12.1.14

翻訳ブログ

 


2017.9.17 (dimanche)

折に触れてではあったが、第1章の見直しを終えた。翻訳を初めた当初の部分になるので、問題の個所が少なかった。これに集中できれば良いのだが、他にもやることがあるのでなかなか進まない。これからさらに様子を見ることになりそうだ。


2017.9.9 (samedi)

新たに第1章から第3章までの校正版50ページが届いた。秋の帰国前までに終わらせたいところだが、どうなるだろうか。


2017.8.6 (dimanche)

編集者のサジェスチョンと本文を再検討しながら「まえがき」と「はじめに」(27ページ)の見直しを終えた。これまで意味がいま一つ通りにくいところもより明快になったのではないだろうか。そう願いたい。


2017.8.3 (jeudi)

最初の校正が今日から始まった。ほぼ1年になろうかというかなり長い空白であったが、こちらの方も予定が詰まっていたので結果的にはよかったのかもしれない。これからどれくらいかかるのかはわからないが、出版されるのはおそらく来年になるだろう。空白のお陰で新鮮な気持ちで向き合えそうである。最終的な確認を著者とも行いながら、何とか満足のいく形に纏めたいものである。






2017.5.23 (mardi)

「文体は思想である」 という表現を聞いたことがある。誰の言葉として聞いたのかは思い出さないが、いろいろな人がいろいろに語ってきたものと思われる。古くはセネカが 「文体は思想の衣である」 ("Le style est le vêtement de la pensée.")と言っている。新しい考えなどこの世に殆どないという一例だろう。

実は、この言葉を聞いた時、それがどういうことを意味しているのかよく分からなかった。しかし、時差ぼけの日本で、そのことの一つの意味が分かったような気がした。それれは翻訳のことを考えている時に起こった。ここに外国語の文章があるとする。それを日本語に置き換えるのが翻訳だが、経験から訳文は殆ど無限に可能であることはここでも触れてきた。まず、一つの単語にどのような訳語を選ぶのかという問題があり、それが各文章について現れるからである。

もう一つの要素として文体が挙げられる。それを考えた時、次のようなことが頭を巡ったのである。一人のフランス人がフランス語という言語世界の中で自らの思想を展開しているが、その表現はフランス語世界にある階層のようなもののどこかに属しているはずである。表現に至るまでに著者の頭の中で起こっている思考の襞の複雑さのようなものがそこに表れるだろう。単語をどのような入れ物に入れるのかが文体で、それを選んでいるのは著者である。もしそうだとすると、意識されているか否かにかかわらず、文体はそれを選んだ人の思想を必然的に表すことになるだろう。
 
これは宣長の意と姿の対比にも通じる。意の思想もさることながら、姿にも思想が表れることを意味している。そして、そこにこそ芸術家の真骨頂が発揮されることになる。翻訳の難しさは、ある階層に位置するフランス語を日本語世界の同じレベルの表現に置換しなければならないことである。それは可能な作業だろうか。事実だけを伝える文章の場合には 「意」 だけが問題になるので比較的容易だろうが、哲学や文学作品などは至難の業に見える。



2017.4.23 (dimanche)

第4部と残りの部分の見直しが終り、ファーストバージョンが仕上がったことになる。大体4か月の仕事だった。事実の確認を行っていると、本文中に間違いがあることが分かってくる。この場合、原文に忠実に訳すのではなく、正確な内容に変えるのが読者にとっては親切になるのではないだろうか。読者はフランス語でどうなっているのかは知らずに、事実だけを追うことになるからである。近いうちにコサール博士にお会いして、この辺りも含めてお話を伺いたいと考えている。いずれにせよ、これからゲラでの検討が待っている。印刷されたものを見ると、それまで気付かなかったことが見えてくることが多い。完成までの道はまだ続く。

ところで、最初に手掛けたクリルスキーさんの方であるが、都合で最初の校正作業が遅れているとのこと。今回の翻訳と重ならなかった点ではよかった。まず、こちらの見直しから始めることになるのではないだろうか。今年一年は翻訳の仕事に関わることになりそうである。翻訳という仕事が労力を要するものであることが分かってくる。



2017.4.15 (samedi)

本日、第4部と残りの部分の粗訳が終わった。量的にはこれまでの半分程度なので、格別ペースが上がったようには感じていない。これで本書を訳し終えたことになる。今年に入ってから本格的に始めたので3か月の仕事だった。前回のものより科学の内容が多かったので、その事実を確かめながら進めることに注意したが、表現自体の難しさは前回ほどではなかった。最初の試みがかなりハードルの高いものだったので、今回はフランス語の面での苦闘は少なかったのではないだろうか。少し間を置いてから見直しを始め、今月中には最初のバージョンを終えることにしたい。

