バークリーはこう語っている
私は自分の感覚を信じ、諸事物を見出すように放置しておくだけの単純な、ごくありふれたタイプの人間です。私の意見を率直に申し上げれば、実在的事物というのは私が感覚によって見、触れ、知覚する事物そのものです。
自然の呈示は物理学的世界の呈示とも形而上学的宇宙の呈示とも同一ではない

したがって、物理学と形而上学から取り残された場所を占めることができるのが、自然の哲学である


次に、3-2-2では「自然の哲学と観念論の精神の違い」が論じられ、証人としてシェリング(1775-1854)が登場する

自然の哲学は、感覚と経験の世界と結びついている

シェリングによれば、「あらゆる哲学は観念論であり、またそれにとどまる」という

自然の哲学は観念論であるという批判に応じることができるだろうか

超越論的哲学のような観念論的体系と自然の哲学との間には、全く精神の共通性がないとアンバシェは言う

シェリングから見れば、後のフッサール(1859-1938)がそうであったように、初め人間は世界の現前に独占された「自然的」と言われる状態で生きている

そして、外部世界に自己を対立させるとき初めて、人間は哲学へ向けて第一歩を踏み出す

ただ、内省の出現によって起こる外部世界との乖離は、人間を非活動的にするので、内省を手段に留め、目的にしてはならないとする

この点において、シェリングの思想は精神の哲学よりは自然の哲学に向かっているのが見える

自然を精神の支配下に置くのではなく、その逆になっているように見えるからである

彼は「自然の体系が同時に我々の精神の体系でもある」ような哲学を目指した


2026.1.4

新しい年を迎え、年を越してしまったアンバシェを読み始めることにしたい

今日は 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」のつづきから

自然の体系が同時にわれわれの精神の体系でもある」と考えたシェリング(1775-1854)の哲学を掘り下げるためには、2つの考え方を理解する必要があるという


1つは、すべての近代の哲学は観念論に捧げられていることである

彼はフィヒテ(1762-1814)を通してカント(1724-1804)の超越論的観念論へ、さらにカントを超えてデカルト(1596-1650)バークリー(1685-1753)の唯心論に結びつく

シェリングはこう言っている
認識者を存在から分離することはほとんど不可能であるから、この企てはむしろ不可避的に認識者自身以外のすべてのものに存在を拒むことになり・・・至る所認識者、精神的なものしか存在せず、精神的でないすべてのものは精神の表象の内にしか存在しないと断言することになる。・・・それはまた、デカルトのすぐ後でマルブランシュ(1638-1715)が、それからやや遅れて、神と物質的身体の表象が生み出すときの有限な精神との外には何も存在しないとしたバークリーが到達した結論である。

これをどのように解釈すればよいのだろうか

近代における、特にデカルト以降の認識論において、認識する主体と認識される客体が分けられるようになる

認識と存在が分離されることになるが、そこで確実なのは認識する側にあるとされる

しかし、そのような分離はできないとシェリングは考えているようである

認識主体は存在しており、認識される側の存在が怪しくなる

外界に存在するものは、精神の中に表象されるものとしてしか存在できなくなる

その結果、実際にマルブランシュは、我々が知覚するのはものそのものではなく、神のうちにある観念として認識すると考えた

またバークリーは、esse est percipi (存在するとは、知覚されることである)という有名な言葉にもあるように、存在するのは神と有限な精神とそこにおける表象だけで、物質的自然は存在しないと考えることになる

しかしシェリングは、この考えに満足していたわけではない


そこで、もう1つの考えを検討する必要が出てくる

彼は、認識主体に先行するものとして自然を見ており、アリストテレス(384-322 BC)の実在論に向かうのである

シェリングは、アリストテレス同様、全体と部分ができる組織化の場合には概念が存在すると考える

しかし、概念が自然の組織化と縁を切らないままそこに住みついていることをアリストテレスは見ていないとして批判する

これはどういうことだろうか

アリストテレスは、自然物において全体が部分に先行し、目的論的に組織化されているという概念構造は認めていた

しかし、その概念は知性による認識によって把握されるもので、自然が自ら生み出すものとは考えなかった

シェリングは、自然というものは自らが組織化し、概念へと向かう自己生成の特徴を捉えていた

換言すれば、自然が最初から概念を宿しているのではなく、自らが組織化によって概念になっていくと考えたのである

自然と精神とが結びついてくる

したがって、超越的存在から与えられた作品として考察するやいなや、自然の観念はことごとく破壊されることになる


2026.1.6

本日で 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」を読み終えたい

これまで、シェリング(1775-1854)の自然の哲学が、観念論による自然(ある目的を持って作られた自然という意味か)に反対して自然の生産性(外からのプログラムのようなものに従って生み出すのではなく、自然自体がすべてを生み出すということか)を喚起することを見てきた

