1.12.13

9-SHE 「オーギュスト・コントの科学と宗教」


 

第9回サイファイ・カフェSHE 

「科学と宗教:オーギュスト・コントの場合」 

案内ポスター

2016年3月10日(木)、11日(金) 、18:20~20:00

 東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1

一般: 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます) 

学生: 無料(飲み物代は別になります) 

 終了後、参加者の懇親を兼ねた会を予定しています。 

参加を希望される方は、she.yakura@gmail.comまでお知らせください。


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  この世界を理解するために、人類は古くから神話、宗教、日常の常識などを用いてきました。しかし、それとは一線を画す方法として科学を編み出しました。サイファイ・カフェSHEでは、長い科学の歴史の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかについて毎回一つのテーマを選び、科学の成果だけではなく、その背 後にどのような歴史や哲学があるのかという点に焦点を当てます。講師が提示した世界から拡がるイメージを各自が取り込み、そこで呼び起こされる記憶から思索を展開し、参加された方々との交換を通して思索をさらに深めることを願っています。そして、このような営みを繰り返す中で、最終的に人間という存在の理解に繋がり、われわれ自身が深化し変容することができれば素晴らしいと考えています。
 今回は、現代科学の基礎となる実証主義(positivism)の提唱者であり、社会学の創始者とされるオーギュスト・コント(1798-1857)の 哲学と宗教を取り上げます。彼は三段階説において、宗教、形而上学を乗り越えて科学に向かう精神が最高の段階であるとしました。しかしその晩年、科学を神とする科学主義に向かうのではなく、新たな宗教「人類教」を唱えることになります。コントはなぜ自身の説に矛盾するような宗教に向かって行ったのか。科学と宗教の関係をどのように考えていたのか。これらの問題についての大きな枠組みを講師が30分ほど話した後、その内容を基に約1時間に亘って皆様の考えを 展開していただき、懇親会においても継続する予定です。興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。

(2015年12月20日)

