コンシュ「形而上学の概要」



コンシュ著『形而上学』の第3章「形而上学の概要」を読み進むことにしたい


(1)

もし「自然主義」という言葉をスピノザの哲学に適用するのなら、わたしの哲学も一種の自然主義――すなわち、自然(Phusis)がすべての「もの・こと」のアルファでありオメガである現実の概念――であると言うだろう。

多くの点でスピノザとわたしは違っている。

(形而上学が証明可能であり得るとか、真理を説明する方法としてユークリッドの枠組みが適しているとか。

もし自然が無限の側面を覆い隠しているとすれば、我々知っているのは二つだけだろう。

魂と体の間には類似性がある。

「意志」という言葉は空疎な言葉である。

知恵とは「死ではなく、生について」瞑想することである。――なぜなら、二つの対立するものは不可分だからである。――

悦びだけがよいことである。

道徳は倫理と混同されている。

倫理と政治は形而上学と結び付いている、ということなどである)。

主には、これである。

わたしから見れば、それは欲求ではなく、人間の本質である自由である。

人間は自然の創造である。

我々は、自然の中における自由な存在の誕生が理解できるように、自然を捉えなければならない。

これが、わたしが大雑把に「唯物論者」ではなく「自然主義者」だと言うところのわたしの哲学の本質的な特徴である。



(2)

まず、哲学とは何か。

わたしは、現実の全体についての真理と全体の中での人間の占める位置の探究であると言うだろう。

科学も真理を探究するが、現実の部分的側面についての真理である。

宇宙学は宇宙の全体についての科学だが、宇宙と現実の全体との間にはどのような関係があるのだろうか。

この問題は最早科学的なものではない。

「形而上学」を現実の全体を理解する試みとすれば、これは形而上学の問題なのである。

すなわち、デカルトのように哲学を木と比較すれば、その根に対応するものなのである。

彼は、形而上学を単に自然についてアプリオリに知ることができるものと理解して、形而上学における貧しさに誓いを立てている。

それによって彼は、本来は形而上学の空間を空虚にし、そうすることにより、その空間を信仰のために確保できたのである。

神を信ずる者にとって、神、世界、人間が現実の全体である。

全体性の言説としての形而上学は、科学ではあり得ない。

カント自身が、そのことを十分に示している。

そうでなければ、宗教が証明あるいは論駁され得ることは明らかである。

ただ、伝統的な意味での形而上学が科学ではあり得ないことは、全体性についての理性的な言説を放棄しなければならないことを意味していない。

「理性的な言説」という言葉は「一貫性のある言説」と理解しなければならない。

しかし、「一貫性」を語る人が必ずしも「真理」を語るわけではない。



(3)

なぜ同じように可能な一貫性ある言説、すなわち同じように可能で、同じように論駁も可能な形而上学がいくつも存在するのか。

それは、「現実の全体」という表現の中にある「全体」と「現実」という言葉に問題があり、この言葉はどのようにでも理解できるからである。

「全体」はオーガニズムのように組織化することもできるし、砂の山のように構造をなくすることもできる。

最初の場合、ヘラクレイトスのように、全体は世界であると言うだろう。

なぜなら「世界」という言葉は構成要素が偶然集合するのではなく、組織化の法則に則って集合する全体にまで拡大するからである。

(この言葉はギリシア語ではcosmosで、「秩序」を意味している)。

第二の場合、エピクロスのように、全体は宇宙であると言うだろう。

宇宙においては、無限の空間と時間の中で、無数の世界(cosmoi)が始まりと終わりを持っており、全体的な視点を持ったり、一つのものとして考えることができない。

「現実」という概念については、机や机の上のパン、自分が飲むコーヒーは「実在する」とする一般の人(ここでは科学者も区別しない)にとって当たり前であるとしても、哲学者にとっては当たり前ではない。

哲学者は、机、パン、コーヒーが「実在する」と言うに値するかどうかを疑い、「真に」実在するもの(ontos on)すなわち永遠について自問する。

一般的に言う実在するものはすべての人にとって同じであるが、哲学的に実在するものは多様である。

たとえば、プラトンの本質、デモクリトスの原子、ヘラクレイトスの世界、スピノザの自然、モンテーニュの神、ヘーゲルの精神、エンゲルスの物質、ヘッケルのエネルギー、アナクシマンドロスの生命など。