本書を読んだ今の印象は、これまで目に入っていなかった小さな世界、勿論細菌もそうだが、そこに絡む昆虫などの媒介動物、そしてそれらの影響を受ける植物、動物、ヒト。われわれが無視しているような生物にも必死の営みがあり、それらすべてが巧妙に繋がっていることが浮かび上がってくる。しかもその繋がりには論理的な裏付けがある。それは科学の功績になるのだろう。分かったという気持ちにさせる力がある。全体を読み返す中で、もう少し具体的な感想が生まれてくるはずである。そう期待したい。



2017.4.3 (lundi)

本日、第三部の見直しが終わった。第二部よりも若干短い1週間であった。最初の訳でかなりできていると思っていたが、前回感じたと同じように改善すべきところが山盛りであることには驚かざるを得ない。これから最終の第四部に入るが、どの程度の粗訳ができるのだろうか。期待しないで様子を見守ることにしたい。



2017.3.28 (mardi)

気分が向いたため、見直しを始めた。当然のことだが、"re-"の過程は非常に重要である。今回も感じることは、粗訳の場合、注意が一点にしか向いていないようだということ。少し離れて文章を前後のコンテクストに入れると違って見えることもあるが、それが行われていない。しかし、それ以前に、一つの文章においてもそこにある部品をどのように配置するかで、分かりやすさが全く変わってくることにも注意が行っていないようだ。粗訳の段階ではこれらの余裕を持てずにどんどん先に進みたがっているところがある。この発見は、クリルスキーさんの本のゲラチェックを相当しっかりやらなければならないことを意味している。当時は今ほど余裕を持って"re-"の過程をやっていなかったと思われるからだ。



2017.3.27 (lundi)

本日、第三部の粗訳が終わった。第二部とほぼ同じ時間が必要だったことになる。別のプロジェに当たった後、見直しを始めることになる。



2017.3.5 (dimanche)

本日、第二部の見直しが終わった。粗訳に20日、見直しに10日ほどかかったことになる。少し休んでから第三部に入りたい。



2017.3.3 (vendredi)

現在、第二部の見直し中である。かなりしっかり訳したと思っていたが、それは気持ちだけであったことが分かる。この過程で、少しは分かりやすい文章になったのではないかと思う。ここで注意していることは、まずざっと読んで理解できるかどうか。微妙な言葉の使い方や配置がうまく行っていないと、すぐには理解できないことが少なくない。それから、ある事実を目の前の日本語が的確に表現しているかどうかに注意する。これらの作業は本文と照らし合わせながら進められるので、訳し直しと余り変わらない。ただ、最初の訳でフランス語に対応する日本語が準備されているので、時間的には少なくて済むという程度のものである。

これは、前回も気付いたことにになる。英語でもフランス語でも前から読んで理解できるような構造になっていて、ある言葉の説明は後に置かれる。何についての話なのかが最初に提示され、それについて後から説明するというやり方である。日本語にする時もその流れにした方が分かりやすいことが多い。説明を前に付けても理解の妨げにならない時にはそのようにする。分かりやすさを決める一つのポイントのように見える。



2017.2.23 (jeudi)

今日、第二部の粗訳を終えた。以前に考えた粗訳のスピードアップだが、今回は逆に比較的しっかりと訳すことになった。第一部同様、ここで見直しをしておきたい。ここまでで感じることは、生物は細菌と言えども(この表現は上から目線の人間中心主義かもしれない)実に巧みにこの世界で立ち回っている。生物間のやり取りには、基本的には身を護る利己心とそれにもかかわらず相手を相互に受け入れる利他心のようなものを垣間見ることができる。いずれも最初は利己心なのかもしれないが、、。それぞれが必死に生きている様が見て取れ、ほほえましいくらいで、そこに意志や意図を見たとしても不思議ではない。これは生気論者の考えになるのだろうか。



2017.2.15 (mercredi)

第二部に入っている。これまでに翻訳の仕事は一気に終えることのできない、地道な歩みが求められる営みであることを感じ取っていた。この勤勉なイメージが体に馴染まないのだが、最近一つのやり方に至り、諦めるようになってきた。それは毎日2時間(大体3ページ)必ずその中に入り、それ以上はやらないというもの。こう決めてしまえば、毎日にリズムが生まれ、全体の終わりもはっきり見てくる。まだ時間は経っていないが、これまでのところ抵抗なくやれているようだ。



2017.2.4 (samedi)

第一部の見直しを終える。2週間ほどかかったことになる。これだけの見直しができる精神的、時間的余裕があるのだとすれば、今回は粗訳をもう少しスピードアップしてもよいのではないないだろうか。第二部以降、考えてみたい。



