La Librairie de Montaigne
(31 mai 2013)
(31 mai 2013)
<サイファイ・カフェ SHE> (Science-Philosophy Cafe SHE = Science & Human Existence) を訪問いただきありがとうございます。
<サイファイ・カフェ SHE> は、科学から生まれた成果だけではなく、科学という営み、科学を支えている精神などについて歴史的、哲学的な視点から見直しながら、最終的には人間理解に至る道を目指して、2011年11月に始まりました。
会の趣旨はこちらに、また過去の会は「これまでの会のまとめ」にあります。ご覧いただければ幸いです。
次回の予定は以下の通りです。
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西欧哲学の重要なテーマの殆どは、プラトンによって考えられているという認識があります。特に意識してはいなかったのですが、昨年のカフェフィロPAWLではプラトンを続けて取り上げました。想像以上に興味深い議論ができたのではないかと思います。これからは多少とも意識してプラトンを読んで行きたいと考えています。今回は、『テアイテトス』を読みながら、プラトンが考えた科学あるいは知識の基盤を考える予定です。本は岩波文庫、ちくま学芸文庫などで手に入ります。いつものように講師のプリズムを通して見えてきたところを概説した後、皆様に議論を展開していただきます。
(2018年3月15日)
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会のまとめ
第13回サイファイ・カフェSHE、終わる(2018年6月15日)
イントロとして、昨年秋に開催した第6回カフェフィロPAWLで触れたプラトン哲学についての一般的な見方を紹介した。この世界には五感で感知される世界と感知できない世界があり、前者は動いていて「成る」見せかけの世界、後者は不変の原型があるイデア(Form)の世界である。真理や本質は、相対的な感覚による世界ではなく、イデアの世界にあるとする見方である。それに対して、宇宙や人間や都市国家を理解するためにプラトンが用いた哲学的方法は、職人や医者からヒントを得ているという指摘がある。イデアとは天空にある手の届かないものではなく、アトリエで使う道具のように哲学の現場で用いていた道具だったというわけである。哲学が科学や技術に触発されていたことを示す見方になるだろう。
『テアイテトス』におけるソクラテスの主な対話相手は当時10代後半と思われるテアイテトスとその師に当たるテオドロスである。テオドロスは幾何学の他、天文学、算術、音楽を専門とし、当時70代と思われるソクラテスより(この対話が、ソクラテスがこれから裁判所に出かけるというところで終わっているので)年上ではないかと想像されている。テアイテトスは、この師から「こんなにも驚異すべき好天稟(天賦の才能)を持つ者はいなかった」、さらに「穏やかなことも格別で、男性的気魄(勇気)も誰にも引けをとらない」と高く評価された若者であった。
(I)対話は知識(科学)とは何かという問いで始まる。これに対してテアイテトスは、「何かについての」知識という形で答える。しかし、ソクラテスの問いは知識の種類ではなく、知識それ自体が何を指しているのかに関するものであった。その上で、テアイテトスは「知識とは感覚に他ならない」という最初の定義を提出する。ソクラテスは直ちに、それは「万物の尺度は人間である」とするプロタゴラスの説と同じだと返す。この説は、そこに現れているものはそれを感受する人間にとってそう現れているのであって、他との関係性なしにそれ自体に留まっているものはないとする。作用を及ぼす機能を持つもの(感覚される対象)と作用を受ける機能を持つもの(感覚する側)という二つの相がある。つまり、あらゆるもの・性質は、相互の混和、運動から生成しており、「ある」のではなく、「なる」のだと考えている。この考え方の同調者には、万物は恰も流れるもののごとく動いているとするヘラクレイトスの他、エンペドクレス、エピカルモス、ホメロスなどがおり、例外として、現実は一つで変化はあり得ず、存在は永遠であるとするパルメニデスがいるとソクラテスは指摘している。