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会の纏め

今回は、いずれ検討しなければならない問題である「科学と宗教」に入る前の一つの準備運動として、オーギュスト・コント(1798-1857)の宗教を取り上げることにした。彼は、人間精神の発展段階を研究し、神学的段階(フェティシズム⇒多神教⇒一神教)⇒形而上学の段階という二つの段階を克服して最後に辿り着く人間精神最高の段階として科学的な精神の運動を考えた。実証主義(positivisme)の原点である。その後、さらに洗練され、今では科学を支える確固たる方法論(哲学)になっている。その彼が、晩年、自らの宗教を始めたという話をどこかで読み、驚いたのである。理性を徹底するような研究を 行っていたように見える彼が、なぜ自ら否定した神学的段階に逆戻りしたのかという疑問が湧いたからである。その答えを探ることで、より普遍的なテーマが浮かび上がらないだろうか。それが今回の狙いであった。
本題に入る前、最近意識できたわたしの精神構造の三段階について紹介し、批判を仰いだ。その三段階とは、以下の三つである。最上層は、ほとんどが刺激と反応から成る日常生活での意識があり、そこから隔絶した形でそれぞれが仕事をしている時の意識がある。科学もこの範疇に入り、多くの場合、日常生活と隔絶された意識の世界にある。ここまでは殆どの人が経験する領域だと想像される。しかし、さらに深層に入ると、特定の仕事から離れた「領域を超えた」思考や「人間としての」意識、さらに「生のすべてを支える」ような思索が可能になる領域があり、これはそう意識して開拓しないと広がらないところではないか、と気付いたのである。
わたしがフランスに渡ってからは、日常と仕事を構成する上部二層のない生活を長くしていたため、第三層の中に居ざるを得ず、この層を意識できるようになったのではないだろうか。今回、ここを「全的生活」、「思索生活」の層と名付けた。ただ、この領域と仕事の層との間には広くて深い溝があり、必ずしも多くの人がこの領域を確保しているとは限らないのではないかと想像した。 そして、この層の存在を意識し、開拓することにより、われわれの生はより豊かなものに変容するのではないかという考えを提示した。しかし、第三層は生きる上に必要ないものなので、上部二層の中で生きることを充実させればよいのではないか、との意見も出された。一方、そこで得られる満足には限りがあり、全的 生活を充実される方向に進まなければ、真の生の充足感は得られないと考えている方もおられた。
コントは実証主義の哲学を教える講座を1826年に開設し、その内容を1830年から1842年にかけて『実証哲学講義』 (Cours de philosophie positive, 1830-1842)として発表し、実証哲学を構築した。この中で、人間社会の問題解決に科学の方法論を応用できないかと考え、多くの科学を学び、そこから本質的な方法論を抽出しようとした。若き日にサン・シモン(1760-1825)と仕事を共にした時に、社会や人間の問題に目を開かれたようである。彼は他にも1832年から18年間、天文学を教える講座をやはり市井で開いていた。自らの研究成果を含め、学問を広く一般に知ってもらおうとする心を感じる。
ここで彼の私的な生活を見てみたい。そこになぜ宗教に向かったかのヒントがあるかもしれないからである。1825年、彼は元売春婦のカロリーヌ・マッサンと結婚している。知的で献身的な女性だったと言われるが、コントの感情生活とどれだけ合致したのかはわからない。1842年には17年に及ぶ結婚生活が破綻している。その2年後、クロチルド・ド・ヴォ―をいう若き女性と出会ったのである。コント46歳、ド・ヴォ―29歳であった。それから文通が始まるが、彼女は結核で僅かその1年後にこの世を去る。それ以降、コントは人間・精神の哲学、人間の未来に関する宗教的概念の研究に向かうことになる。彼の宗教には、 「喪の作業」としての機能があったのかもしれない。
この段階で、「感情」と「理性」と「活動」の間の組み合わせにより人間存在の体系化を図ることを提唱。社会の効果的な繋がりに資するのは宗教だけだと考えるようになる。彼が唱えた「人類教」の目的は人間性だが、それは現在生きている人だけではなく、過去、そしてこれから来る未来の人類に関わるものであった。 その連続性が重要だとしたのである。彼の体系に超越性はなく、人類を神格化したとも言える。宗教(religion)の語源にはラテン語のreligare があり、「結び付ける」ことを意味している。コントは、すべての人間的要素を結び付けて出来上がった最良のものを宗教として考えていた可能性があり、「統 一」、「調和」、「統合」に近いニュアンスがある。参加者の中には、これが所謂宗教と言えるのかという疑問を呈する方もおられた。確かに、彼が人間精神の最初の段階にあるとした神学的段階へ逆戻りしたと考えるよりは、理性を用いて専門を超え、人間全体について考える精神活動の段階と捉えた方が良く理解できるようだ。
帰国前、パリ三区、マレー地区にある人類教の寺院を訪問した。建物の壁は一部剥がれ、そう思って歩いていないと見過ごしてしまうような目立たないもので、扉は閉まったままであった。現在のフランスには「信者」がいないようで、歴史的な存在になっている。壁中央には「原理としてのと基礎としての秩序、目的としての進歩」 という言葉が刻まれていた。社会の構成員相互の愛(利他主義=彼の造語)による結び付きによって社会の秩序を維持し、進歩を目指そうとする考えがそこにあ り、人間の内なる平穏が先にあるよりは、社会の平穏を求める心が先にあったように見える。それが所謂宗教としての寿命に関わっていたのだろうか。
今回のエピソードから、例えば、人間は理性(科学)だけで生を充ちたものにすることができるのか、あるいは愛する人を失った時、どのような「喪の作業」があり得るのか、というようなより一般的な問題が浮かび上がってくる。意図したわけではなかったが、PAWLで今回取り上げたエピクテトスの哲学が後者のテーマと関連することが見えてくる。このような結び付きを見付けることは、どこかで 悦びを運んで来てくれる。上述のように、宗教の語源には「結び付ける」という意味がある。意識の第三層にあるべき「全的生活」もまさに境界を超えて結び付ける精神運動から成っている。つまり、全的生活はコントが言う意味において宗教的生活なのかもしれない。
初日は全員出席だったが、二日目は二名の欠席があったものの大阪からの参加もあり、両日とも活発な議論が展開していた。お忙しい中、参加された皆様には改めて感謝したい。次回の予定は立っていないが、可能であれば年内にもう一回開催したいと考えている。今後とも、ご理解、ご協力をお願いしたい。


参加者からのコメント


先ほどはサイファイ・カフェSHEでお世話になり、まことにありがとうございました。また早速のメールをありがとうございます。取り急ぎ、柄谷行人の本の情 報だけお伝えします。『遊動論 柳田国男と山人』(文春新書953、2014年1月、800円+税)(折口信夫の宗教論についての記述は157ページ〜)。なお、3月7日付け朝日新聞朝刊「リライフ」欄(35面)に、「哲学 活きるヒントに」という見出しで哲学カフェを取り上げた特集が組まれていました(無料登録すれば記事全文が読めます)。http://www.asahi.com/articles/DA3S12244984.html ご参考になれば幸いです。      