2017.1.31 (mardi)

第一部の見直し中である。粗訳を日本語として読んでおかしなところだけを直す予定だったが、それでは見落とすところが出てくることが分かる。今回も訳し忘れがあったり、最初に原文を読んだ時と違う解釈ができるところが出てきたりするので、結局、原文と突き合わせて訳し直すような作業となっている。これは前回も感じたことではないかと思うが、重要なことは文章中にある言葉のユニット間の関係を如何に正確に掴み、それを日本語に反映させるのかが明確で分かりやすい訳文にするポイントではないだろうか。つまり、「ユニット間の相互関係」に注意することが鍵ということになる。



2017.1.29 (dimanche)

疑問点が出てきたので確認を兼ねて著者のコサールさんにご挨拶のメールを差し上げた。問題の点については調べてみるとの返事とともに、フランスにいるのであれば一度会って話をする機会を持ってはどうかとの提案をいただいた。著者と直接話をするということは訳す時に大きな助けになると前回感じたので、適当な時期にパスツール研訪問を実現したいものである。



2017.1.24 (mardi)

今日、60ページほどの第一部を訳し終えた。今回は各部を終えた後に一度見直しておくことにする。前回はそのような気分にもならなかったし、その余裕もなかったが、今回は少し様子が違うようである。



2017.1.14 (samedi)

久し振りに再開することにした。最初の経験から、コツコツやる以外には道はないことを学んでいるので、暫くの間は規則正しく進めるようにしたい。



2016.9.29 (jeudi)

まだ時間があるという意識がどこかにあるためだと思うが、アイドリング状態である。その中に入っていけないことの一つの理由に気付いた。それは、言葉として字面だけを追って翻訳している傾向が強い時に起こる。内容に対する興味が強ければ、次がどうなっているのかという気持ちとともに前に進むはずだからである。前著の一文ずつ訳すという態度を引き摺っていることも関係すると思う。内容に興味はあるのだが、この態度のために全体を見渡すことが忘れられているのではないか。前著では見直しをなかなかやる気にならず最後になったが、今回は章単位くらいで見直しをやっておきたいものである。



2016.9.22 (jeudi)

この本の翻訳依頼は編集者から届いた。題名を見た時、すでに手元にある本だったことと内容に興味があったことが翻訳を引き受けるもう一つの理由だった。「翻訳とは理解すること」なので丁度よいと思ったのである。パラパラと目を通して見ると、前著とも関係してくるところが多々ある。ただ、想像通り、記載は純科学的なので、頭を捻る回数は減るような予感がしている。



 2016.9.21 (mercredi)

クリルスキー博士の本が一段落したところだが、新たにパスツール研究所教授パスカル・コサール博士の最新刊 La nouvelle microbiologie (Odile Jacob, 2016) (仮題 『新しい微生物学』)の翻訳話が舞い込んできた。クリルスキー本の翻訳の過程で、このような仕事はミッションにまで高める必要があるのではないかと感じていたこともあり、初稿の完成が来年の夏まででよろしいとのことだったので、大変な仕事であることを覚悟の上でお引き受けすることにした。今回の内容は純科学的なもののようなので、前回とは少し違う展開になるのではないかと予想される。折に触れて、気付いたことを綴っていきたい。





2016.9.9 (vendredi)

先日、翻訳が終わった旨を著者のクリルスキー博士にお知らせしたところ、本日、長い仕事を労う感謝の返信が届いた。少しだけ、これまでの疲れが取れたような気分である。ただ、最終的にそれなりのものとして公表できるようになるまでは気が抜けないだろう。



2016.9.5 (lundi)

本日、脱稿した。ほぼ300ページに及ぶ。自分でもよく耐えたものだと感心している。終えることができたことが信じられない、という方が正確だろう。まさに神業、というのが筆を置いた時の率直な感想である。翻訳がこれほどまでのエネルギーを要するものとは、想像だにしていなかった。テーズでの長い時間が耐えることを教えてくれたのかもしれない。ネガティブ・ケイパビリティである。

今回の内容は免疫についての見方がまとめられたものなので、科学の中の事実の後に続くものが書かれてある。そのため、普通出会うのとは違う言葉と文型が現れる。訳し始めた時は、すべてが全く別の言語に見え、「これが本当のフランス語なのか」と思いながらの苦しい作業であった。

改めて科学のフランス語を読んでみる。非常に分かりやすい。文型が単純で、単語も英語からの類推できるものが少なくない。その意味では、科学の文章はフランス語ではないのかもしれない。形が標準化されているという点で。

科学の文章の難しさは、文型ではなく名詞の中にある。逆に言うと、言葉の意味が分からなければ何を言っているのか分からないことになる。つまり、知識なのである。文型ではないのである。思考ではないのである。