カント(1724-1804)は、時計のような人為的存在と並んで、自律的に組織化する能力を持った生物のような自然的存在があることは見ていた

そこから、アリストテレス(384-322 BC)の外部に設計者がいるとする人為的目的性に対して、自らを組織化する「自然の目的」と名づけたものが出てくる

しかしカントは、目的性の判断は「精神の目」にあるとした

つまり、目的がそこに在るというのは、それを見ている側の精神の作用によるもので、実際に自然の中に在るとは考えなかったのである

したがって、シェリングはカントを全面的には認めることはできなかった

客観の虜にならない反省が可能な者は、生み出された客観としての自然(所産的自然、natura naturata)から能動的な生み出す自然(能産的自然、natura naturans)を推論できなければならない

シェリングのフォルミュールによれば、「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」となる

シェリングの影響を受けていたと思われるエマーソン(1803-1882)は、「自然は思考の具現であり、世界は精神の沈殿である」という言葉を残している

自然は精神が沈殿したものである

何という表現だろうか

自然には精神の発露が見られるというシェリングの自然の哲学は、確かにカントの哲学を突き破ったことが分かる


2026.1.9

今日は、 3-2-3「自然の哲学の精神は主観主義ではない」に入りたい

科学が客観的な規則に従って世界を見るとするならば、哲学に残されているのは主観的な領域だけになる傾向がある

ただ、哲学的探求が主観的な経験から生まれるという印象を与えるのは、自然の哲学ではない

自然の哲学の別の道が開かれるのが、ベルクソン(1859-1941)の哲学の内部である

つまり、援用する直観は、主観性に関わることもなく、諸科学の客観性からも十分な距離を取ることができるのである

自然の哲学には、主観性とも科学の客観性とも距離を取った新たな道が可能であるということなのだろうか


ベルクソンによれば、経験が2つの異なった相に生じることにより、2つの認識法が可能になるという

1つは、空間の中で出会う測定可能な多数の客観的事実の前に我々を立たせるもので、科学が求める予見と技術介入が関わる経験の相である

もう1つは、法則や数量に逆らう質的形式のもとに経験が現われ、実在が意識に示現するときの直観的内容の相である

前者は科学や知性のやり方に対応しているのに対し、後者では直観や内的経験が重要になる

客観性や有効性において、科学は哲学に対して優位を示しているだけではなく、先行性も有しているように見える

なぜなら、哲学的直観は科学が集めた事実から出発しなければならないだろうから

ベルクソンは、この点を認識しない安易な主観的直観を空想であると排除し、「哲学は諸科学を手本にする」としている

ここに、一般的に言われている主観性を放棄するのである


2026.1.10

客観性、有効性、先行性などにおいて優位性を示す科学は、裁断と抽象という方法を用いなければならない

これは「知性」の作用によるが、科学はこの性質ゆえに哲学的直観にその優位性を明け渡すことになる

哲学的直観は、個別性、主観性を超えて自然の全体に広がる

なぜなら、意識は自己を外化することを止める時、自分自身に向き合うことになり、そうすることにより自分を超えた多くのものとの接触が始まるからだという

ベルクソン(1859-1941)はこう言っている
世界を満たしている物質と生命は我々の内でも同じである。すべての事物に働きかける諸力を、我々は自身の内に感じ、つくられるものとみずからつくるものとの内的本質がいかなるものであろうとも、我々は現にその諸力である。

こうして、主観性と客観性の道の他に、第三の道が現れる 

その道は、客観性の姿が内省によって間接化された時、すでにシェリング(1775-1854)がやったような形で開けているのである

これはどういう意味だろうか

外から観察して裁断する科学でも、内から主観的な世界を見るのでもなく、われわれの中にある世界を形成する力そのものを経験すること

客観的な世界をわれわれの生の経験として捉えなおすことが内省による間接化で、シェリングの「自然は目に見える精神である」という認識につながり、それが第三の道になるということなのだろうか

