ハイデッガーの形而上学

 

































2022.2.7(月)

『形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独』と訳されているハイデッガーの著作がある

全集になっているものは1.6万もするので、四分の一以下の英語版を注文、本日届いた

ざっとしか読んでいないが、よく入ってくる

相性の良い哲学者に入るのだろうか

そういうご宣託をいただいたこともあるが、そこに真なるものがあったのだろうか


これは1929年から1930年にかけての講義録らしい

冒頭こんな言葉が目についた

形而上学が教えられるような科学とされる幻想

形而上学が固定化された確かな哲学の領域であるという偏見

形而上学においてはすべてが不確かで、多数の立場や見方がある

形而上学はまだ成熟した科学の域に達していない

哲学を世界観の宣言などと見るのは、科学として見るのと同じように間違っている

哲学(形而上学)は世界観の宣言でも科学でもない

つまり、ネガティブにしか定義できないのが哲学である

ポジティブに定義できるということに関して、比較できるものは他にない

哲学は、それ自身で立っているもの、究極の何かである



2022.2.8(火)

今日もハイデッガーの続きを読んでみることにした

彼は、哲学の本質は他のものと比べることができるかという問いを出す

比べることができるとすれば、例えば芸術や宗教ではないというネガティブな比較になるだろう

それでは科学との比較はどうか

それは哲学の価値を不当に卑しめるものになる

哲学の本質はこれらの比較による回り道からは掴むことができないだろう

ただ、哲学の道行で芸術や宗教と出遭い、同じレベルで処理されることはあるかもしれないが、、

このような比較により哲学(形而上学)を把握することはできないのである

それではどんな道があるのか


もし哲学(形而上学)が存在しているとすれば、それは昨日出来上がったわけではなく、歴史を持っている

そこで問題が3つある

一つは、形而上学という言葉の由来とそもそもの意味である

二つは、その単純な意味から形而上学と定義されるものが何であるのかに至ることができるということ

そして最後は、その定義により、我々はものそれ自体に突き進むことができることである

我々は形而上学についての意見を知ることはできるが、形而上学そのものは知らない

歴史を知ることにより、我々が求めるものを理解できるという幻想がある



2022.2.9(水)