今回の翻訳から、そんな一面が見えてきた。「わたしの発見」と言えるだろうか?苦しい仕事ではあったが、声を掛けてくれた著者のクリルスキー博士に改めて感謝したい。

これからゲラのやり取りが数サイクルあると伺っている。最終的に纏まるのは、来年春以降ではないだろうか。これからがこれまで以上に重要になるだろう。その間に統一のとれたものにして行きたいものである。



2016.8.27 (samedi)

10日前の記録には、「訳し直し」を原文から始めているとある。この方法は原文に返るという点では良いのだが、見直しの時間に制限がある時には効率が悪い。そのことに気付き、訳文から入って流れのおかしなところがあれば、原文を再確認するという方法を採ることにした。日本語がおかしなところは理解が不十分であったり、間違っていることさえある。いずれにせよ、最後になって自分にとってのやり方の正解が見えてくる。今回は致し方ないのだろうが、これからの機会に生かすことができれば、よしとしたいものである。来週がいよいよ大詰めの週ということになる。どのような展開になるのか予想もできない。



2016.8.17 (mercredi)

相変わらず、「訳し直し」を続けているが、再度原文から始めるというこのやり方を採って正解であった。そうすることで、誤りを最小限にすることができ、訳語を含めた全体の流れができてくるように見える。それほどまでに多くの改善点が見つかるということでもある。ここまでを振り返れば、最初に粗訳があり、その後に、それを参考にしながらの「訳し直し」の作業が入り、そして最後に訳文の通読による検討が続くことになる。最後の検討はゲラの段階でも行うことになり、特に重要になるだろう。

エッセイを書いている時に経験することだが、ワードの画面で見ている時、それを印刷したものを見る時、さらにゲラを読み直す時では気付くことが変わってくる。この順番でより大きな視点から対象を見ることができるようになる。特に最終的に外に出る形になった時には、それまでと違う客観性が生まれている。それほど、自分のものを客観的に見ることが難しいということだろう。

以前にも触れたと思うが、純科学的なテクストとは異なり、訳の可能性がほぼ無限大に広がる作品である。その意味で、メッセージは著者のものだが、最終的に訳された形は訳者のものと言っても良いだろう。その上で、その表現が原文の趣きをどれだけ再現できているのかが問われるのだろう。翻訳が実に難しい作業であることが見えてくる。



2016.8.10 (mercredi)

自らの訳文を初めて通して読んでいる。石を穿つように訳してきたので、景色が全く違って見える。間違いは必ずあるというのが大前提だが、特に第一部は慣れない中でのことだったので少なくないと考えていた。最初は訳文でおかしな時に原文を確かめるというやり方を採っていたが、それでは、例えば訳し忘れや訳語の選択が正しいのかどうか、さらには訳し間違いの有無が分からない。訳し始めた当初と最後の段階でいろいろな方針が変わってきているので、最後に辿り着いたやり方ですべてを統一しなければならないだろう。ということで、原文から始めて訳文を見直すという方針に転換。想像していたよりも時間がかかりそうである。



2016.8.2 (mardi)

本日、やっとのことで粗訳が終わった。今年の初めを考えれば、信じられないことである。これからまだ詰めはあるが、今年前半のプロジェの目途が立ち、少しだけ肩の荷が下りた感じだ。これまでの過程でいろいろなことに気づいたが、その中からいくつかを取り上げてみたい。

まず、翻訳というものはほとんど無限のバージョンがあり得るということである。一つの文章を取っても、それぞれの単語に充てる日本語はいくつかの可能性があり、文中の言葉の数を掛け合わせるとそれなりの数になる。それ掛ける文章数となると、天文学的数字になるからだ。以前にも書いたが、その時にどの訳語を選ぶのかは訳者の日本語世界に拘束されている。

そこで二つ目の問題が見えてくる。それは一つのフランス文化が日本に入る時、今回を例にとれば、自分の日本語を介して入ることになる。これはは恐ろしいことである。本当にそれでよいのかという思いがどこかにある。そこにある事実は原著者のものだが、訳し出されたものは訳者のものとしか言いようがないからだ。

科学の場合、文学作品に比べると事実を知りたいということが先に来ている可能性が高い。しかし、フランスでは言葉を大切にしている科学者が少なくない。それを日本語に移し替えるのは至難の業である。これからひと月掛けて、全体を読み直すことになる。その過程でも「わたしの真理」が見えてくることを願いたい。



2016.7.31 (dimanche)