第9回SHEにはじめて参加させていただきましたが、一昨日の第3回PAWLに較べ科学系の方の比率が高かったためか、議論の展開が若干違っていたように感じられました。ただ、テーマが「科学、哲学、宗教」でしたので、PAWLに近い議論の流れになったように思います。今回のテーマは、オーギュスト・コント が宗教、形而上学を超えて実証主義を提唱した後に、なぜ科学主義に向かわず、「人類教」という実証主義と相反するような宗教へ向かったかを考えてみようと いうことでした。コントが提唱した「人類教」が神という存在を置かず実証主義の延長であったようにも感じられますが、はたして人類教が宗教の範疇に入るのか、またコント自身が当時のキリスト教(カソリックまたはプロテスタント)信者だったのか、あるいはキリスト教をどう捉えていたかという点などがよく判断できなかったため、議論が煮詰まる段階にまで至らなかったように思いました。      
勉強不足の私には、コントが何故宗教に向かったかについては、矢倉先生のようにある時何らかの原因で意識に変化が生じたのか、現在の科学技術が抱える行き過ぎた実証主義への懐疑のような問題を抱えていたのか、人類教を実証主義の延長として捉えていたのか、私的生活の変化による心境の変化なのか、あるいはこれらの推定はまったく当て外れのことなのか、よく判断できませんでした。会合と懇親会で話題にのぼった、矢倉先生の提唱される科学の形而上化については、例えば、宇宙、ゲノムミックス、ロボティクス、AI、神経科学、ナノテクなどの先端科学分野でどのように交わることができるのか、まだ具体的なイメージが湧きませんでした。先端科学分野ではこれから哲学的な要素がますます重要になり、科学の形而上化はとても大切な視点のように思われました。本日は有意義な時 間をお作りいただき有難うございました。ご研究の進展を楽しみにしています。      

おはようございます。早速に昨夜のスライドをお送りくださりありがとうございます。昨夜は意味不明な質問をして申し訳ございませんでした。私の頭の中では、コントの実証主義においては再現性が確保されているはずだから、その前後段階に位置する形而上学や宗教においては、第三者が理解できるような再現性が担保されているのだろうか、と疑問に思った次第です。表現力に乏しく、花粉症で頭がボーっとしていたとお許しください。ワールドニュースでは、パリは戒厳令が敷かれたままとあり ます。どうぞ気を付けられて、お戻りお暮しください。次回も楽しみにしております。      

昨日は良い学びをありがとうございました。早速、昨日の資料を添付して頂き感謝します。なかなか、矢倉さんが行っているような学びは無いので、大変貴重な時 間として参加させて頂きました。最近は、ゆったりと考える時間が無くなってきましたが、過去の先人たちの思想に学び、考える時間を創って下さっている矢倉 さんの行いは素晴らしいと思います。また、私は、やや俗っぽい発言をしたりしていますがお許しください。生活の中からの発想しか出来ないのが現時点での自分自身です。社会が変化を遂げようとしているとき、「人類教」などと言う、今では珍しくない発想ですが、当時としたら、相当な尖がりの最先端の思想だったでしょうね?きっと、だからこそ、新しいもの好きな人々は、コントに影響されていったのかもしれない・・・なんて思います。しかし、現代に於いて、世界を震撼させている、戦争やテロ行為、または、全世界の中の一握りの大富豪たちが占める財産を、「全人類に、平等に仕分けするべきだ」と発言すれば、賛同者は多く表れるでしょう。そんな発言をしている人はいますし、政治団体にもいるように思えます。だからこそ、現代にも通じる普遍性のある思想であり、宗教と言えるのでしょうか?また、添付して頂いたスライドを拝見しながら、考えてみたいと思います。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。感謝をこめて。      

科学と宗教は人間性の存在に関わる深いテーマであるように思います。宗教の持つ論理の飛躍をどう捉えるかは個々の問題ですが、このあたりも討議できると面白いかなと思っていました。カソリックは次第に科学に近づきつつあるように、また一昨日のエピクテトスは釈迦の思想に近いものも感じます。このテーマも結論がでる性質ではないのですが、いろいろな人の捉え方が自らに還元されるのではないかと思っています。科学の形而上化は、科学者の内面に迫る問題で、とても 興味があります。科学の形而上化がどのようなアプローチになるのか、いままで具体的に意識はしていませんでしたが、私も頭の隅でも類似の思想が浮かんだり消えたりしていたような気もします。季節の変わり目で不順な天候が続いていますが、風邪などめされませんよう、ご自愛ください。

毎回、考えさせられる有意義なカフェの設営、有り難うございます。脳の地図の場面が印象深く、個人記録用に写真に撮っていましたので、添付します。会の記録としてご活用いただければと思います。

