1.9.11

科学万能時代の哲学


科学全盛、科学万能と言われる時代が続いている。科学の齎す成果はわれわれの生活を楽にするだけだと思われていた時のみならず、その生活を破壊する力を持つことが明らかになってもその流れは止まらない。

昨夜、ベルグソン (1859-1941) の本を齧っていた。生命をより複雑な方向へ導く予測不能で創造的な力とでも言うべきエラン・ヴィタル (élan vital) という概念を考え出して、生命の進化を論じた方である。この概念には実体がないとして、科学者からは否定的に見られることが多い。科学万能の時代に生きている者は、科学で証明できるものでなければ意味がないという考えに染まり切っている。その範囲でしか、ものが見えなくなっている。この思考様式が世界を覆っているのではないだろうか。昨日感じたのは、科学に考えることを任せてしまい、わたしたちはものを考えなくなっているのではないかという疑念であった。

それだけでも問題である。しかしそれ以上に問題なのは、ハイデッガー (1889-1976) も指摘しているように、考えることを任せている科学にはそもそも考える力がないことである。科学は科学という制約の中でしかものを見、考えることができない。つまり、科学がやっていることについて判断する力はないのである。科学に身を任せてしまうと科学の外にある他の枠組みが見えなくなる。科学の外に出てみると、このことがよくわかるようになる。

できるだけ広いところからものを見ようとする動きをすることは、哲学の一つの姿勢である。その姿勢を採ることにより、それ以前に支えてくれていた柵がなくなり自分で考えざるを得なくなる。昨日感じたのは、自分で必死に考えようとしている哲学者の精神運動であった。

ここで言いたかったのは、科学の骨格を作っている考え方の否定ではない。それを徹底した上で、そこを超えなければならないという思いである。もちろん、前段の科学精神の徹底さえ未だままならない状態では先の長い話である。科学が芸術や文学、人間の精神的姿勢や理解などに大きな役割を果たしていないという意味で、現代は科学時代ではないと言った哲学嫌いのリチャード・ファインマンさん (1918-1988) にも同意しなければならない。今いるインターフェースからだけでも多くの課題がわたしたちの前に横たわっているのが見えてくる。

(2011年9月16日)