サイファイ・ブログ



dimanche 16 avril 2017

ベルクソン・カフェという名前だが、Café Bergson という場が世界には存在することが分かった。目に付いたところを挙げてみたい。


いずれも基本的にはカフェなので活動内容は異なっているが、親しみを増す。アウシュヴィッツを訪問した時にはカフェにまで目は行かなかった。



samedi 15 avril 2017

先日、エルサレムの大学の化学者から次のような問い合わせが届いた。あなたは研究所を始めたようですが、どんなことをしているのですか? ミッションを伝えると、すぐに返信が来た。子供の頃フランスにいたというその女性研究者も科学と社会との間を取り持ちたいと考えて活動をしているとのこと。日本で会を開くことがあれば、まだ行ったことがないので知らせてほしいと添えられていた。これを読んだ時、一つの考えが巡っていた。

サイファイ研ISHEの活動は国内向けのものとして、オープンではあるがどこかこじんまりした雰囲気の会を目指して進めてきた。しかし、こういう声を聞くと、開かれた視野を持っている必要があるのではないか。時に、国外にも開かれた会を開くというオプションもあるのではないか。そう考えるだけで、まさに世界が広がる感じがした。勿論、このような会の開催には財政的基盤が必要になるので実現は難しいと思われるが、それでもである。



vendredi 24 mars 2017

今年前期の予定をサイエンスポータルに掲載していただいた。また、新たに始めることにしたベルクソン・カフェとサイファイ・フォーラムFPSSを哲学カフェ・哲学対話ガイドに紹介していただいた。いろいろな方の目に触れ、参加にまで至る方が増えることを願いたいものである。



mardi 21 mars 2017

今年前期の予定が固まったので、HP、それぞれのサイト、ブログなどで公表、さらにこれまで参加された方々にメールでお知らせした。新しいものはスムーズに船出できるように、また継続中の会に関しては、始まる前には想像もできないようなところまで話が発展することを願いたい。



lundi 13 mars 2017

サイファイ研の今年前期の活動内容が固まりつつある。6月から7月初めにかけて、5つの催しがほぼ毎週、7日に亘って開かれる。昨年からさらに2つの催し(3日)が増えたことになる。冷静に考えると大変なことだが、その過程で何かが生まれるのではないかという期待感だけはある。どこまでできるのか、暫くの間は様子を見ることになるだろう。今回の2つの催しの会場がまだ決まっていない。今月中に何とかして、決まり次第全予定を発表したいものである。



mercredi 28 décembre 2016

数年前に放送された 「日本人は何を考えてきたのか」 シリーズの鶴見俊輔編を再び観る。そこで一つの発見をした。最初に観た時には気付かなかったのである。それは、彼が積極的能力と消極的能力として語っているところである。両者の違いを戦争を例にとって説明していた。積極的能力とは爆弾や新しい兵器を開発して実践に貢献する能力であり、消極的能力とは戦争を記憶し、振り返る能力である。後者は反省の学としての哲学や歴史に当たるだろう。一つのことに当たる時、この二つの能力が求められると言いたいようである。

これは科学にもそのまま当て嵌まるだろう。すなわち、積極的能力とは新たな発見をし、医学であれば病気の診断や治療に直接役立つことであり、消極的能力とは科学や医学の営みそのものについて省察する能力と捉えることができるのではないだろうか。しかし、後者の能力が弱いのではないかというのがわたしの認識になる。それはなぜなのか?一つは、わたしが言うところの「意識の第三層」の開発が十分ではないために、身近のこと、目に見えることにしか意識が向かわないからでからではないだろうか。これは自らを省みての推測になるが、徐々に確信に近いものになってきた。

この二つの能力は個人や分野を超え、社会や国に至るまであらゆるところで必要とされるものだろう。これが両輪として動かなければ、誤ったところに迷い込むことにもなるからである。しかし、そのいずれの領域においても消極的能力の衰弱あるいは欠如が顕著であると見えるのはわたしだけだろうか。「意識の第三層」の開発が求められる所以である。そのための条件が孤独と沈黙の自由な時間であり、そこで可能になる哲学的思索である。実は、サイファイ研のミッションの一つがその実践であることが見えてくる。



mardi 20 décembre 2016

昨日、来年から始める予定のベルクソン・カフェサイファイ・フォーラムFPSSのサイトのタイトル写真を新しくした。これまでどこか落ち着かない感じがしていたが、一面に広がる景色に変えたところ新鮮な風が吹き抜けるような気分になってきた。これから具体的な計画を考えて行く弾みにもなりそうである。



jeudi 1er décembre 2016

今年最後の月に入り、これからのプロジェについて考えてみた。新しいものとして、生命倫理について考え方をまとめるという作業をこれからの1年ほどでやることにした。それは将来に向けての一つの基礎を築くことになるはずである。それから、フランス文化の紹介、日仏文化の交流の促進という視点では、フランスの科学者を交えて科学を哲学するというイメージの会の開催を模索することを挙げた。これは独自にやるというよりは、同じ考えを持つ人たちとの共催という形で参加するのが現実的だろう。特に、いついつまでという期限を決めてやるのではなく、常に考えに入れておきたいという意味である。ということで、プロジェクト2016—2017が更新された。項目自体には目新しいところはないが、問題はその中身になるのだろう。そこからどれだけのものが新たに生まれるのかという点に注目して進めたい。



vendredi 25 novembre 2016

本日、今度の日本で浮かんだアイディアである科学者が科学を哲学する場としての「サイファイ・フォーラムFPSS(Forum of Philosophy of Science for Scientists)」の呼び掛けを関連サイトとツイッターで公表した。どのような反応があるだろうか。賛同者の数によって運営の形態も変わってくるだろう。暫くの間、推移を見守りたい。具体的に動き出すのは来年の春の頃ではないかと思う。