ベルクソンによれば、世界についての科学的研究は、文章についての文法的研究に相当しているという


バークリー(1685-1753)は科学者を「自然の文法家」と呼んでいるので、ベルクソンとの親近性がある

一方、哲学的直観についてベルクソンは、文学的霊感に譬えることができるとしている

哲学的行為は、単語と構文の複雑さを通して叙述の単純さを把握するのに似て、出来事と事物との縺れに与えられる包括的な意味の把握になる

ベルクソンにおいて、直観を科学によって運ばれる素材と結びつけるものとされる「精神的共感」に関しては、留保が必要である

直観はしばしば客観的認識の所与に反することがある

科学的断定に対して、直観は「不可能だ!」と囁く

そう言えるということは、ここで言われる自然の哲学が主観主義ではないという証左である

ここのところはどう理解すればよいのだろうか

ベルクソンの直観は、対象の内側に入り込み、対象が持つ言葉にできない生きた秩序と一体になる(対象の声を聴く)作業である

その上で、科学が出してくる断定に対してNONと言う

それは、個人的な好みや意見から出てくるのではなく、自然との直接的な接触を経験したという確かな手応えから生まれている

そのため主観主義とは言えないと結論することになるのだろうか


第三の道としての自然の哲学をこのように解釈すると、科学の形而上学化(MOS)と重なるところが多く、MOSをさらに深化させるためには直観という方法についてもう少し真剣に考察すべきではないかという思いが湧いてくる


2026.1.11

今日から第3章「自然の哲学は質的に構成する経験から生まれる」に入りたい

これまで、数学的物理学と形而上学との対比から自然の哲学を見てきたが、それは何ではないのかという点に重点が置かれていた

この章では、自然の哲学が何であるのかに議論を進めるようである

まず、第1節「客観的経験と構成的経験」から始めたい

客観的認識と呼ばれるものには、2つの領域がある

第1は、認識主体が外部世界の客観的存在に自発的に直面することで生まれる領域である

コギトの重要性を発見したデカルト(1596-1650)以前の実在論はすべてこの領域にあり、一般的に「素朴な」客観性と言われる

例えば、アリストテレス(384-322 BC)が天体の運行を客観的に説明するために天動説を採用する場合などである

そこでは、地上にいる認識主体が観察した結果であるという条件が意識されていないが故に、素朴とされる

第2の客観性は、科学が観察や実験を駆使して生み出した「実証的」とか「批判的」と呼ばれるものである


しかし、有用性を示す科学的客観性は、空間的ないし機械的局面にしか及ばない

そのような知は、自然の中に現前している存在条件の全体を保持、表現しているとは言えないのではないかとアンバシェは指摘する

つまり、それは真実の知ではなく、専門の中に埋没した知になっているというのである

部分を対象にした有益な視点を離れて考察する必要が出てきた時、客観的認識は無力である

そこで求められるのが、全体化する能力がある構成的・包括的経験である

この構成的経験(認識)とは、どのようなことを言っているのだろうか

客観的認識が自然を要素に分解して、現象の測定、数値化に重点を置くのに対し、構成的認識は全体としての自然がどのような複雑な活動により構成されるのかという視点を重視する

その際、観念論や超越論的哲学に陥ることなく、質的経験に基づくべきだと考えるのである


2026.1.13

本日は、3-3-2「バークリーにおける自然の質的経験」を読みたい

バークリー(1685-1753)の説ほど科学的客観性のドグマを激しく攻撃するものはないだろう

ジョン・ロック(1632-1704)の概念に、存在するそのものが持つ客観的な性質(延長や運動など)を示す第一性質と、感覚が作用する主観的な性質である第二性質がある

この第一性質と第二性質を同一だとすれば、物理的世界の骨組みはすべて抽象的観念に還元されることになる

この場合、自然を分析・操作する上では何の問題も生じないが、自然の中に実在的な根拠がなくなる

バークリー自身、この立場が招くであろう批判を自覚していた

彼の『人知原理論』(1710)には、こう書かれてある
第一に、先の原理に従えば、自然の中に実在する実体的なすべてのものは世界から追放され、 その場に諸観念の架空の体系が建っている、と言って人は私に反論するであろう。存在するすべての事物は、ただ知性の中にだけ存在する。すなわち、それらはたんに想像的なものにすぎない。太陽や月や星は一体何になるのか? 家、河、山、木、石をどう考えるのか、それどころか、われわれ自身の身体そのものをどう考えたらよいのか?
先の原理は、諸事物が絶えず無化され、ついで再び創造されるということを含意していると反論するであろう。感官の対象は、人がそれを知覚するときにのみ存在する。それゆえ木は庭にあり、椅子はサロンにあるが、それは誰かがそれらを知覚するためにそこにいるときなのである。私は眼を閉じる、すると部屋の中のすべての家具は無に帰化する。それらを蘇らせるためには私が眼を開けるだけで十分である。