形而上学が何かを理解するためには、比較では駄目であることをこれまで見てきた

形而上学そのものから目を逸らさず、正面から見なければならないのである

しかし、哲学そのものがどういうものであるのかを我々は知らない

それは我々が哲学をする時に存在する

哲学とは、哲学することなのである

あまり参考にならない答えだが、繰り返すうちに方向性が見えてくる

哲学することとしての形而上学、人間の活動としての形而上学

我々は我々が何者であるのかを知っているのか

人間とは何かを

哲学とはどうでもよいこと、単に知識を集めることなどではなく、全体に関することである


ノヴァーリス(1772-1801)は、哲学とはホームシックである、どこにいても家にいるように促すものであると言った

詩人の不思議な定義である

現代の都会では、ホームシックなどという言葉は根絶されて久しいのではないか

それが哲学の定義だという

どこにいても家にいるとは、単にどんな場所にいても、ということではなく、全体の中に常にいることを意味している

その全体とは世界である

我々は常に何かを待っている

全体としての何かに我々は求められているのである

これが我々がホームシックに駆り立てられる場所である

我々はすでに旅立ち、そこに向かっている

と同時に、我々は逆方向に引き裂かれてもいる

この状態が不安をもたらす

それは有限性であり、単に我々にくっ付いている性質などではなく、我々の存在の根源的な在り方である

我々が我々であるところのものになろうとするならば、この点を胡麻化してはいけない

内面から有限な存在になるということは、人間が個別化されることであり、それは孤独のことである

そこで人間は本質的なものの近くに身を置くことになる

世界、有限性、個別化という問題にホームシックとしての形而上学が導くのである

決定的に重要なことは、この問いを知ることではなく、実際にこの問いを最後まで問い続ける力を持つことである

そのためには、概念による理解力を持つことが求められ、それが道を開くのである

形而上学の概念は、単純に学ぶことができる科学的なものからは永遠に閉ざされたままである

そして何よりも、これらの概念は我々自身が実際に虜にならなければ理解できない

概念的理解や哲学することは、何かの脇でやるどうでもいいことではなく、人間(Dasein)の基礎にあるものである

形而上学をそれ自体として見るということは、結局は形而上学が人間の本質の闇の中に引きさがることであった

形而上学とは何かと問うことは、人間とは何かを問うことだったのである

勿論、その答えを持っているわけではない

その神秘的な存在の本質の中で、哲学は起こるのである



2022.2.10(木)

我々は準備の評価段階にある

これは仕事を我々に近づけ、全体の方向性を明確にすることを意味している

形而上学が何かを問う時に、それを科学や世界観の宣言であるとしたり、芸術や宗教と比べたり、歴史的な方向性から決めようとすると回り道になる

かと言って、形而上学を直接把握することはできないし、問われているものと共にいることは特に難しい

そのため、便宜的にノヴァーリスの言葉に戻ったのである

そして、ホームシックになるということは、あらゆるところを住まいとして、全体としての人々(これは世界としてよい)の中にいることであった

そこで問題になるのは人間の有限性である

そして、有限になるときに起こるのは、人間の究極の孤独である

ノヴァーリスがホームシックと名づけたものは、結局は哲学することとの基本的な調和である

形而上学は、限られた分野について思考の技術を用いて得られる知の領域ではない

形而上学は人間の中の根源的な出来事である

形而上学の概念は、これは家、これは灯篭というような類のものではない

科学的な種類のものではないのである

形而上学とは全体としての存在に踏み込み、そうすることにより、我々が問いの中に組み込まれる問い掛けである

全体の概念は、存在を哲学することを理解しなければ得られない

形而上学的思考は包括的な思考である

全体を対象として、存在を徹底的に把握することである


----------------------------------------------------------

今回は第1章のまとめのようなところだった




2022.2.11(金)

これまで読んできたのは、「予備的評価」と題されたイントロのようなところの第1章だった

今日からその第2章「哲学(形而上学)の本質の曖昧さ」に当たることにしたい

因みに、第1章のタイトルは「哲学(形而上学)の本質の決定に向けての回り道、そして形而上学を直視することの不可避性」であった


----------------------------------------------------------


「形而上学の根本諸概念」という講義のタイトルの理解の仕方が変化してきた

もし、人間存在の冒険に対する熱意や、謎に包まれたダーザインやものの性質に対する興味や、思考の学派や学術的意見からの自立を呼び覚まさなければ、いくら知識を蓄えても大学生活は内的に欠落したものになる

それ以降の歩みも曲がりくねったものになり、最後は独りよがりの満足に終わるだろう

ここで求められるのは、単に知識を集めて記憶するだけではない異なった種類の注意深さである

哲学は科学と全く違うものだが科学の外形が残っていると、哲学は隠れてしまう

さらに、哲学とは全く違うものとして顔を出す

しかし、それは形而上学の本質の良い面である

それが曖昧さである

この曖昧さの兆候を示すまでは、我々の哲学に対する予備的評価は完了しない

形而上学の本質的曖昧さについて、次の3点から論じる予定である

1)一般的に哲学することに存在する曖昧さ

2)聴講者と講師の振る舞いにおいて、我々がいま・ここで哲学することの曖昧さ

3)哲学的真理の曖昧さ

これらを議論するのは、我々に求められている基本的な方向性を明らかにするためである



2022.2.12(土)