知識とは感覚とした場合に残る問題としてソクラテスが挙げたのが、夢と病(特に、精神病)である。夢の中の出来事や錯覚によるものはどれもありはしないものに見えるが、これにどう反駁するのか。まず、健康なソクラテスと病体のソクラテスが同じが違うかをテアイテトスに質す。それは異なると結論し、異なるものは受け取る作用も異なってくる(例えば、酒の味も異なってくる)。つまり、やはりプロタゴラスの言うように、自分が自らの感受するものの判定者になるというところに落ち着く。ソクラテスが「お産を済ました」と言っている一つの考えがここに生まれたことになる。しかし、それが育てるに値するのかをあらゆる角度から調べなければならないと付け加えている。
そこから、この考えの検討に入る。もし各自の思いなしが真だとすれば、各自の思いがすべて正しいことになり、なぜプロタゴラスが智者として崇められ、そこに弟子入りなどしなければならないのか分からなくなる。産婆術にしても同様で、それぞれに現れているものが正しいのなら、それを検査、論破したりすることは途方もない空談になる。すべてが真であるということに対する疑問である。
ソクラテスは問う。例えば、理解できない外国語を聞いた時、その人はそこで聞いたことを知識しているか。理解できない文字を見た時、同様に見たことを知識しているのか。テアイテトスは、前者であれば音の高低、後者であれば色や形を知識していて、通訳などが教えてくれることは知識したことにならないと答える。やや疑問は残るが、ソクラテスは上出来とする。そして、何かを知識した後に目を閉じて思い出す場合を問題にする。それも知識していることに両者が同意する。そうすると、見ていなくても知識できることになり、感覚=知識説に齟齬が生まれる。さらに、感覚する時の諸条件や知識の性質などについて論戦好きの人たちにつけ込まれ、この説が窮地に立つだろうことにも二人は一致する。
もしすべての人が自分の真実を得ることができるのなら、プロタゴラスが他の人より賢いことはなく、彼の知は真理とは関係のない、他の人をより良い方向に導くことができる知である。そして、すべての人は間違った考えがあると信じている。プロタゴラスの考えが間違いだという人もおり、そういう考えもプロタゴラスは受け入れなければならなくなる。とすれば、すべては真であるとする「人間は万物の尺度」というプロタゴラス説は矛盾することになる。
(II)そこでテアイテトスは、思いなしには虚偽もあるとして、「知識とは思いなしの真なるものである」という第二の仮説を提出する。ここで思いなすとは言論を述べることで、思いなしとはその言論のことだという。興味深かったのは、この言論は他人に対するものではなく、沈黙の中で自己自身を相手として述べられるものだと言っている点であった。これは最新のエッセイで取り上げたことと重なるもので、ソクラテスの言葉によれば、わたしは思いなしを続けてきたことになる。ところで、牛を馬であると思いなしたり、美を醜であると思いなしたりすることはあるかとソクラテスは問うが、それはないとテアイテトスは答える。しかし、実際にはある人を遠くから見た時、見間違いをすることがあるし、以前に知らなかったことを後で知ることもある。
ソクラテスは、我々の心の中に素材のままの蠟があると仮定した議論を進める。恰も指輪をそこに刻印するようにして記憶すべきものなどを刻み付け、知識するという考え方である。17世紀のジョン・ロックが語っていた「タブラ・ラーサ」の原型がここにあることを知ることになった。こういう瞬間はいつも頭の中が爽やかになる。上述のように、この対話篇にはそのような瞬間がいくつかある。さて、このモデルで説明されているのは、蠟自体の性質(大きさ、厚さ、滑らかさ、汚れ、干からびなど)の問題がある。刻印されているものの不正確さである。自分が知りも感覚もしたことがない場合には虚偽を成すことはないだろうが、知ったり感覚したことがある場合には、感覚によるものと元から刻印されている陰影との間にズレが見られることがあり、思いなしは虚偽になり得る。蠟がしっかりしていれば、陰影は明確でこのようなことは避けられ、そのような人は智者・才人と呼ばれているという。それに対して、刻印が不明瞭の場合、見たり思ったりすることとすぐに対応させることができず、虚偽に囚われる無智・暗愚の徒と呼ばれることになる。
ここでソクラテスは、これまで知識とは何かについて知らずに議論していたことを指摘する。知識しているというのは知識を所持していることとされているが、ソクラテスはそれを所有と呼ぶ。それは着物を持っていること(所有)と身に着けていること(所持)の間の相違に対応している。さらに、知識を鳥に当て嵌め、いろいろな鳥が入る鳥籠のようなものが心にあると想定して議論を進める。人間が幼いうちはその籠は空であるが、次第に知識がその籠に入れられるようになる。その時、間違った鳥を捕獲することがあるように、虚偽の思いなしを捉まえることがあり得る。しかし、それを捉えた人はそれを真実の思いなしと考えているだろう。
