第12回サイファイフォーラムFPSSの発表から
(2024年11月9日)
発表予定だった尾内氏の都合が悪くなったため、代役として話題を提供することにした。選んだテーマは、これまで気になっていた日本では無名の哲学者マルセル・コンシュ(1922-2022)である。話の進め方として、彼の人生を簡単に振り返った後、わたしがコンシュを知ることになった哲学雑誌 Philosophie Magazine の創刊号(2006年)に掲載されたインタビュー記事をもとに、彼の哲学を紹介し、そこで扱われているテーマについて議論するという形で進めた。
コンシュは、1922年3月27日、コレーズ県アルティヤックという小さな村に生まれた。家は農家で、母親はお産直後に亡くなり、叔母が母親となった。その後の経過は以下の通りである。
1944年、地元の学校で学んだ後、パリに出てソルボンヌで学ぶ。1950年、哲学のアグレガシオン (1級教員資格) を取得。1950年から1963年まで、シェルブール、エヴルー、ヴェルサイユのリセで教える。リール大学での哲学助手、専任講師を経て、1969年からパリ第一大学の専任講師、1978年から1988年まではパリ第一大学教授、名誉教授になってからは30年以上田舎に籠り、思索に励み、2022年2月27日、あとひと月で百寿というところで、アン県トレフォールで亡くなる(享年99)。
コンシュの仕事は多岐に亘り、以下のような著作を残している。
1)哲学史関連では、FPSSのシリーズ「科学と哲学」でも取り上げたアナクシマンドロス、ヘラクレイトス 、パルメニデスなどの断片や老子についての注釈書の他、ピュロン、エピクロス(ご自身はエピキュリアンだと言っている)、師と仰いているモンテーニュ(後出)、ハイデガーなどについての著作も残している。
2)形而上学の領域では、『哲学的指針』(1974)、『偶然性』(1989)、『哲学の意味』(1999)、『自然の現前』(2001)、『明日のための哲学』(2003)、『無限に哲学する』(2005)、『形而上学』(2012)などの作品がある。
3)倫理と道徳哲学に関しては、『道徳の基盤』(1982)、『生きることと哲学すること』(1992)、『愛の分析とその他の主題』(1997)、『ある哲学者の告白』(2003)、『エピクロスについて』(2014)、『再び考える:スピノザとその他の主題について』(2016)、『形而上学と道徳の新たな思索』(2017)などがある。
4)文学作品として、『私の以前の人生』(1997)、『愛について』(2003)、『奇妙な日記』(全5巻:2006; 2007; 2008; 2009; 2010)、『コレーズのエピクロス』(2014)、『道程-ある知的な人生の日記』(2017)などを書き残している。
わたしがコンシュという存在を知ったのは、2006年。飯田橋の日仏学院メディアテークで偶然手に取った雑誌 Philosophie Magazine 創刊号のインタビュー記事の中でのことであった。そこで彼は次のようなことを問題にしていた。
1)無神論的哲学について: 哲学は1つの根源的な経験に揺さぶられて始まり、その展開でしかない。彼の場合、アウシュビッツとヒロシマでの子供の苦しみを「絶対悪」(いかなる観点からも正当化できない悪)と認識したことに始まったという。そこから神を弁護する者(神学者など)への批判となったが、生活の一形態としての宗教、あるいはそれを生きる人たちを批判したものではないと断わっている。コンシュはキリスト教の環境で育ったが、早い時期に哲学に向かった。それは、農村に哲学という学問はなかったので、あくまでもご自身の理性の発達による選択であったとしている。哲学とは理性の働きによるもので、神には出会いようがないこと、真の哲学は 「神なき精神性」すなわちギリシアのものであることを主張。デカルト、カント、ヘーゲルなどは偉大な思想家だが、哲学者とは考えておらず、彼が師とする真の哲学者はモンテーニュであると言っている。
2)科学と哲学の違いについて: 科学は「証明」を通して「部分」についての一つの真理を「所有」するが、それは暫定的なものである。それに対して、形而上学としての哲学は、「現実全体」についての真理を見つけようとする試みである。そこで問題になるのは「証明」ではなく「瞑想」である。それは一つの「試み」であるため、決定的なことは出てこない。科学とは異なり、複数の形而上学が成立し得る。したがって、哲学(形而上学)を科学にしようとすることは誤りであるとしている。
哲学の方法を瞑想であるとしている点は、わたしを大いに励ますものであった。瞑想により領域を区切ることなくあるものの全体を視野に入れることができるようになることを知ったからである。それと重要なことは、そこでの思考には論理性、厳密な論理の繋がりがなければならないと考えるようになった。つまり、厳密な論理性を伴った瞑想をわたしの方法とすることにしたのである。