当初の予定より1週間ほど遅れているが、ゴールが見えてきた。分からない文章が出てくることがあるが、それは全く初めての文型であったり、とんでもない構造の見誤りをしていたりで、大変である。そんな時は小休止。暫くの間その文章と付き合い、前後を見渡していると、意味が見えてくることが多い。

今日のお休みにはある単語の訳がどのようになっているのか、全体を見直してみた。これまで一文ずつ訳してきたので最後に整合性を付けようと考えてはいたのだが、そのような気分になる時期に入ったということだろう。見直してみると、やはりかなり乱れている。それを直しながら、その周辺を見ていると、あちこちに気に入らないところが出てくる。少しは見直したつもりの第二部にもいろいろな間違いが見つかった。

これは以前から観察していることだが、自分の書いたものの間違いを見つけるのは至難の業である。もちろん、単純な間違いもあるが、自分が書いているので、自分では正しく書けているという先入観が強く、そこにあるのに見えないのである。どうしても第三者の目が必要になる所以である。幸い、これから複数の人の目が入り、自分でも数回の見直しができると伺っている。できるだけ間違いの少ないものに仕上げたいものである。



2016.7.27 (mercredi)

ジャン・イポリット(Jean Hyppolite, 1907-1968)さんのことがなぜか頭に浮かんだ。彼がヘーゲルを訳すためにドイツ語を独学したという話を思い出したのだ。あるいは、訳しながらドイツ語を学んでいったと覚えていたからかもしれない。それがフランス語の翻訳を今やりながらフランス語を学んでいるという感覚と重なったのだろう。因縁を感じて、どんな人だったのかを探している時、一つのビデオが現れた。イポリットさんが加わっている哲学と真理に関する議論である。





もう半世紀も前の映像になる。全体の雰囲気がフランス語を始めた当時に感じたフランスものへの違和感を思い出させる。それは、それまでとは全く違う世界が広がっていることを予感させるものだった。

ここに参加している方々の中にはカンギレム、フーコーという師弟もいる。また、昔の対談では稀でないが、イポリットさんがタバコをやりながら話している。映像として、実に興味深いものがある。



2016.7.25 (lundi)

翻訳を始めたのは今年の初め頃。当初は一日1ページか2ページがせいぜい。科学的内容についても確認しながらの作業だった。日本に帰っている時は少しだけペースが上がって来たように感じたが、それでも一日で数ページで、1ページ訳すのに数時間かかっていたのではないか。六月末にパリに戻ってからはペースが徐々に上がり、今では1ページにほぼ1時間というところまできた。この仕事に入る前に思い描いていたペースはこのようなものであった。途中で飽きがこなければどんどん進むのだが、なかなかそうはいかないのが悩みである。

このようにペースが上がってきたのは文体と語彙についての馴れと日本語にする時の自分なりのスタイルができてきたためだと思われる。つまり、これらはすべてフランス語が押しつけてくる問題になる。フランス語が身に付いているとは言えない証左でもある。さらに、このような科学が絡む本の場合には、専門領域の知識が不可欠になる。それを知らなければ、翻訳はほとんど不可能だろう。そう考えると、この手の本を翻訳する人は意外に少ないのかもしれない。

著者から「免疫学と日本語とフランス語を知っている人を他に知らないので」と言われ、フランス語はよく知らないのでと最初はお断りしたプロジェではあった。しかし、少し引いてみるとこのような仕事はわたしの中ではミッションのレベルにまで引き上げられるべきものなのではないか。そんな思いが湧いてきた週の初めである。



2016.6.24 (dimanche)

これまでを振り返ると、例えば、一つのパラグラフの全体を読んでから訳し始めるというよりは、炭鉱の岩盤をひたすら削っていくように、目の前にある文章を一つひとつ日本語に置き換えるという作業をやってきたように見える。それが能率のよいやり方なのかどうかは分からない。しかし、この一点に向かっているという心理状態にいなければ、なかなか取り掛かる気にはならなかった。そのため、全体的な流れから一文を見るという視点が欠如していた。それは一つの纏まりが終わった後に、再検討することにより補うことになる。現在最後の第三部に当たっているが、それが終わった後、この部を読み直し、その後さらに第一部から全体を通して読むことになる。第一部と第三部では文体さえもが違っているのではないかという予感もする。それはその間に大きな変化があったことを意味しているので、手間はかかるだろうが、むしろ歓迎すべきことかもしれない。



2016.7.23 (samedi)

一つの単語の訳が見つかった時、その文脈で意味するところを考えて別の言葉に置き換えたり、説明的にすることが有効になることがある。それとは別に、文章が説明している内容を立体的で明確なイメージとして思い浮かべることも日本語に置き換える時に参考になることがある。文章を映像に置き換え、それを改めて説明するのである。哲学では難しそうだが、科学では特に有効になりそうである。