―― 科学はHowに答える営為であり、Whyに答えるものではない。Howに関する探求を続けても解像度が上がるだけで、Whyの答えに到達するわけではない。「なぜこの宇宙は存在するのか」「なぜ生命は存在するのか」といった目的論は、科学の探究からは排除されている。よって、「職業としての」科学者は安 易に目的論に飛びつかず、実証主義に基づき禁欲的に探求を進めるしかない……。
 以上のようなことはよく分かります。いわば科学者社会のお約束(ルール)ですから。しかし、研究室や論文を離れて、一市民一個人として発言される場合は、科学者にはそのルールをもっと取り外してほしいという思いがあります。永続する科学の営為とは別に、いずれあとせいぜい数十年で死すべき者同士として、科学者の妄言・妄想・妄信(矢倉先生の言われる、まさに“意識の第三層”)のたぐいをもっと聞いてみたい。
 <サイファイ・カフェ SHE>はそれが伺える貴重な会であります。今回もそれが知りたくて、無茶な質問を発したように思いますがご容赦ください。また、科学者と市民が哲学的テーマをともに語り合うという、稀にみる会を主宰されている矢倉先生にあらためて感謝申し上げます。今後もおおいに期待しております。

本日、#3PAWLと#9SHEの纏めを拝見しました。二つの会合に参加させていただき矢倉先生の纏めを拝見して、改めて以下のような感想を持ちました。
 矢倉先生が、#3PAWLの議論の前段で、パリでの水道修理屋とエピクテトスとの関わりから、今回のテーマをエピクトテスにしたというお話、そして仏検と DALFの比較から見えてくる日本人とフランス人の思考方法の違いについての感想からは、昔、若い時に読んだ「思索と経験をめぐって」(森有正著)の経験について書かれた話を想い出しました。森氏の経験についての考え方は私にとって目からウロコが落ちる思いでした。日本語の構造から生じる主体のあいまいさが思索や思想に大きな影響を及ぼしている。日本人が経験と言っているものは、一人の人間を定義するものではない。つねに相手が含まれてしまう。フランスの中等教育におけるアナリーズ・グラマティカルとそれに引き続くアナリーズ・ロジックを例にあげ、フランス語にはある問題を必ず文章の形でつかまえて、判断を求める習慣がある。それに較べ、日本語は物事を単語でとらえることが多く、構造的に主体の曖昧さが存在する。これがフランス語と日本語の大きな相違である。ひいては、この相違が原因して、思索とそこから生じる思想に大きな影響を及ぼしている、という森氏の考え方でした。この本を読んだときに、言葉と思考の大切さを意識したように思います。パリでの水道修理屋さんとエピクトテスと の関わりも、フランス語教育における思考の重視も共に納得できる話として伺っておりました。
 エピクテトスについての議論で人間は精神的に進化したのだろうかという感想をコメントいたしまた。進化とはもともと生物学的な言葉で、生物の形質が世代を 経て変化することであり、拡大的に発展するとか発達するというような意味でも使われますが、本来は変化の意ですね。しかし、私が言いたかったのは進歩のニュアンスだったと纏めを読みながらそう思いました。エピクテトスの思想を現代的な意味において考えるとき、はたしてその有効性があるのだろうかというご意見もありました。私は、むしろ現代においてこそ意味を持つ事柄が数多く含まれているように思いました。エピクテトスの思想の普遍性とは、どのような思索の姿勢から生まれてきたかを感じとることが、今回の議論から生じた私の課題となりました。
 コントの実証主義と宗教との関連については、この両者を、さらにはコントの人生そのものをよく知らずにコメントできることではなかったのですが、対象をよく知ることも私の課題です。矢倉先生の前段のお話から判断して、私は直観的なことを口にしましたが、それは、コントが人間の弱さという面にどのような思考を傾けたかという疑問が浮かんだからでした。神の存在を前提とする宗教が、今日でも存在をつづける大きな理由の一つが、人間の弱さを直視するところにあると思われるからです。ただ、コントの唱えた愛、秩序、進歩の宗教的思想は、宗教というより社会科学的な思想として、将来復活する要素が含まれているような気がします。コントの実証主義と宗教についてすこし勉強してみたいと思いました。以上、いろいろな事を考えるきっかけとなりました。有難うございました。

先週末は、どうもありがとうございました。このカフェもすでに第9回、私自身にとっても3回目の参加ということで、何か「継続性の力」とでも呼ぶべきものが生まれつつあるのを感じました。つまり、話題が次々と広がって、1回のカフェでは到底時間が足りないと感じられる反面、いまこの場で全てを納得できなくても、いずれまた機会はあるだろうという余裕の雰囲気。このような「継続性への信頼」は、今回のテーマである「宗教」にとっても、また重要な要素と言えるのではないでしょうか。ということで、このような会を続けてくださっている矢倉先生には、いつも深く感謝しております。次の機会にも、またよろしくお願い申し上げます。



フォトギャラリー

 2016年3月10日(木)






 2016年3月11日(金)


上は白石裕隆氏撮影


 
 


この日は会の前の写真撮影を完全に失念しました
今回、4-5年振りに参加された方を撮影できませんでした
以後、注意したいと思います
お気付きの方はお声を掛けていただければ幸いです
よろしくお願いいたします