3)「縮小された時間」と「果てしない時間」について:「縮小された時間」とは、我々が生きている日常の時間で、そこで行われる哲学は、時代という儚いものの中で構築されたものになるため、その重要性は時の審判を受ける。一方、「果てしない時間」とは、日常が消えた永遠の時間であり、そこでの哲学においては人間世界が捨象され、久遠の自然の営みが対象になる。この分類で言えば、前者の哲学者には古くはソクラテスがおり、現代ではかなり多くの哲学者がそこに入りそうである。それに対する後者には、ソクラテス以前の哲学者が入るのではないだろうか。自らを分類するとすれば、「果てしない時間」の中にいると言えるだろう。
4)行動(l’action)と活動(l’activité)について: 「行動」が人生を社会的、政治的なものと捉え、歴史的に生きる中で行われるのに対して、「活動」は他者との微妙なニュアンスに重要性を置くもので、創造的な即興性が求められると言う。その上でコンシュは、哲学者は行動する人間である必要はなく、思索という活動に向かうべきであるとし、行動と思索の両立はできないと考えている。もちろん、哲学者は積極的に現在に関わらなければならないという考え方の人も少なくないだろう。この問題について自らを振り返ると、わたしの場合はコンシュの考え方に近いように感じている。ただ、他の対立でも見られるように、同一人物の中でも変容していくことはあり得るのではないだろうか。
5)「自然」について: コンシュにとって絶対的なものは「自然」であり、「物質」の概念は不十分に見える。物質に創造性を見るのは難しいが、自然には創造性があり、それは厳密な因果関係からは生まれない。そこにいたずらっぽさや即興がなければならない。自然を詩人として見ている。つまり彼は、自然主義者ではあるが、唯物論者ではないと規定している。その自然は歴史、文化、自由と対立するように現代では考えられているが、ソクラテス以前の哲学者たちの自然は、パルメニデスが永遠の「存在」を、ヘラクレイトスは永遠の「生成」を、そしてエンペドクレスが永遠の「循環」を明らかにしたように、相互に補完し合っている。ギリシアの「自然」(ピュシス:physis)はすべてを包み込むのである。
このように考えるようになった原点には、1963年(41歳の時)にモンテーニュを発見したことがあるという。それまでは神を中心に回る近代の人工的な哲学の中にいたが、この出会いを機に、古代ギリシアの自然哲学に回帰することを決意し、ルクレティウス、エピクロス、ヘラクレイトス、パルメニデスなどに導かれてきた。元々農村の育ちなので、土を相手に生活していたが、アカデミアの世界に入ってからそのことを忘れていた。モンテーニュを介して自らの根に返ることができたと述懐している。
6)哲学者について―『形而上学』(2012)から―: 人間が携わっているほとんどの活動は些細なことである。なぜなら、彼らは自らの存在条件や人間とは何かということを探求するのではなく、特定の仕事を持ち、社会で何らかの役割を果たすことで、この社会をまさに存在せしめているからである。それに対して哲学者になるということは、ある意味で自己に立ち戻ること、すなわち社会から距離を置き、孤独を選択することである。
哲学者というものは実質的には何の役にも立たず、社会的に決まった役割も持っていない。哲学教師には、学生の試験の準備をするという役割はあるが、、。哲学者の条件は、哲学活動を阻害する欲望、名誉、金銭、特にパスカルの言う 「気晴らし」 (divertissement) を拒否することだという。この点はよく理解できるようになっている。しかし、この条件を満たしていない自称哲学者も少なくないとのことである。
7)真理と幸福について―ビデオ 『ある哲学者の自然』(2015)から―: コンシュは、人生の目標を幸福ではなく、真理に近づくこと、すなわち哲学することに置いたという。そのために、愛情よりも哲学の方に力を入れてきたようだ。これは、ニーチェがそうであったように、真理の探究と幸福とは対立するものとして見ていたことを示唆するものだろう。しかし驚いたことに、幸福を求めていなかったにもかかわらず、哲学に勤しむ過程で至福の時を味わうことになったと言うのである。この事実を逆説のように語っているが、これは逆説ではないとわたしは考えるようになっている。例えば、アリストテレスは(最も高いところにある知に至るための)瞑想能力(哲学する能力と言ってもよいだろう)を持てば持つほど人は幸福になると考えていたし、哲学者アラン・バディウ(1937-)もずばり、真の幸福は真理を求める中にあると言っている。真理の探究と幸福とは対立関係にあるというより、強い因果で結ばれていると考えると、違った人生の道が見えてくるのではないだろうか。
コンシュが亡くなった2022年、弟子のアンドレ・コント=スポンヴィル(1952-)は、次のようなオマージュを師に捧げている。
彼は時代の流れから距離をとり、その哲学は時を弁えないが、極めて現代的である。テーマは 「存在」「実在」「真理」という 「全体」 に関する根源的なもので、その分析は深く、正確で、厳密で、哲学的快活さがあった。彼は真の形而上学者である。
ここで「哲学的快活さ」と訳した "alacrité philosophique" という言葉には、目にする者(わたし)に活力を与える魔力のようなものがある。それが具体的にどのようなことを言っているのか、まだヴェールに覆われているようでもあるが、少しずつその姿が顔を出してくるような予感もある。いずれにせよ、この出会いを別のレベルへと発展させたいものである。