2016.7.20 (mercredi)

今日は、翻訳そのものに関するものではなく、本の内容に関連するクリルスキー博士の考え方を6年ほど前に書いた記事が見つかったので、ここに転載しておきたい。


「フィリップ・クリルスキーさんの考えを聞く」 (2010年1月9日)

昨日、コレージュ・ド・フランスで1980年のノーベル賞受賞者ジャン・ドセー博士の記念シンポジウムがあり、午前中だけ出席した。その最後に、前回取り上げたクリルスキーさんが話していた。タイトルは、 « HLA, soi et non-soi : une perspective systémique » (HLA、自己と非自己:システムとしての視点)。

彼は現在コレージュ・ド・フランス教授だが、その活動範囲は広く、シンガポールの研究所の責任者でもある。シンガポールではヒトを対象にして免疫系をシステムとして捉える試みをしているという。 大量のデータを集め、それを数学者と共同で解析しようということだろうか。印象に残ったところを思いつくまま書き出してみたい。

1) 免疫系の自己を規定している分子について、エピステモロジーの観点から二つの問題が見える。一つは自己同一性(アイデンティティ)、二つ目は単一性(個々のユニークさ)で、それぞれについて哲学的な問い掛けができる。

2) 自己と非自己の識別に関しては、まず自分と自分とは違う異質なものという古典的な見方がある。第二には、胸腺の中で何が自己であるのかを免疫系に教育が施 されるが、その時にこれが自己であるとしてT細胞に示されるペプチド(自己の構成成分)の種類が人により異なっている。個体を特徴づける自己ペプチドのカタログが自己・非自己の識別に関わるとする見方ができる。第三に注意しなければならないのは、自己と非自己の識別の曖昧さである。それは質的にも量的にも見られるが、自己ペプチドのレパートリーがT細胞レセプター数を上回っているので、一つのレセプターが多くの抗原を認識する交差反応が起こることであ る。

3) 免疫系をシステムとして見た場合、いくつかの特徴が見えてくる。一つはロバストネスで、免疫系に起こる間違い、機能低下、不正確さと外界の予想できない変化にも拘らず、それほど問題なく機能するという特徴である。もう一つは、部分の要素そのものより各要素間の関係が重要で、全体としての潜在能力とでも言うべきものである。個人によりHLA、自己ペプチドの種類、T細胞レセプターなどが異なっている免疫系ではあるが、例えばワクチン接種に対して一様の反応を示すように、比較的良く機能している。これは要素の違いを超えてT細胞の反応閾値の調節が行われている可能性を示唆している。

4) これらのことは、免疫系やその異常に対する見方に変更を迫るものである。例えば、自己免疫病をシステムの構成要素の異常として捉えるのではなく、ロバス トネスやそこに関与する品質管理の失調と見る必要があるだろう。自己免疫病などの免疫病がなかなか解決されない一つの理由は、病気をシステム全体の調節異常として捉えるホリスティックな視点がなかったためかも知れない。

ただ、このようなアプローチがどれだけ具体的な成果をあげるのか。例えば、シドニー・ブレナーさんなどは、いわゆるシステム生物学に批判的で、このやり方で成功を収めることはできないと主張している。今後の動向を見守りたい。



2016.7.19 (mardi)

訳す時には根気が必要になるので、こう暑いと大変である。複雑な文型の場合、訳せるところから訳していき、最後に全体を調整する。最初に纏まった文章にしようとすると、手が付けられなくなる。これまで二度三度、何度読んでも意味が通じない文章にぶつかったことがある。そんな時、すぐに解を求めず、まずそれぞれの単語の日本語訳をできるだけ多く探す。それから、いろいろな文章を作り、時間を置く。意味が熟して来るのを待つのである。そうすると、全体の意味が見えてくることがある。



2016.7.18 (lundi)

単語にはいろいろな訳語が当てられている。そのどれを選択するのだろうか。これは、訳者の日本語世界に依存しているのではないか。つまり、その訳者が普段どのような文型の中でその単語を使っているのかにより、訳語を選択することになるからである。そうしないと、その訳者にとっては不自然な日本語になってしまい、納得しないからである。この視点から、結局は訳者の日本語世界に訳文は制約されていることが改めて見えてくる。



2016.7.17 (dimanche)

英語でのことは忘れたが、おそらくそうだろう。文章の意味を掴むために重要になるのが、代名詞が何を指しているのかを解読することである。さらに重要なことは、それを名詞に直して日本語にすることである。そうすると、直訳的に代名詞のままにしていた時とは比べものにならないほど、日本語としての意味がよく通るように変貌する。このことを明確に意識できるようになると、滑らかに前に進むようになって来たように感じる。