これまでに指摘したように、哲学は科学に基づき、世界観を宣言するものに似ているようだが、それとは別物である

科学でも世界観の宣言でもないという曖昧な両面の中に哲学がある

市場では人を欺くような(哲学のように見えるがそうではない)形で哲学が出回っている

哲学とは、そこで骨を折った者だけによって認識されるものである


哲学が教えられ、試験され、博士号を取るための対象になるのは、哲学の曖昧さをさらに増すことになる

他の教科と同じように扱われる時、そこでは何も起こらない

講義は欺瞞にさえなり得る

哲学教師でさえ、山のような用語を用いて科学的な構築をして聴講生をぎょっとさせることがある

もし彼が哲学をしているのであれば、なぜ孤独を捨て市場を走り回るのか

それこそ、この曖昧さの危険な始まりなのである


我々は大衆を説得するのか

我々が持っていない権威を基に

我々が哲学しているのかいないのかは、明らかになるだろう

あらゆる哲学の講義は、それが哲学しているかいないかに関わらず、科学には分からない曖昧な始まりなのである

証明できるもの、証明しなければならないものは、根本的に殆ど価値がない

しかし、哲学することが何か本質的なものに関わるとすれば、本質的なものは証明できないしすべきではないのか

あるいは、証明できるかできないかで哲学することを議論するのは許されないのか

哲学における真理は科学における証拠とは全く違うのか

ここで我々は哲学の深いところにある曖昧さに触れることになる



2022.2.13(日)

哲学は一人の人間の特権などではなく、誰にでも関わるものである

であるとすれば、誰にでも関わるものは誰にでも理解されるものでなければならない

その意味は、何の努力もなしに、そのままで直ちに明らかなものである


哲学は究極の何かである

それは誰でもが持たなければならず、持つことができる何かである

最高のものは最も確かなものである

誰でもが最も高度で、最も厳密で、最も確実な知を知っている

哲学的なカリスマを否定することが難しいプラトンのアカデミアの入口には、幾何学、数学の知識のない者は入るべからずとあった

近代哲学の道筋をつけたデカルトは、数学的真理の特徴を持った哲学的真理を導き出す以外に何も求めなかったのではなかったか

ライプニッツは「数学者なしに我々は形而上学の基本に到達できない」と言ったとされる

これが哲学における絶対的真理と言われるものである

しかしこの試みは決して成功して来なかった

アリストテレス、デカルト、ライプニッツ、ヘーゲルなどの思想家は、博士候補の論駁に我慢してきた

これらの歴史はあまりにも大きな打撃なので、最早認識されないようになっている


ところで、数学的知識を知識の基準、あるいは哲学的真理の理想とすることは何を意味しているのか

それは、最も中身のない、人間的要素を要求しない知識を、全体を扱う最も豊かな知である哲学の基準にするということである

例えば17歳の少年が重大な数学的発見をするということが、数学知が人間的な中身を要求していないことを示している

このようなことは哲学では起こらない

つまり、人間的要素を要求しない最も中身のない数学知をその逆の性質を持つ哲学の基準にすることがあり得ないことだったのである



2022.2.14(月)