(III)そこでテアイテトスは、以前に人から聞いたことを思い出す。それは第三の可能性で、知識とは真実の思いなしに言論(logos)を加えたものであるというもの。その人によると、logos が加わることにより、可知識的になるという。これに対してソクラテスも人から聞いた話を出す。それはわれわれや他の存在を構成する要素(elementa)のようなもので、それ自体としてあるものである。言論が名辞の組み合わせだとすれば、要素はそれだけがそこに属し、没言論的で、不可知なもので、単に知覚されるだけのものである。これに対して、これらの要素を組み合わせたもの(syllabase)は可知的で、思いなされたりする。言論(logos)がない場合、そのものについての受け答えができないので無知識の者になってしまう。
ここで、一見求める条件を満足するように見える第三の可能性を、ソクラテスはさらに詳しく検討する。特に、要素は不可知的で没言論的だが、その組み合わせは可知的で言論的であるという点に焦点を合わせる。まず、ソクラテスの名前を構成するS(シグマ)についてどのような説明ができるだろうか。そのものとした言いようがないので没言論的である。しかし、要素の組み合わせ(例えば、ソクラテスのSO)はどうなるだろうか。これがSとOが束ねられたsyllabaseのようなものなのか、もともとは要素から成っているが単一の形相を持つ新たな要素になるのだろうか。SOを知る者はSもOも知っていなければならず、要素の束が要素になるのであれば不可知的なものが組み合わされた場合でも不可知的なものに止まることになる。それから全部と全体、総数と総和などを用いた議論が続くが分かり難い。
ソクラテスは知識の条件として加えた言論(ロゴス)の在り様について検討する。一つは、自分自身の思考を音声で顕わにすることであるが、これは誰でもができることである。ただ、これだけでは不十分で、さらに対象の要素を通じて全体を極めることが求められる。言論の中に、言挙、枚挙の能力が必要になる。テアイテトスの綴りを一つ一つ書いていく場合、要素を辿って書いているので言論に適ってはいるが、それを知識と呼べないものがある。このあたりの議論も分かり難いが、第二の言論の中身にも問題があることになる。そこで第三の言論が提起される。それは問題にされていることが他のすべてのものから分かれている標識を挙げること、すなわち差別(differentia)することである。それができた時に知識することになるという考えである。しかし、そういう差別はすでに思いなしの中で行われており、それは差別性をさらに追加して把握せよということになる。つまり、知るということはすでに思いなされていること(知識?)を知るというトートロジーに陥ることになるとソクラテスは言う。これで「正しい思いなしにロゴスが加わったものが知識」という第三の仮説も問題を解決することにはならず、この問題は残されたままとなる。そしてソクラテスが「メレトスに訴えられたのでこれから役所に行く」と言ってこの対話篇は終わっている。
重要な問題が扱われていたが、肩透かしを食わされた格好である。この問題は現代の哲学にも引き継がれており、科学の分野にいる者だけではなく、この世に生きるすべての人にとっても考えなければならないものになるだろう。これからもプラトンを読んでいきたいと思わせる会となった。お忙しい時間を割いて本カフェに参加された皆様に感謝いたします。
● 昨日はお世話になりました。『テアイテトス』を整理して理解する機会、またいろいろお話する機会を作ってくださりありがとうございました。スライドの添付も恐れ入ります。今後の勉学の助けとなります。またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。
● 今回は欠席者が出たこと自体残念でしたが、少人数のため、大学院のゼミのような密な雰囲気で行なわれました。今回取り上げた古典は複数のテーマを内包しており、限られた時間のなか、一体どのテーマに焦点が当てられるのだろう、という思いで臨みました。ソクラテスとテアイテトスとの合意の上に一旦は捨て去られた最初の定義、「知識=感覚である」を、それでも私達は経験的に捨て去ることができない、むしろ感覚は知識に、より「真らしさ」を与えてくれるものである、という見方に大方一致した、というところまではとりあえず到達できたのではないでしょうか。
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