これらの多元性から形而上学の多元性――観念論者、唯心論者、唯物論者、自然主義者、生気論者など――が生まれている。



(4)

ヘーゲル流の絶対的観念論(ヘーゲルにとっての形而上学は絶対についての壮大な思考にしか過ぎず、その全体は絶対的なるものの絶対的思考を構成している)を認めるのでない限り、形而上学は同時にすべてが真ではあり得ないと言わなければならない。

すなわち、神は永遠である、あるいは、それは自然、精神、あるいは物質などである、となる。

しかし形而上学はまた、一貫性があるのではなかったか。

恐らくそうだろうが、誰がその一貫性を判断するのか。

それは、それぞれの形而上学について、その形而上学の支持者であり、他の形而上学の支持者ではない。

スピノザの体系はスピノザとスピノザ主義者にとって一貫性があるのであり、マルブランシュには当て嵌まらない。

わたしが有神論的形而上学(デカルト主義者やマルブランシュ、ライプニッツ、カントなどの)を拒絶したのは、世界を支配するこの上なく善良で全能な神が、同じ世界の中での悪の現実(とくに、わたしが「絶対悪」について話したことに関連する子供の犠牲者の苦しみ)と矛盾するようにわたしには見えたからである。

しかし、神を信ずる人はこの矛盾を否定し、「悪の神秘」という概念によって有神論的形而上学は依然として一貫性があると主張することができるのである。


(5)

今私が言ったことは、議論と証明を区別することを要求する。

子供の苦しみを議論することには大きな説得力があり、わたしも実際に説得された。

しかし、そこに証拠としての価値はない。

もしそのようなことが事実なら、説得力があるだけではなく、実証的な力を持つだろう

そして神を信じる人は、理性が欠如していなければそれを拒否することができない。

精神には証拠に従うかどうかの自由はないが、議論に従うかどうかの自由はある。

自由が生まれるや否や個性が生まれる。

形而上学は哲学者の個性と切り離せない。

なので、「デカルトの」、「マルブランシュの」、あるいは「ライプニッツの」形而上学などと言われる。

哲学者の個性形成に極めて重要なのは、宗教的なのかどうか、キリスト教的なのかどうかというその人が受けた教育であった。

確かに、哲学自体は理性の飛躍から生まれるが、哲学は完全に実証的な特徴を持っておらず、選択を前提としている。

そのため、思想がこちらの方向、あるいはあちらの方向に向かう可能性がある。

そのことが、同じ時代にも関わらず、一方ではデカルト、他方では(例えば)ガッサンディを生むことになる。

わたしはわたしの時代の、わたしの国の人間として哲学してきた。

情報手段の進歩により、わたしはライプニッツが『弁神論』を書いた時代の人よりもこの惑星の人間の苦しみにずっと感受性が高くなった。

そして、わたしは12歳から18歳までの「補習授業」で、宗教から独立した教育を受けた。

そこでは、宗教的真理を教え込まれることが全くなかっただけではなく、宗教は何か古臭いものと見做されていた。

この教育は、まるで古代ギリシア時代に生きているかのように、わたしの精神を自由にしたのである。

それ以来、わたしが哲学に身を捧げることは極自然であった。

わたしの精神の哲学的発展を妨げ、わたしの精神を自分自身のものではない選択に従わせるような出会いがなかったのは幸いであった。

哲学者にとって、「師」を持たないということは大きな利点なのである。


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冒頭の論理がよく理解できなかった

このパラグラフでも、宗教とコンシュさんの考える哲学は相容れないことが分かる

宗教から自由であったことで、古代ギリシア人のような精神の自由を保持できたという

その自由は「師」からの自由とも通じるのだろう

まさにレオ・フェレも歌った Ni Dieu Ni Maître の世界だ

コンシュさんとこんなところで繋がっているとは思いもしなかった

本当に驚いた


(6)

わたしの精神のギリシア的素質により、古代ギリシア人の研究の中にしか、真の満足を見付けることができなかった。

わたしの講義では、モンテーニュが言う古典の偉大な作家に相応しい場を与えたが、彼らの体系が哲学を犠牲とする宗教と理性の間の妥協でしかない場合、わたしはそれに打ち込むことができなかった。

彼らと共には真理の国にいることはないと感じたのである。

自然もそこに欠けていた。

わたしが自然に出会ったのはモンテーニュの中ではない。

自然はそこにあったかもしれないが、それ自体として充分に考えられていなかった。

モンテーニュによって、わたしの精神の中で、神学・哲学者という考えを一掃し、デカルト、ライプニッツ、カントらの著作が没頭する間違った問題を取り除くことが可能になった。