哲学知が数学的なものではなく、絶対的な確実さも持たないと提案する時、別のより鋭い反論に見舞われないだろうか

哲学が科学でも絶対的に確実な知でないと断固として言う時、絶対的なものはないと絶対的な口調で言うという自己矛盾に陥るのではないか

この議論は歴史の中で何度も現れたもので、確実なものはないという確実性はあると言うところに落ち着く

使い古されていて有効でもない

ここでは二つのことを考えたい

1)この議論はいつでも持ち出されるので、本質的には何も言っていない

  中身が空っぽで、人間を拘束もしないので、哲学とは関係のない議論である

2)哲学が科学ではなく絶対的な確実性も持たないという我々の提示を粉砕したいこの議論は、適当ではない

  我々はそう主張しているのではなく、この問題を曖昧なままにしてしておきたいのである

  哲学が科学であることが明らかになるかもしれないからそうするのではなく、この議論において我々が哲学しているかどうか分からないからである


我々は哲学することに関して確信が持てないのである

この事実は偶然そうなっているのではなく、哲学が人間の活動であるとすれば、哲学そのものに属しているのである

哲学的真理は本質的に Dasein の真理である

哲学することの真理は部分的に Dasein の運命に根ざしている

Dasein の存在に属するすべては、哲学の真理に属している

もしそうであれば、絶対的な確実性をもって哲学の真理を知ることはできない


哲学は慰めや確信の対極のあるものである

それは混乱であり、そこに入ることによってのみ Dasein を錯覚なしに理解できる

常に最高の不確実性の隣に居合わせるのである

このことを理解しない人は、哲学することの意味を暗示されることもなかった

このことを理解していなければ、いくら哲学論文を書いても哲学している対立は起こらない

哲学に忙しく哲学していない人の間では、哲学している対話には至らないのである


デカルトは哲学を絶対知にしようとした

彼は哲学することを疑うことから始めた

しかし、Dasein(わたし)が問われることはなかった 

この傾向は現代哲学にまで及んでいる

それは科学的には重要であっても哲学的に重要な姿勢ではない

デカルト的やり方では、証明されることをあらかじめ知っているものについて扱われる

そのためには人間的拘束がない危険も及ばないやり方が採られる

我々がこのような姿勢を採る限り、哲学の外に置かれることになる



2022.2.15(火)

これまでの解析から、哲学することに潜むいくつもの曖昧さを見てきた

哲学することに希望がないという印象を少しでも薄めようとして、最後は好転するだの、哲学は人類史の中で多くのことを成し遂げてきただの指摘するのは誤解になるだろう

それは哲学から遠ざかることに過ぎない

我々は寧ろその中で持ちこたえなければならない

なぜなら、その中に哲学的理解についての本質的な何かが顔を出すからである

すなわち、全体としての人間が攻撃を受けているということである

攻撃しているのは人間ではなく、日常や知識の至福という疑わしい主題である

寧ろ、哲学することの中で、人間のDa-seinが人間に攻撃を仕掛けるのである

その本質の根底にいる人間が、彼自身であるところのものによって攻撃される誰かである

この状況は、問い掛けや存在の乗り越えがたい曖昧さに対する戦いなのである


哲学の中に、使い古された絶望的な活動や何か陰鬱で悲観的でネガティブな方向に向かうもの見るのはひねくれた見方で、間違っているだろう

この評価が哲学することから引き出されたものではないからで、昔からあるものだ

それは、正常なものが本質的であり、平均的なものが普遍的に有効であり真理であるという社会的な空気から生まれる


我々は哲学することそのものを把握しようとして、二つのやり方を採った

一つは、ノヴァーリスの「哲学とはホームシックで、どこにいてもくつろぎたいという衝動である」という言葉から考えた

もう一つは、哲学することに特有の曖昧さについて解析した

そこから、哲学とは自分自身で立つ何か自律的なものであると結論できるだろう

それは科学ではないが、哲学がある時にだけ科学は存在する

科学の基礎を築くことだけが哲学の主要な仕事ではない

寧ろ、哲学は科学がない時にも人間の生活のすべて(Dasein)に浸透する

哲学することは、Da-sein の根源的な在り方なのである


哲学するとは、自然や文化について後から省察することでも、可能性や法則を考えることでもない

これらは哲学から職業やビジネスを作る見方である

これに対して哲学は、全ての職業の前に存在する何かであり、Dasein の根源的な出来事なのである


古代の哲学者はこのことを知っていた

ヘラクレイトスは「哲学とは他のすべてから切り離された何かである」と言った

「切り離されたもの」をラテン語で言えば absolutum で、それ自身の場所にいる何か、より正確に言えば、それ自身のための独自の場所を最初に作る何かである

プラトンは『国家』の中で、哲学する人間としない人間の違いは、目覚めているか寝ているかであると言っている

哲学しない人間は科学者として確かに存在するが、彼らは眠っているのである

哲学する人間は、他のすべてから離れて自分自身で立っている

ヘーゲルは、哲学とは逆転した世界であると言った

その意味は、普通の人間にとって正常であるものと比較すると、哲学は上下が逆で、Dasein に特有の方向性を持っているということである


哲学は原初的な何かであるが、それ故に隔離された何かではない

問題は、もっと素朴に、もっと生き生きと、そしてもっと持続的にすべてのことを見るために、哲学することの中に元々ある側面を取り戻すことである



----------------------------------------------------------


なかなか印象的な言葉が続いていた

これで第2章「哲学(形而上学)の本質の曖昧さ」が終わったことになる








2022.2.16(水)

