4.1.14

哲学は体系なのか、それとも探究なのか?



先日のPhilomagで取り上げられていたテーマの一つ

「哲学は体系の構築を目指すのか、それとも(真理を)探究するものなのか」

それはわたしが哲学に入る時に思い描いていた哲学像とも関連する。哲学という言葉さえ意識から消えていた時のイメージは、前者ではないかというものだった。もしそうであれば、あまり向いていないのではないかと考えていた。わたしの思考方法にはないものだったからである。しかし、実際にはそれは哲学の一部の営みであることが「思想の七大陸」を見れば明らかである。

上の写真はアラン・バディウ(1937-)さんの考えを図にしたもののようである。彼は形而上学の体系を提唱している稀な哲学者として紹介されている。この図をじっくり見ながら頭の中を整理すると、いろいろなものの繋がりが浮かび上がってくる。以下、彼の考えも交えながら思いつくまま書いてみたい。まさに体系的な思考をしない人間の本領発揮だろう。

体系の野心は、思想や存在するものの「全体」を包み込むこと。そのためには内的な統一性が要求される。その中にある要素間の繋がりが論理的に説明できなければならない。それは批判に晒されるものであり、より整合性のあるものに向かって開かれているべきだろう。

バディウさんは自らを厳密な意味での体系の構築者とは見ていない。その理由は「全体」とか「一」、「一者」いう概念を信用しておらず、敵でさえあるからだと言う。彼は「差(la différence)」と「多(le multiple)」の哲学で「全体」の哲学に対抗する。ただ、数学の教育を受けたので、言説を体系化しようとすることには親和性があるようだ。

存在とは抽象的なカテゴリーだが、在るものすべて、在り得るものすべてを指す。バディウさんは、それを「純粋な多」と考えている。在るものすべては要素からなるが、そこに多数性がある。分解していくと原子のような究極の要素に辿り着くというのではなく、「空」が最後に残ると考える。それが「純粋な多」の意味だという。

それから存在には局在するという性質がある。それぞれがある関係の下にあり、それを世界と呼んでいる。しかし、その世界も一つではない。もし一つであるならば、それは宇宙と呼び替えなければならない。ただ、彼の中に宇宙は存在しない。それぞれの世界がそれぞれのやり方で現れている。このような構造を彼は「超越的(transcendantal)」と呼び、この言葉に新しい意味を与えている
ある世界の中で局在する多数性を「対象(objets)」とする。そして、その現れを決めているものが彼の言う「超越性」である。




そこに現れるのが「出来事」である。これは純粋な突然の出現であり、予測不能な断裂である。そこに、それまでは見えなかった新しい可能性が現れる。その例が、愛情、芸術、政治、科学の領域での乱れや発見である。この話題については以前にも触れ、昨年パソコンが消えた時にも思索の貴重な糸口となった。

「出来事」 に忠実であること、それが人間になる道 (lundi 28 février 2011)
● 記憶のクラススイッチ、あるいは「出来事」から創造へ. 医学のあゆみ (2015.11.14

バディウさんは、すべての真理は「出来事」の後に現れると考えている。愛情、芸術、政治、科学の領域で。「出来事」の後、世界の構成要素を真理という視点から考え直すのである。真理は主体の創造的営みによってのみ、生成し、構築され、存在することができる。この主体は個人と同じではない。個人はある社会に属していて、そこで割り当てられた満足を追求する。一方の主体は、さらに高い何かに開いている。出来事にもその結果にも忠実である。主体とは真理の構築に参加し、その過程に関わる者である。そして、真理を取り込むことにより、新たな方向性を得るのである。つまり、真理は方向性を変えるものだと理解される。

それから「幸福の輪」に繋がるが、その中心に哲学がある。バディウさんによれば、哲学は真理を作るというよりは、真理を検出する道具となる。真理と「絶対」の間に関係はあるが、それは宗教的な意味での絶対ではない。絶対とは普遍と同義で、決定された世界に還元されない、時空間を突き抜けるものである。絶対はある種の永遠を運ぶ。アリストテレスによれば、主体とは真理の絶対に触れるので不滅の中に生きる者である。幸福とはこの経験そのもの、すなわち有限の生の中で無限を味わうことである。





体系の構築に対して、探究こそが哲学だという考えも存在する。「体系は幻想」と考えているイヴ・ミショー(Yves Michaud, 1944-)さんの考えを読んでみたい。

哲学における体系と探究を彼はこのように見ている。体系とは、現実の全体を包括する概念や表象の整合性ある一つの集合である。探究とは、一つのものの構成要素を確立するための検討である。その中には、現実の一つの次元、人間の生の一つの状況などが含まれる。

彼も最初はマルクス主義や実存主義というような体系に至ることを目指していた。しかし、それは不可能であることに気付き、探究に、そして「試み」に向かった。体系を断念した理由は、科学理論を研究していたことと関係する。科学において絶対的な真の概念は何もないことに気付いたのである。真とされるものは、ある時点で現実を説明できるように組み立てられたものに過ぎないからである。

探究者にとってまず重要になるのは、可能な限り詳細に記載することである。それから、別の枠組みから見ることができること。例えば、人間の目から見ると同時にタコの目から見る。西からと同時に東からという具合に。真の懐疑主義、純粋の研究である。ミショーさんの哲学は、非常に多様な概念的枠組みとともに現実を記載しようとする試みである。

探究は行動に結び付くのか?探究の根にあるものは、われわれが生きている中での問題を解決したいという切実感である。まず探究により状況を明確にしてから選択が生まれる。前段が哲学者の仕事である。行動は探究の後からついてくる。もし正しいと考えたのであれば行動すべきだとミショーさんは考えている。