それは自然というものの啓示を受ける準備をさせ、ルクレティウスの詩、すなわちエピクロスと共にその啓示を受けたのである。

わたしは主体の哲学を断念し、「わたし」というものを忘れ、思考が境界のない宏大さにまで拡大するようにさせた。

わたしは農家の子供時代、自然の只中で生きてきたが、仕事の束縛により、公平で自由で瞑想的な視点を奪われた。

それにも拘らず、わたしが持っていた直観が、わたしの枕頭の書であるパスカルの『パンセ』の断片72(Br.)にある素晴らしい表現を発見し、わたしが押し殺した直観が、命を吹き返し、省察を豊かにするようになったのである。



(7)

「自然」という言葉の中には、エピクロスの Peri phuseôs(『自然について』)がわたしに与えてくれたもの以上のものがある。

おそらくエピクロスは、「自然」がすべての「もの・こと」の絶対的源泉であり、すべての「もの・こと」を発明することによりそれ自体で創造することを見ていた。

しかし、彼は「クリナメン」(clinamen:原子の予想できない揺れ)を除けば、「自然」を物質に還元することにより極端に活力のないものにし、それが彼を「唯物論者」としている。

全てが帰着するものである原子が、少なくともそれがデモクリトスにおけるような数学的(幾何学的)存在ではなく物質的存在ならば考えさせることはないので、この物質への還元には何の価値があるのか。

実際のところ、もし原子が何からできているのかを問えば、空ではなく満ちていると言われる。

しかし一体、何で満ちているのか。

自然は無数の微小で考えも及ばないものに分割され、偶然によって数多くの世界に組織化される。

「宇宙」あるいは「全体」(to pan)の量的概念は、命ある統一性が認められていない「自然」の質的概念に優っている。

生命は原因ではなく、偶然が齎す不確実な果実に過ぎないように見える。


しかし、ルクレティウスとその師のお陰で、わたしは無限の宏大さの中の一つの点として自分自身を考えることに慣れた。

そして、哲学するとは、自分自身を考え、無限の核心にあるすべての「もの・こと」を考えることであると信じるようになった。

空間の無限は明らかである。

時間の無限については、それほど明確ではなくなるが、わたしはモンテーニュの言葉に思いを致す。
「なぜ我々は、永遠の夜の無限の流れの中で閃光にしか過ぎないこの瞬間の存在であると名乗るのか」
そこから、モンテーニュは時間を無限で永遠なものとして捉えていたことが分かった。

そしてそれは、わたしにとっても同様であった。


(8)

しかし、我々自身が無であるという感情を持つことなく、「なぜ我々は存在していると名乗ることができるのか」と自問することなく、無限の中で自分自身のことを考えることはできない。

ものが存在していないように見えることを否定することなく、日常的な存在の中で、我々は途方もない時間を忘れ、「時間割」に見合うように時間を矮小化している以上、哲学者としてわたしは「存在」を信じ続けることができないように見えた。

わたしはそこに、日常性の幻想しか見ていなかったに違いない。

懐疑主義自体は先まで十分に入っていなかった。

少なくともそれについて与えられたいつもの解釈の中で、懐疑主義は日常の幻想に囚われたままであった。

それはわたしが「現象主義的」と名付ける解釈である。

ブロシャールは、懐疑主義者は「現象は疑わず、仮象(見かけ)とは異なるものとしての現実(実体)だけを疑う」と言った。

ウォディントンによれば、ピュロンは「自分に表れるものを確認することで満足し、存在するものに関しては自身の判断を保留した」という。

さらにウォディントンは言う。

従ってピュロンは、「彼以前にすべてのギリシアの哲学者によって認識されていた『存在するもの』と『見えるもの』との区別」を利用した。

しかし、わたしが示したように、ピュロン主義の鍵になるフォルミュールによれば、「何ものもこれよりもよりそうであることはないとか、一方でも他方でもない」以上――ロバンが指摘したように「何の保留もなしに」そう言われているが――、ピュロンが目指す形而上学やアリストテレスの形而上学にとって本質的である存在と仮象の区別がなくなる。