今日からイントロの第3章に入りたい

タイトルは「形而上学としての世界、有限性、個別化に関する包括的な問い掛けの特徴を正当化する.『形而上学』という言葉の起源と歴史」となっている

それでは早速始めたい


-----------------------------------------------------------


哲学や形而上学の概念は、常に全体が問われる包括的なものである

その問いの中には、概念を理解する人も含まれている

哲学と形而上学を同等に扱ってきたが、哲学の中には形而上学の他に、論理学、倫理学、美学、自然哲学、歴史哲学が含まれる

形而上学は包括的な問い掛けである

それは、世界、有限性、個別化とは何かという包括的なものである

なぜ改めて「形而上学」と言わなければならないのか

それを知るには、その起源と歴史に還らなければならない


「形而上学」という言葉は、何か重要なことから生まれたものではない

古代ギリシアの『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά)に戻る

これは、自然に関する書の後にある書という意味である

その中のピュシカという言葉にはピュシス(ラテン語の natura、自然)があり、誕生とか成長の意味がある

ピュシスという言葉は、現代科学の対象になる自然という具合に狭く捉えるべきではないが、科学以前の意味でもゲーテが言う意味でもない

人間が誕生してから死に至るまでに経験する出来事のことで、人間の運命と歴史が含まれている

もう一度言うが、ピュシスは存在するもの、全体としての存在を指すけれでも現代的意味ではない

神的存在をも含む元々の意味が意図されている



2022.2.18(金)

隠されていないもの(アレテイア)について語ることとしてのロゴス
隠蔽から引き離されなければならない何かとしての真理(アレテイア)


ヘラクレイトスはこう言っている
「人間がその力の内に持つ最高のものは(全体について)瞑想することであり、智慧(明晰さ)は隠されていないことを隠されていないものとして語り行うことである」
隠されているものと隠されていないもの(アレテイア)と隠されていないものを語るロゴスの関係

哲学とは、存在の広がり、ピュシスをロゴスにおいて語るために、ピュシスについて瞑想することである

ピュシスとロゴスの関係を心に留めなければならない

なぜアリストテレスが最も古いギリシアの哲学者を physiologoi と呼んだのかを理解するために

それは現代の生物学の一分野である生理学者 physiologist でもなければ、自然哲学者でもない

むしろ、全体としての「もの・こと」について問う、ピュシスについてはっきりものを言う人のことである

そこで言われることは真でなければならないが、真理とは何を言うのか

古代ギリシア人はピュシスの真理をどのように理解していたのか

そのためには、アレテイアの意味を理解しなければならない

その頭には否定を意味する「ア」が付いていて、「隠されていない」という意味である

何かが欠けているのである

真理において、隠されることから引き離されている

ギリシア人は真理を「盗まれた何か」と見ていたことになる

それは、ピュシスが自らを隠そうとすることに対抗して隠蔽から引き離さなければならない何かである

机に向かって主張を証明するようなこととは何の関係もないのである


ピュシスはロゴスとアレテイア、ソフィアのために明らかにされるという意味における真理に割り当てられている

真理はただそこにあるのではなく、盗まれた何かである

明らかにするためには、全体としての人間のアンガジュマンが求められる

ある意味で、真理は人間のダーザインの運命に根ざしている

ヘラクレイトスは言った
「明らかになってそこにある調和よりも高く、より力を持つのは、自らを明らかにしない隠された調和である」

これは、ピュシスが隠しているものが明らかになってそこにあるものではないことを教えている 

これはまた、ロゴスがそれを明らかにする任務を持ってくることを意味している


古代における真理の意味を明らかにすることは、単に語源を探ったり、より適切や訳を見つけるためではない

そうではなく、古代人のピュシスと真理に対する立場を明確にすることである

真理に充てられた言葉は、そのネガティブな側面のために重要な言葉になっている

それは、古代人の真理が中立的なものではなく、人間の有限性の運命であることを示している

この真理の意味は哲学と同じくらい古く、ピュシスとともにあるのである



2022.2.19(土)