バークリーによれば、私が眼を閉じるとき、諸事物は引き続き存在することができるが、それは別の知性の内になければならない

これは、フッサール(1859-1938)の言う思考するモナドの「相互主観性」の立場から理解可能になるだろう

すなわち、他者を自分と同じように世界を経験する主体(モナド)として認め、わたしというモナドが知覚を止めても、他のモナドからなる共同体が世界を経験、維持していると考えるからである


バークリーは、「自然物は存在する」と言う

この自然物とは物理的な存在ではなく、神という至高の知性によって、一貫性のあるルール(自然法則)に従って提示される観念の集まりのことである

彼はこう言っている
あらゆる結果を直接に、命令一下、つまり意志の働きによって生み出すのが精神であれば、すべての技巧的なものは無用になる。観念に属する諸器官は、いかなる能力も活動性も所有しておらず、それらに割り当てられる結果と必然的に結びついてはいない。例えば、懐中時計の歯車装置を細工する時計工にそれが見られるのだが、そういうことはすべて、針を差し向け針に時を告げさせるのが至上の知性であると言ってしまえば空しくなる。空しい細工師は、なぜそれをも問題にしないのだろう。
ここで「観念に属する諸器官」と言っているのは、物理的なものではなく、経験から生まれた観念の集合のことで、それが機能したとしてもそこで現われるものとはつながっていない

彼はこうも言っている
諸観念の結合は、原因と結果の関係でなく、徴表や記号と意味された事物との関係だけを含意している。私が見る火は、近づけば被る苦痛の原因ではない。その火は、私にその苦痛を予告する徴表なのである。同じように私が聞く騒音は、これこれの運動の結果とか、周囲の諸物体の衝撃の結果ではない。それはそういうものの徴表なのである。

物理学者に対するバークリーの挑戦はここで終わる

 

意識が自然の質的・感覚的現前と交流すると、眼は世界に開かれる

思考はもはや空間を測ったり、質量や力に専念したりしなくなり、説明を要しない一連の意味作用全体を背負うことになる

自然はもはや感覚を生産する機械や動いている物体を収める容器ではなくなる

自然はそれが交流する精神に対して、本能的に利用するすべを知っている記号の読解のための手段をその都度与えながら、精神を教育する以外に運命を持っていないのである


2026.1.14

本日は、3-3-3「シェリングの哲学における自然の質的経験」について読むことにしたい

シェリング(1775-1854)は、自身の哲学全体を思弁的自然学と経験的自然学という2つの「自然学」に分けていたので、客観的経験と構成的経験の区別は明瞭に現われていた

思弁的自然学とは、自然を内側から動かす内的衝動に関心を持つ自然の哲学である

それは諸事物の非客観的な側面に向かう

これに対する経験的自然学は、世界の表面で起きることしか考慮に入れない

ショーペンハウアー(1788-1860)によれば、経験的自然学は自然の外貌を作っている客観的・機械的な側面には執着するが、普遍的運動性の根源にまでは決して遡らない

したがって、この自然学は哲学ではなく自然科学と解され、観察者によって報告される事実の積み上げに過ぎなくなる

その総体は受動的堆積であり、産物でしかない

もし、そこに能動的で生産的な相の下に直視すれば、それは世界であることを止め、自然となる

この見方によれば、自然とは産物(所産的自然:natura naturata)と生産性(能産的自然:natura naturans)が同一の状態にあるもので、世界とは前者を蒐集した総体を指すことになる