そして、純粋な仮象の概念を物自体に対抗する現象の概念に置換する必要がある。

ピュロン主義的な意味における仮象は、(存在)「の」仮象でも、(存在、主体)「のための」仮象でもなく、そこから何も残さない仮象、普遍的あるいは絶対的な仮象である。


(9)

しかし、存在の解体は生成以外の何ものでもない。

それが、ピュロンの弟子アイネシデモスと彼自身の弟子が「懐疑主義的方向性はヘラクレイトスの哲学に至る道(hodos)であると言っていた」理由である。

プラトンは我々に、ヘラクレイトスによれば「すべては譲り、ちゃんと維持するものは何もない」と言った。

すべて(panta=すべてのものこと)」という言葉は、何らかの実体を持つすべてと理解しなければならない。

この人間、この家、この本、この景色、この色、この友情など。

シュテファン・ツヴァイクは『過去への旅』の中で、愛は時間には逆らえないことを我々に示した。

すべてのものこと、存在、性質あるいは存在の在り方を「譲らせる」力とは、実際のところ、ヘラクレイトスがaiônと名付けた永遠の時の力である。

すべてが譲り、すべてが流れるが、時は流れない。

非永続性は普遍的なのである。

それは真に存在が在ることを許さない。

しかし、非永続性自体は不変である。

生成の法則は衰退することがない。

それは永遠である。

それでは、「留まり、変わらない」ものは何だろうか。

すべてのものことの実質のなさや虚飾は終わり、非永続性、変化、未来から過去への絶えざる変容が残る。

それが時間の作用である。


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懐疑主義者は仮象は疑わなかったが、実体とか存在というものを疑った

存在が消えた後に残ったのが生成だという

全てが移ろい行くヘラクレイトスの世界になったのである

永続するものは何もない

すなわち、生成は永遠に続くことになる

そして、このような力に抗するのが永遠のとき(aiôn)の力だという

この言葉は「生命の力」、「運命」、「時代」、「世代」とも訳されている

古代ギリシアの時間の概念には「アイオー」の他に、直線的に続く「クロノス」、時宜を得た時を意味する「カイロスがある



(10)

しかしながら、わたしはヘラクレイトスと別れた。

なぜなら、彼の見方によれば、留まるものは時間や自然だけではなく、世界もそうだからである。彼はこう言っている。

「すべての人にとって同じこの世界、神も人間もそれを作らなかった。それは常に在ったし、現在も在り、将来も在るだろう・・・」

世界で起こるすべてのことは法則により支配されているので、如何なる度を越したことも世界の安定を危険に晒したり、その骨組みを破壊したりすることはできない。

しかし、もし世界が構造化すなわち組織化されているとすれば、わたしとしては世界を「完成した、終わった」(fini)ものとしてしか考えることができない。

それ故、それ自身によって自らを説明することができず、わたしが「無限である」(infinie)と言った「自然」という概念に戻るのである。


すべてのものことの起源には、必然的に無限なるものがあり、一神教の神は文化的な対象でしかないので、無限性は自然の無限性しかあり得ない。

我々は、ライプニッツが「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うたように、自然を惑星や星や世界のような完成した何かと理解するのかを自問できるだろう。

しかし、無限なるものは他のものことに依存しない。

なぜなら、他には何も存在しないからである。

「なぜ何もないのではなく、自然はあるのか」と問うことはできない。

なぜなら、存在するすべてである自然は、他のものからは説明されないからである。

無限の自然が元々の源泉であること、源泉から放たれるもの以上には何もないこと、それは哲学の始まり以来、アナクシマンドロスによって知られていたことである。


(11)

アナクシマンドロスにあるのは、無限と共に、エピクロスにわたしが見ることがなかった生命に溢れた自然である。

確かに、ヘラクレイトスには普遍的で永遠の生命への直観がある。

彼は、「この世界は・・・常に在ったし、現在も将来もそうである。火は常に生きており、適度に点火し、適度に消火する」と言っている。

しかし彼は、世界の囲いの中に生命と閉じ込める。

このようなことはアナクシマンドロスにはない。

生命の創造性を世界という大きな組織体の創造だけに限定するのは、アナクシマンドロスにとって生命の本質に矛盾するように見える。

おそらく、ヘラクレイトスの世界においては、すべてのもの・ことは常に新しく流れていて、「同じものに永遠に回帰する」という馬鹿げたことに類似したものは何もない。

しかし、もし多様性が無限に進むとすれば、それは一般的な構造の側面にあり、生成の結果ではなく単に配置されるだけである。

アナクシマンドロスの自然主義は進化論的である。

人間は生成した人間の結果であり、世界は生成した世界の結果である。

しかし、永遠で無限の自然(phusis apeiros)からここにある我々の世界へどのように移行するのだろうか。


(12)