mercredi 23 novembre 2016

カフェのサイトにある参加者からのコメントを読んでいると、ここではカフェについて振り返りが行われているので哲学された跡が見られると言ってよいことに気付く。つまり、講師の発表が一つのテーマについての振り返り(哲学)の過程であるとすれば、それについてさらに参加者による哲学が展開されていることになる。一つのカフェが何重もの広がりと深まりを見せている。以前から漠然と感じていたものだが、今回その構造が明確な形になって目の前に現れた。現象は単純でもそれをどのように見るのかの視点の多様さによって、現象の見え方に複雑な陰影が加わってくる。それを味わう心が文化なのではないか。科学を文化にする上で重要になる一つの鍵が「科学の形而上学化」であると唱えているが、その中身の具体例がここにもあるように感じる。



mardi 22 novembre 2016

今年後期のSHE札幌、SHE、PAWLが盛会の内に終わった。今回、東京の会は試しに新しいところで開催した。場所は少し狭いという印象はあったが、以前に比べ30~40分ほど長く取れるところだったので、講師としても余裕をもって話すことができた。ディスカッションもゆったりできたのではないだろうか。皆様の反応もまちまちだった。当然のことながら、初めての方は比較しようがないので特に反応がなかった。何度か参加された方の多くはポジティブに見ていたようである。次回も同じ会場を使う可能性が高くなった。

毎回その場でテーマを選んでいるのだが、これだけ続いてくると相互の間に繋がりが見えてくる。これまでのテーマが混然一体となり一つの塊を作ってくるとでもいうような景色である。継続は力とはよく言ったものだが、それは不思議な力で、振り返ることが多くなるたびにその不思議度が増すという構造になっている。ひょっとすると、これは生きるという過程においても当てはまるものではないだろうか。前に進むだけではなく、振り返ることが齎すものについても考えてみたいものである。それはすなわち哲学するということでもある。それは時に前に進む力を与えてくれるものでもある。

今回参加された皆様に改めて感謝したい。



samedi 22 octobre 2016

これまで、会に参加された方を中心に2か月前、およびリマインダーとしてひと月前に案内を差し上げていた。しかし、第1回の札幌の会に参加された方の半数以上のアドレスが案内を出すべきファイルに移動されていないことが分かった。別の要件で前回参加された方とのやり取りをしている中でのこと。全く想像もしていなかったことなので驚いた。こういうことが徐々に多くなってきている。注意したいものである。



dimanche 16 octobre 2016

人間が自然をどのように見てきたのか。その見方によって、自然に対する態度が変わってくる。西欧においては、キリスト教の影響が強かったようである。最も人間中心主義的宗教とも言われるキリスト教だが、古代のアニミズムを駆逐した後、自然は人間に仕える以外には存在理由がないとまで考えるようになり、人間が自然の主人として思うように利用してもよいことになる。それがいまに至るまで西欧人の根底に残っていると言う人もいる。その考え方は科学とも深く結びつき、科学の発展に寄与した大きな要素と言えるだろう。一方、東洋には汎神論的、あるいは汎心論的な見方が古くからあるとされている。そこでは、西欧のように自然に対する存在として人間がいるのではなく、自然の中に人間も位置づけられている。そのため科学も生まれなかったというのが西欧の主張である。

特に20世紀後半から顕著になってきた問題に自然環境の破壊がある。その背景に宗教的な見方があるので、その対策も宗教的でなければならないと主張する人がいる。つまり、この危機に科学技術で対応するのではなく、新たな思想的な構築しなければならないということではないかと思う。上の見方に従えば、日本などでは自然破壊は起こらないはずだが、そうはなっていない。宗教的な考え方を超える経済中心主義とでもいうものが優勢になっているからだろうか。あるいは、そういう新たな宗教が世界を席巻しているのかもしれない。それに代わる力のある思想(宗教)を編み出すことができるのだろうか。



vendredi 7 octobre 2016

本日から折に触れて、サイファイ研究所ISHEに纏わる話題について綴っていきたい。

第10回になるサイファイ・カフェSHEでは、植物という存在を取り上げることにした。その背景には次のような個人的経験がある。退職の2年ほど前から、昼休みを職場周辺の散策に使うようになった。おそらく、歩きながらこれからを考える時間を欲していたのではないかと思う。その過程で、それまで目が行かなかった植物がそこに存在することに気付くことになった。

「彼ら」を1年間という単位で経時的に二度も観察ことになったため、そこに「彼ら」が確かに生きていることを確認できるようになった。つまり、それまで見えなかったものが見えてきたのである。春から夏にかけて緑が増え、その色も深みを増すことに、海外出張から帰ってきて驚いたことがある。紅葉の色の多様さ、そして、冬にはすべての葉を落とし、その裸の姿を現す。その美しさは芸術も及ばないほどで、わたしにとっては大きな発見となった。

それから、テーズにおいて生物を系統発生の視点から見ることがあったが、そこですべての生物が持つ驚くほど精巧なメカニズムに目を見張ることになった。科学の研究をしている時にはヒトやマウスを対象にしていたので、進化の過程でそれ以前に位置するものは「下等」生物とまでは言わないまでも視界に入っていなかったのである。このような人間中心主義的なものの見方は、多くのものを見落とす可能性があることに気付かされることにもなった。

このような経験から、生きとし生けるものに備わっている共通の性質――それは生物の本質と言ってもよいものだが――に興味が湧くようになってきたのである。今回はその第一歩という位置づけになるだろう。どのような景色が見えてくるのか、興味が湧いている。