2016.7.9 (samedi)

最初の方で取り上げた翻訳のスタイルについて、ノヴァーリス(1772-1801)が語っている。

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一つは文法的で逐語的な訳、二つ目は解釈や見方が加わるもの、さらには神話的なものがある。神話的な翻訳は、最も高度な翻訳になる。そのモデルはまだない。そのためには、十全な状態にある詩的精神と哲学的精神が相互に深く浸透し合う精神の働きが必要になる。ギリシャ神話は国民的宗教のこのクラスの翻訳で、今で言えば聖母マリア像がそれに当たる。

文法的な翻訳は一般的な意味での翻訳になり、多くの博識を要するが、論証的な精神にしか届かない。詩的で解釈を加えた翻訳は最高のものだが、この翻訳者は真の芸術家であり、詩人の中の詩人でなければならない。人類の天才とそれぞれの人間との間にも同様の関係が成り立つ。

すべてはこれら三つのやり方で翻訳され得るもので、本だけに限ったことではない。

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今の段階でのやり方は、当初考えていたものと変わらないだろう。まず普通の翻訳を終えてからその先に進むことができるのかが、これから問われることになる。



2016.6.30 (jeudi)

パリに戻ってほぼ二週間。最初の一週間と比べ、今週は進み具合が少し落ちてきているように見える。これは日本で感じた環境の影響なのだろうか。つまり、日本語が溢れた日本の方が日本語に敏感になり、日本語に移す作業が自然に流れるのではないかという可能性だ。しかし、これからはフランスに暫くいることになるので、今更文句を言っても始まらない。地道に向かうしかなさそうだ。



2016.6.24 (vendredi)

第二部のワード上での最初の読み直しをやっと終えた。今回は原文を読みながらの作業だったので想像以上に時間がかかったが、いろいろな間違いの他、訳し忘れなども新たに見つかり、必要な作業だったことが分かる。これをプリントアウトしたものについて読み直すと、また違った印象を受け、おかしなところも見えてくるのではないかと思う。それはさらに後の作業としたい。これからは第三部に進み、それが終わったところで第一部を見直した後、全体を通して読み直すことになる。その間に編集者からの助言があれば、それに答えながら作業を進めたい。これまでの経験によって第三部の訳がどれだけ順調に進むようになるのか、興味がある。



2016.6.18 (samedi)

日本滞在も最終日になった。これまで粗訳を見直していた。これが意外に時間がかかる。原文の読み間違い、勘違い、ミスタイプなどの他、読みやすさに問題があるところがいくつも見つかる。文章の単位では、後ろから訳した部分はその傾向が強い。意味が最後にならないと見えてこないことが関係しているのだろう。この場合、頭から訳した方が分かりやすいことが多い。それから、文章をつなげたり、二つに分けたりすることも分かりやすさを生み出す助けになる。また、文章の流れとしての読みやすさもある。これを決めているのは、論理の自然な流れが日本語の中に表現されているかどうかだろう。

当初は訳文だけで校正しようと思ったが、残念ながらそれにはまだ早すぎる。現段階では、原文を読み直しながら間違いを最小にするという作業が必要になる。ということで、第二部の読み直しにはもう少し時間がかかりそうだ。これらの作業をしないままの第一部には不備が満載のことだろう。まだ読み直す気分にはなっていない。



2016.6.9 (jeudi)

日本滞在の一つの目標にしていた第二部の粗訳が終わった。結構な労力を要したが、慣れも手伝い何とか予定通りに進んだ。これは自分では分からないのだが、日本語が溢れた環境にいたことが見えない影響を与えていたことはないだろうか。今日、ふとそんな考えが頭を過った。いずれにせよ、フランスに向かう前に読み直して最初のバージョンとしたい。



2016.5.15 (dimanche)

再びの日本。これまで抵抗があった図書館に通うことに抵抗がなくなっている。むしろ、そこに行かなければ仕事が捗らないことも分かって来た。パリに行った最初の4年くらいはBNFに行く気にもならなかったのが、それ以降は定期的に通ったことと重なる。

最近、これまでよりもペースが上がってきたように感じる。著者の言い回しと言葉選びに慣れてきたことが大きいのだろう。最初は直訳のように著者の言葉と文型を崩さずに訳していた。しかし、最近ではそれで意味がはっきりしない時には、説明するように少し自在に原文の文型を変えるようになった。以前、編集者の方に伺ったところでは、一般的に翻訳は原著より長くなるが、わたしの訳したものはそれよりも短いとのことであった。当時の訳し方であれば、それも郁子なるかなと聞いていた。ということで、現在のページ数を調べてみたところ、原著に対する割合が0.95とさらに短くなっているのに驚いた。より説明的になっていると思ったのだが、どうしたことだろう。・・・と、ここまで書いた時、単にページ数では比べられないという当たり前のことに気付いた。翻訳疲れだろうか。