ロゴスの2つの意味


真理の最初の意味――広がっている存在=ピュシスが明らかにされること――を忘れないようにしよう

ここでピュシスの意味をさらに明快に把握することにしよう

この言葉の基本的な意味の歴史を探索し、『メタ・タ・ピュシカ』というタイトルにある「ピュシカ」が意味するところを理解することにしたい

α)第1の意味

ピュシスの基本的な意味は、最初から表れているわけではないが、それ自体で相反する

広がっているものとしてのピュシスは、それ自身が広がっているものだけではなく、広がっているものが何であれ広がっていることを意味している

蒼穹、星、大洋、地球は、常に人間を脅かすと同時に守っている

この人間を脅すと同時に維持する中で、人間の助けを借りずに自発的に広がっているものである

ここではピュシス(自然)が狭い意味で理解されているが、現代の自然科学における自然の概念よりもさらに広いものである

ピュシスは、自発的に常に形作り消えていくもので、人間が造るものとは異なっている

ヘラクレイトスは我々にこう語っている
「このコスモスはすべてを通して常に同じで、神も人間もそれを創造したのではない。そうではなく、このピュシスは常に在ったし、現在も常に在り、これからも消えることのない炎であるだろう。尺度に合わせて燃え上がり消えたりしながら」


α)第2の意味

ピュシスは存在の1つの領域の意味ではなく、存在するものの性質(nature)を意味している

ここに来て、自然には最奥の本質の意味が出てくる

自然のものの性質ではなく、ありとあらゆる存在の性質を意味するのである

我々は、魂や芸術作品や事物の性質(nature)という言い方をする

ピュシスには所謂自然ではなく、本質、すなわちものの内的法則という意味がある

決定的なことは、2つの概念の一方が他方を抑制するというのではなく、両方が共存していることである

ここで古代哲学が2つの基本的な意味を明確にするに至った歴史的解析をすることはできない

ただ、ピュシスの2つの概念が発展するためには数世紀が必要であったことは言っておきたい

それは哲学する情熱を持った人の場合であった

我々のような野蛮人は、このようなことは一夜にして起きたと考えるのである


2022.2.20(日)

アリストテレスにおけるピュシスの2つの意味

「全体としての存在」に関する問いと「存在の本質」に関する問い



哲学する中から個別の哲学=後に科学と言うようになるものが育つ

科学とは哲学するやり方であるが、その逆ではない

哲学は科学ではないのである

ギリシアの科学に当たる言葉はエピステメで、それは「もの・こと」の前に立つこと、そのことの中で自分に位置が分かること、それをコントロールしていること、その内容を見通すことである

アリストテレスにおいてのみ、この言葉が広い意味での「科学」の決定的な意味を持っている

すなわち、諸科学における理論的探索という意味である

古代ギリシアにおける「ピュシカ」は現代のフィジックス(物理学)の狭い意味はなく、生物学における諸科学も含んでいた

それは異なる領域の事実を単に集めるのではなく、その領域全体の内的な法則性について省察することであった

生命とは何か、魂とは、出現するものと消滅するものとは、運動、時間とは何かについて問うことであった

そこにはまだ科学としての構造が出来上がっていなかった

全体としての存在に関する問い、究極の問いは神に関するものであった


ピュシスの第2の意味である本質に関するものはどうであろうか

古代ギリシアでは、存在は「オン」と呼ばれ、存在を存在たらしめるのが存在の本質である

アリストテレスは、全体としての存在について問うことと存在の本質を問うことを「第一哲学」とした

それはピュシスについて問うことであった

ただ、アリストテレスはこの2つの方向性がどのように融合されるのかについては何も語っていないし、今日まで誰も問い掛けていない


纏めると、ピュシスには、存在しているもので物理学が解析できるものと、存在の本質という2つの意味があり、この2つを融合して第一哲学(prima philosophia)としたのがアリストテレスだった