自然の哲学のためには、自然の諸力が包蔵する創造的活力を呼び出さなければならない

シェリングによれば、そこには我々が直観し得ないような無限の進化と生成が見える

宇宙の設計者の設計になる進化や、物質世界の機械論的変容による進化は問題にならない



2026.1.15

3-3-4「ヘーゲルの哲学における自然と歴史」を読み、第3章、第3節を終えたい

シェリング(1775-1854)は自然の創造的自発性を喚起したが、それは美的直観に極めて近い

彼は、自然の生産的過程と、精神がもろもろの表象を生み出す過程との間に完全な同一性を見た

後者における表象は、外部からではなく、内部からくるものである

自然の観念は、そこに外から来る目的性を導入する時、破壊される

「わたしが自然をわたし自身の生と同様に理解できるのは、わたしを自然と同一にする場合に限られる」ということになる

他方、ヘーゲル(1770-1831)はシェリング同様、芸術作品の精神的形式が自然的形式より遥かに優れていると判断する時でも、ギリシア人から受け継いだ人為主義に根底から従おうとはしない

換言すれば、両者とも自然に対する芸術作品の優位性は認めるが、加工されていない自然は美ではなく、そこに人間の精神が働きかけ精神的形式にしたものが優れているとする古代ギリシアの考え方に完全に合意していたわけではない


シェリングの場合、目的性は自然の本質を表現しているが、そこには外部からの人為ではなく、内部からの働きかけが見られなければならない

自然と生命のカテゴリーは至上である

これに対してヘーゲルは、自然が直接的に存在する第一の原理として現れるのは、最初外的で、ついで感覚的意識にとってでしかないと考える

精神の生命が脆弱であるため自然は外化されたままである

有機的自然は歴史を持たないとヘーゲルは言う

ここに、創造性を持った生きた主体としての自然(能産的自然)を見ていたシェリングの道と、精神を失った「死んだ」自然よりは歴史や人間の精神を高く評価するヘーゲルとの道は分かれていくようである


ここには、実に示唆に富むシェリングとヘーゲルの対比が示されている

わたしの歩みを振り返ってみれば、自然を外にある対象として記述していたところから、自然そのものの中に精神的なものを見出そうとしているところへと変容しているように見える

それは、今日の対比で言えば、ヘーゲルというよりはシェリングにより近い見方ということになるだろうか

科学から哲学に移ったことが大きな影響を与えていることは間違いないだろう


2026.1.17

今日は、第3章、第4節「自然は数多くの種類の混合物からできた媒介的有機体である」に入りたい

これまで自然の哲学について考えてきたが、「所産的自然」と「能産的自然」との緊張関係が現れることになった

そして最後に残るのは、シェリング(1775-1854)が言うように、「能産的自然」しかないことを確認した

ベルクソン(1859-1941)に言わせれば、科学的知性の捏造と対立する組織化としての力として現れる自然の概念である

したがって、自然のこのような性格を正確に位置づけ、客観的で世俗的な体裁を超えて了解するやり方を探索することが残されている


早速、3-4-1「自然は、人間によって客観的に仕上げられた世界と、人間には近づきがたいところにある原理とのあいだに介在する有機体である」について検討したい

その出発点として、ヘーゲル(1770-1831)が言っていたように、自然の感覚による現前とその「概念」を混同しないようにすることがある

なぜなら、客観的な所与として現れる自然は素朴な意識にとってのものであり、包括的に考察される自然はそういうものではないからである

つまり、客観的で感覚的自然は、人間の明晰で総合的な了解に達するためにあるからである

人間が知覚するものは純然たる自然ではなく、「所産的自然」に当たるものである

それは人間が立法者と実験者という二重の役割を通して、自らがデミウルゴスとなって了解する自然である


そこで、人間による客観的で世俗的な外見を通してではなく、創造主の仕業を見るならばどうなるであろうか

ここに神学が入り込む余地がある

ニカイア信条(325年)によれば、「私たちは、見えるものも見えないものも含め、すべてのものの創造主である全能の父なる唯一の神を信じます」と公言している

問題は、その信仰によって達せられた実在や出来事は、科学に依存する可知性を表していないことである

ここで言う「可知性」(intelligibility)は、単に意味が理解できるということではなく、理性によって、構造・法則・因果として、主体から独立に、共有可能な形で理解できること、あるいはそのような理解構造になっていることを指している

信仰による理解はすべてが神に帰せられ、「神秘」に迷い込むところがあり、可知性が要求する構造を持っていない

自然神学啓示神学(一般的な神学)とは異なり、理性を用いて世界(自然)の原理に迫るが、カント(1724-1804)が言うように、デミウルゴスのような有効な組織者(職工)ではあるが創造者でないものしか発見できないだろう