2016.4.12 (mardi)

パリに戻り、翻訳だけやればよいという日常に入って数日が経過。以前よりは進み具合がよいようだ。日本で仕入れたロベール大辞典は大いに役立っている。この辞書に出遭い、翻訳は結局のところ日本語の問題なのだと気付く。それからLingueeというサイトがためになることが分かった。ここは仏英で行き来する例文が豊富で、日本語に訳す時に貴重なヒントを得ることが少なくない。



2016.3.31 (jeudi)

これまで仏和辞典はポケット版で済ませていたが、それでは埒が明かないことが多くなってきた。図書館で小学館ロベール仏和大辞典を見つけ何気なく使ってみると、大型の辞典ということもあるが、訳されてそこにある日本語が実に豊富で、日本語の語彙が薄れつつある者にとっては大きな助けになることが分かった。それだけではなく、例文の訳を見ていると、型に嵌らず、かなり自由に訳している様子が伝わってくる。わたしのような初心者にとっては、翻訳の極意を覗き見ているようで気分が晴れてくる訳なのだ。この辞書の発見は、今回の日本滞在の大きな収穫と言えるだろう。



2016.3.20 (dimanche)

翻訳の態度、あるいはスタイルとして、大きく二つあるらしい。一つは "fidelity" を重視するタイプで、元の言語に忠実に、謂わば逐語訳的に訳すことを目指す。これに対して、 "transparency" を重視するタイプは、訳される言語に忠実に、その言語のネイティブが書いたように訳すもので、上との対比で言えば意訳派となるのだろう。個人的な印象では、著者の文体をできるだけ生かしたいと思うと直訳に近い訳にならざるを得ないように見えるが、それでは日本語として馴染まず、理解できないことも多い。一方の意訳では原文の姿が消えてしまうことが想定されるが、日本語としては理解しやすい文章になっている可能性もある。翻訳をどう考えるのか、実に難しい問題を孕んでいる。

現実的にどうするのか?一つのオプションは、最初できるだけ原文に近い日本語に直しながら著者の意図を汲み取っていく。その後で、意味がはっきりしないところを直していく。そして最後に、全体の流れと文章とを統一して、著者の文体も意識しながら日本語として完成されたものとする。現段階の方針はこれになるだろうか。



2016.3.17 (jeudi)

「翻訳には解決されていない問題がある。原典は変わらないのに、なぜ翻訳は古くなるのか。それは、翻訳が一つの解釈であり、解釈は時代の制約を受けているからではないか。他の芸術と同じように、常に復元し、再解釈する必要がある」

これは、先日亡くなったウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932.1.5-2016.2.19)さんの言葉。確かに、翻訳が時代の制約を受けて古くなるのは、経験している。しかし、その中にあってできるだけ長い命を保つような訳はできないだろうか。そこを心掛けたいが、そのためにはどのような文章が良いのか。考えて解が得られる問題だろうか。



2016.3.15 (mardi)

今年のプロジェクトとして、フィリップ・クリルスキー博士のLe Jeu du hasard et de la complexité (Odile Jacob, 2014) (仮題 『偶然性と複雑性のゲーム』)の翻訳を取り上げることにした。著者からの依頼でもあり、学生が終り縛りが取れたため、非力を顧みずこのようなことになった。初めての経験でどのようなことになるのか想像もできないが、年が明けてから早速始めている。第三章まで終わったところでの感想は、想像以上に時間がかかるということである。勤勉さが求められる「仕事」になりそうだ。

昨日、編集者との打ち合わせがあった。これまでに訳したものについてのコメントをいただき、表記が問題になる言葉をどうするのかについて指示を仰いだ。一応、今年の八月を目途にわたしの訳は終えることになっているが、その後の確認作業が1年近く続くことを知り、一冊の本を出すまでの労力の多さに驚いた。昨日のお話では、大体次のようになっている。

訳し終えた後、それを編集者が検討してゲラ作成へ。そのゲラを訳者が校正するだけではなく社外校正者にも検討をお願いする。それらを基に作り直したゲラをもう一度検討する。場合によっては、この作業をもう一度繰り返すという念の入れようであった。翻訳作業は訳者と編集者の共同作業であること、そして出版事業に対して感じている責任の重さを見せつけられる思いであった。

取り敢えずの目標は八月までに訳者としての役目を果たすことだが、地道にやる以外に道はなさそうだ。「仕事」としてではなく、愉しみながらやりたいものである。さらに言えば、その過程の中に「わたしの真理」を探すつもりで当たりたい。