我々は無限の中で、個々の決定を想定することができないのは明らかである。

そこにいないだろう他のものは除き。

それは、最良の原理のような選択の原理を与えることで、それゆえ有神論のような何かに向かうことだろう。

しかし、無限の自然は何もできない、そしてそれは最早自然ではない、あるいは何でもできる。

数えきれない世界が(共存し、連続して)複数あるという考え方は、自然の無限性とここに在るこの世界の間の仲介を保証している。

今日、ビッグバンの宇宙は複数ある世界の一つで、それは我々のものでもあるとわたしは言うだろう。

アナクシマンドロスの直観は、宇宙論学者の発見や理論と響き合っている.

無限の自然のことを「そこからすべての空とそこにある世界が生まれる」と言ったアナクシマンドロスは「かなり詩的な言葉で」表現したと、シンプリキオスは言った。

今日、形而上学者が自然の無限性や、ビッグバンの宇宙をあらゆるところから取り囲む無数の宇宙について思索する時、彼は「詩的にする」(poétiser)とも言えるだろう。

なぜなら、彼の頭には彼が使う言葉に科学的な要素を与える方程式がないからである。

科学は進歩するが、詩には全く進歩がない。

ホメロスが超えられることはなかったのである。


(13)

また、アナクシマンドロスが「もの・こと」が生み出されることを記述するやり方は、今日でも我々に語り掛ける。

生きている自然は一つの生身の存在ではないが、生み出すことができる。

Gonimos(γόνιμος)とは「生み出すことができる」ということを意味している。

この言葉はアナクシマンドロスのものなのか。

わたしにはそれらしく見えた。

自然は優れてGonimonである。

すべての質の混ぜ合わせが試される永続的な混合の後に無数の特別の自然(gonimoi)が現れる。

そのそれぞれは熱いものと冷たいものの何らかの関係ではなく、生産的な正しい関係を実現している。

「熱いもの」は生にとって望ましいポジティブな極で、冷たいものはその反対である。

熱いものは生に恩恵を与えるが、冷たいものによって和らげられる。

冷たいものは熱いものによって緩和されない限り、死を優遇する。

Gonimoi は実現可能な生産の結果で、「世界」(cosmoi)と名付けられる。

それは有限性の特徴を持つ特別の自然なので、無限とは程遠いその力はある時間の枠を超えては広がることはできない。

従って、世界は滅びやすいのである。

それは我々の宇宙を含めた宇宙にしても同じであるとわたしには思えてくる。

ビッグバンの宇宙は始まりがあったので、終わりがあることは明らかである。


(14)

自然の創造性はどういうものだろうか。

自然はその創造を前もってプログラムすることができない。

なぜなら、自然は、例えばカリフラワーが存在する前にカリフラワーなるものをどのようにして「知る」のだろうか。

自然は詩人以上には自分がやっていることがどのようなものになるのかを知らない。

ヴィクトル・ユーゴーは自分が創るまえには『眠るボアズ』(Booz endormi)がどのようなものになるのか知らなかった。

デカルトによれば、科学は実用的な応用によって「我々を自然の主人であると共に所有者にすること」ができる。

彼は恰も人間が自然の一部ではないかのように、人間と自然を対立させる。

その場合、自然は鉱物であり、動物であり植物である。

創造主である神の役割を確保するために、自然の創造性を制限する。

しかし、自然は人間をも創造したのである。

もし、自然を単に物質世界や動植物界の存在に表れている力だと理解するのであれば、人間と共に自然はそれ自身を超え、昇華していると言わなければならない。


(15)

その時、性的なものから切り離された愛と因果的な決定の秩序に還元されないものとしての自由が現れる。

性的なものが昇華されたり否定されたりする多様な形の愛が生まれる。

まず熱烈な愛。

種の保存のために、ここにいる男とこの女が結び付く必要は全くない。

ルクレティウスが望んだように、一般性だけで十分なのである。

特定の特異な人間の間の選択された愛の出現は、自然の「計画」にはなかった(もっとも、何の計画もないのだから)、神も人間も予見できなかった動物性の外に人間を引き出す何かである。