さらに、実証的な分析が進めば進むほど、神学的な解釈は後退することになり、神という仮説は不要になるかもしれない

しかしその時こそ、能産的自然の経験が現れ、われわれの経験的な出来事の世界と、超越的原理が住まうところとの間に、包括的で構成的な自然の活動圏が入り込んでくるという


2026.1.18

本日は、3-4-2「自然の有機体はたがいに組み合わさり重なり合った精神と身体と物質との混合物でできている」を読みたい

これまでの分析から、自然の哲学は、すべては空間と運動とアトムに関わるという客観的な理解の仕方と著しい対照をなす理解の仕方を目指すものであることが見えてきた

すなわち、自然は様々な種類の混合物から質的に発生したものであるという直観が優勢になる

これはベルクソン(1859-1941)が多大な貢献をした見方である

ベルクソン哲学は、数学と物理学から着想を得た量的論理学の支配下で、質的で直観的な思考の復興に取り掛かったのである

より具体的には、科学が諸要素に分解して解析する傾向があるのに対し、諸要素が断絶することなく相互につながるという見方で置換しようとした

これは「持続」に通じる考え方で、科学がこの世界を細切れの静止画として見るのに対し、音色を変えるメローディーとして捉えようとしたと形容される内容である

前の要素が次の要素に浸透するように全体として変化していく世界である

フッサール(1859-1938)の分析とも響きあう考え方である

彼は、現在には過去や未来が浸透し合っていると考え、次のような要素を提案している

 原印象(Urimpression): 今まさに知覚している経験
 
 把持(Retention) : 今この瞬間、過ぎ去ったばかりの過去を記憶としてではなく、今の一部として保持している
 
 予持 (Protention): 同時に、次に来る瞬間を無意識に先取りしている

これは、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中でも触れている「現在」の捉え方(p.45-46、p.113-115)と非常に近く、よく理解できる


ベルクソンは『創造的進化』(1907年)において、「混合物」の質的論理と「モデル」の機械的論理の対照を、生命と宇宙発生の問題に適用した

物質と記憶』(1896年)は、心理学に対してこのやり方を適用したものである


2026.1.19

『自然の哲学』も遂に最後まで辿り着いた

今日は、結論「自然の二つの顔」を読むことにしたい

本書では、自然哲学という科学のやり方を取るものと、自然の哲学というそこから距離を置く立場があり、それに合わせて自然には二通りの顔が付与されることになった

アリストテレス(384-322 BC)においては、この両方の内容を判別することができる

しかし、「自然哲学」と「自然の哲学」の関係が明瞭にされたのは、「所産的自然」と「能産的自然」の区別が提示された時である

以下に簡単にまとめておきたい

(1)所産的自然ということによって、ある時は直接的に感覚的生の知覚を通して、またある時は間接的に科学の観察と仮説と説明を通して、「自然哲学」の客観的世界全体を理解しなければならない

近代人が科学によって自然を支配、所有しようとする時、そこで問題になっているのは所産的自然である

ダーウィン(1809-1882)が、「自然選択」が関わる法則の下に見ている自然も客観的な考え方である

(2)能産的自然が介入するのはこの時で、「自然の哲学」の下での経験の内に現われる

例えば、アリストテレスの「ピュシス」、バークリー(1685-1753)の「言語」、シェリング(1775-1854)の「生産性」、ヘーゲル(1770-1831)の「解決されない矛盾」、ベルクソン(1859-1941)の「飛躍」と「持続」などの質的現象性の形を取っている

能産的自然の経験は、思考にとって「意識」と「身体」と「物質」とが常に一つの全体を成して現われるという意味で、主客の分裂を超えた進路の入口である

自然的であるとは、この3つの領域が同時に占有され、混合され、踏破される時にわれわれが関与するものである

(3)所産的自然の空間化された客観的な面と対立するのは主観的領域ではなく、われわれが生きるたびに構成され分解される自然的混合物の経験である

所産的自然において、時間と空間は客観的な存在としてあるが、能産的経験に変わる時、時間と空間は独立した状態を失う

それゆえ、自然のあらゆる経験には二つの顔が確かに存在する

一つは空間と分子とアトムの表象により、専門的規則に従って獲得する自然化されるもの(所産的自然)であり、もう一つは組み合わさり重なり合う無限の混合物が、全く別の形の知性と支配により自然化するもの(能産的自然)である

「自然の哲学」は、すべてが関連している宇宙のために、複合物の質的で具体的な論理を展開するように促されるのである

(了)




Michel Ambacher, Les philosophies de la nature (PUF, 1974)