それは詩人である自然の超理性的で超自然的な創造である。

この状況は、性が関与せず、動物性を消すこと、精神になることが前提となる精神的な愛(amor amicitiae)でも同じである。

熱烈な愛としての友情は、相互性(「なぜならそれが彼であり、それがわたしであったから」)を求める。

自己・利他愛の上に、無私の捧げる愛、純粋の愛(わたしは経験から言っているのだが)がある。

そこには愛されている存在しかおらず、愛している人とその自我はその関係に何の役割も担っていない。

このような愛は絶対的なものである。

愛されている存在の変化によって変わることはない。

このように、キリスト教における神は罪びとを愛するのである。

しかし、純粋な愛は人間の愛でもあるだろう。

ここでは母親の愛は脇に置くことにする。

おそらく、それは精神の本質の問題だろうが、すでに動物で見られるものの延長から来るものである。


(16)

自由は、それ自身が変質する自然の最も崇高な創造である。

自由は、一つの存在すなわち真の判断を下すことができる人間が出現するやいなや世界に現れる。

なぜなら、もしこれらの判断が、判断する「もの・こと」を単に見ることによってではなく、種々の原因によって決定されていたとすれば、どうしてその判断が真であるだろうか。

科学は、原因による決定について精神の自由を前提にしている。

確かに、真として与えられる判断が多様な影響が原因でそうならないこともある。

このような影響から解放され、開かれたものの中で「もの・こと」の真理に従うまでは、それらの判断が実際に真になるという幸運はない。


わたしが「開かれたもの」というのは、ハイデッガーが Dasein と名付けたもののことである。

 Dasein が「在る」(sein)という言葉を含んでいるからではなく、単に人間の中にある開いた構造を意味するものとして取り上げている。

ベルクソンは目を開く。

「イメージの前にわたしはこうしている・・・わたしの感覚を開く時に知覚され、閉じた時には知覚されないイメージの前に」(『物質と記憶』)。

ベルクソンはデカルトの『省察』の第一の読者として語る。

外界の現実の問題が迫っている。

「開かれたもの」という概念から完全に離れた間違った問題。

わたしは自分の目を開ける。

わたしの目に入るのは、木のイメージではなく、木である。

そしてわたしは、「それは木である」、「それはシナノキである」、「雲がある」、「ここに家がある」などと言うことができる。

わたしは世界の中にいる。

わたしが世界に目を開いた時、無数の確認される判断を下すことができ、それは真の判断である。

「ひらかれたもの」とは、真理に開かれていることである。

感覚によって、わたしは真理の国に至ることが可能になるのである。


(17)

しかし、この真理には範囲(horizon)がある。

範囲の特徴は、由来するギリシア語の horizein が示すように、境界を定めることである。

しかし、範囲であるこの境界や限界であるものは、我々がいる場所に依存する。

このように、「もの・こと」の表情は数えきれないほど存在し、そのどれもが他のものよりもより真であることはない。

もしわたしが世界に目を開いている日本人に話しかけるとすると、彼は我々に与えられたものの特定の側面や姿を相手にすることになる。

これらの側面の数は無限である。

従って、誰も――神でさえも――すべての側面を同時に見ることはできない。

さらに、排除の原理が介入する。

わたしは、他のやり方で「もの・こと」を見ることを止めることによってのみ、ある見方でそれらを見ることができない。

もし、わたしが画家として森を見る場合、木こりとしては森を見ていない。

もし、ミツバチとして森を見る場合――ミツバチに「わたし」はないので、言葉のアヤなのだが――、わたしは鳥として森は見ていない、などである。

このように、感覚に与えられているものの全体は、数えきれない世界に分けられている。

宇宙学者は、技術化された彼らの感覚に与えられ、彼らが「宇宙」と名付けた自身の世界を持っている。

それは発見とともに変わり、いずれにせよ、一般的なすべての世界のように、無限の時間の中で滅びやすい。

自然は残り、自然と共に、限りない創造性と永遠の時間が残るのである。


(18)

そこで、「なぜ自然であって、神ではないのか」、「なぜ何もないのではなく、自然があるのか」というような質問を覚悟しなければならない。

(ギリシアの)哲学者にとって理解しがたい人種がいる。

それが神を信じる人たちだ。

ニーチェが言ったように、一神教の神の「ようなものは一切」存在しないということは自明の理である。

しかし、「神は存在する」という命題には反駁できない。

従って、信者は真理の中にいる見込みがあると信じる「振りをする」のが適切なのである。

神は存在するという幻想が人生への信頼の条件であるように見える以上、それは信者を自身の幻想と共にあるようにするためである。

わたしが「他者の意図に対する懐疑主義」と呼ぶものがこれである。

オーギュスト・コントのように、どの宗教でもよいが、その誤りをわたしは確信した。

(「愛の宗教」は例外だが、それは神なき宗教である。)

説得するために、わたしは議論できる。

確信するために、わたしは証明できない。

わたしはすべての議論を避けるために、信者をその信仰のままにしておく。

なぜなら、神への信仰は啓示に基づいているのに対して、議論は理性以外の権威を認めないからだ。

信者とは会話はできるが、議論はできないのである。


(19)

「なぜ何もないのではなく、自然があるのか」という問いは受け入れられないとわたしは言った。

ライプニッツが「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うた時、彼が考えていたのは、どんな「もの」――それは神を含むのだが――でもよい何かではなく、「宇宙」あるいは「世界」であった。

彼は「世界が存在するという事実の完璧な理由」を問うたのである。

我々が見ることができるように、この問いは創造論の形而上学においては意味がある。

しかしそれは、「なぜ何もないのではなく、存在があるのか」という問いの根源においては理解されていない。

ライプニッツは神の中に世界の存在理由を見ている。

我々はそれを自然の中に見る。

しかし、「自然が存在する理由は何なのか」と我々は問う。

もし自然が無限で、永遠で、すべてを包み込むものとして考えられるとすれば――なぜなら、自然しかなく、自然は外部を持たず、他のものには如何なる空間もないのだから――、我々は自然それ自体以外にはその存在を説明する理由を見付けることができないのである。

そのような理由を探さなければならないのだとすればだが。

しかし、その理由を探す意味はないだろう。

なぜなら自然の存在理由を見出すことからなる回答は・・・自然自体の中にその問いを残したままにするからである。


(20)

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いを理解するには二つの方法がある。

ひとつは、もし何かがなかったならば、「存在するだろう」ものは何もないことを意味している。

――その場合、「存在するだろう」何かから何も作らないので馬鹿げている。

あるいはまた、もし何かがなかったならば、何も「存在しないだろう」ことを意味している。

この場合は、思考がそれ自体から思考のすべての対象を奪うので考えられない。


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従って、「何もないのではなく、何かがある」ことを肯定せざるを得なくなるということなのか。

ゆっくり読まなければなかなか理解できなかったが、わたしの理解(訳)で問題ないのだろうか。


(21)

この問いに我々が導かれるのは、どこから来るのか。

それはしばしば、我々が何かを見たり発見したりするのを期待することから来る。

しかし「何もない」。

その時我々は、(我々が期待した)何かの不在として何もないという経験をする。

そころが、我々は「何か」から「すべてのもの」へ安易に移行する。

それは、簡単に言えば、すべてのものが存在しなくなることである。

しかし、これとかあれの何もないから、絶対的に何もない「すべてが何もない」への移行は、思考の外に出ることである。

なぜなら、何かの何もない状態では考える何か(不在を確認するというような)は存在するが、絶対的に何もない状態では最早考えるものが何もないからである。


(22)

結論

(「多数の無限性」の一つとしての)無限で永遠の自然は、すべての「もの・こと」が途切れず倦むことのない創造によって生まれる源泉である。

そこでは、未来がすでに過去に含まれることはなく、すべては常に何らかの形で新しい。

自然は詩人を生み出す。

自然は永遠の詩人である。

科学的思想は自然の部分しか相手にしないが、形而上学は自然と現実のすべてを視野に入れている。

自然主義の形而上学的言説は、哲学者にとって真理そのものであるものを明らかにする。

しかし、議論や直観や証拠の感覚に過ぎないものしかない場合、その言説は証拠がないので、すべての人に働きかける方法を持っていない。


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今回でこのテーマは終わった

自然は創造の源であり、永遠の詩人である

科学はその一部しか相手にできないが、形而上学はそのすべてを視野に入れている

そこから真理が見つかることもある

その際重要となるのは、単なる議論や直観、証拠を掴んだような感覚だけでは駄目で、あくまでも証拠が重要だと言っている

そうしなければ、広く認められることにはならない

これがコンシュさんの考える形而上学の骨格のようである

少なくとも今の段階では異論はない、と言えるだろう


(2021年11月19日)