存在の根本的な特徴は運動であり、それは最初に運動を起こしたものが問題になる

それは、特定の宗教には関係なく、神的な存在になる

これがアリストテレスの哲学が立っているところである



------------------------------------------------------------


今日のお話は非常に示唆的であった

第一哲学がピュシスの2つの意味についての問いを1つにしたものだという認識はなかった

1つは科学で分析できるもので、もう1つは科学で分析できない本質に関するもの

これまで、この中の後者が第一哲学だと思っていたのである

この視点から見ると、わたしはアリストテレスの言う本来の第一哲学をやりたいと思ったということになる

つまり、科学者時代には前者をやり、フランスに渡ってからは後者について問い掛けていたからである

前者だけで何か重要なものが欠けていると思ったのであった



2022.2.21(月)

論理学、自然学、倫理学のスコラ的学科の形成と哲学するそのことの衰退


アリストテレスが哲学そのものに関して成し遂げたことは、それぞれの講義や論文集の中で我々に伝えられてきた

その中に、我々は哲学することについての新しいアプローチや試みを発見する

しかし、プラトンの対話篇にプラトン哲学のシステムがないように、後に考え出されたようなアリストテレスのシステムもない


アリストテレスは紀元前322-321に亡くなった

古代哲学はアリストテレスで頂点に達し、それ以降は下り坂を辿った

プラトンやアリストテレスについては、学派の形成が避けられなくなった

そこで何が起こったかというと、生き生きとした問い掛けがなくなったのである

それまで哲学的に把握されたことが、すでに明らかにされていること、有益な何か、応用可能な何か、誰でも学ぶことができるものとして扱われるようになってからは尚更である

元々のプラトン、アリストテレスの哲学に属していた全てが根こそぎにされ、最早根差した何かとしては理解されなくなる

全ての哲学が辿る運命ではあるが、それが学校の哲学になるのである

問題となるのは、最早その核心においても活力においても理解されることのない豊かな材料を整理する時の視点である


このスコラ的な整理をする際の視点は、すでに明らかになった主題の結果である

一方で、哲学がピュシスと関連することで、それは人間によって作られたものとは区別した

そこからピュシスの対立概念を得る

1つは、人間の行動や活動に関わる全てで、狭い意味のピュシス(自然)とは異なっている

これはギリシア語では「エトス」で、エシックス(倫理学)の語源にもなっている

ピュシスとエトスが哲学で扱われる時には、ロゴスの中で明確に話され議論される

「もの・こと」について語る「ロゴス」は、まず教えることに関係するすべてに入り込む


古代の哲学することがスコラ的な学科になると、自分自身の問題から生き生きと哲学することではなく、科学のような知識の習得になる

それはアリストテレスが言うエピステメ、すなわち一つの科学になるのである

このようにスコラ的に構成された哲学は、論理学、自然学(physics)、倫理学という三つの学科を生み出すことになった

この傾向は、実はプラトンがアカデメイアを作った時から始まっていた

哲学がこのように分離されるのはアリストテレスのリュケイオンにも引き継がれ、さらにストア派へと繋がった


我々は、この事実を単にメモするだけでは不十分である

決定的なことは、最初からこのスコラ的な構造が哲学の概念――学校で教え学ぶものとしての哲学――を形作っていることである

そのため、新しく現れた哲学的問題は必然的に、これらのどれかに割り当てられ、それぞれの方法論で扱われることになるのである


2022.2.22(火)

メタフィジックスにある「メタ」の技術的な意味から、中身に関して考えられている意味への切り替え

a)後(post)という「メタ」の技術的な意味 


紀元前300年から紀元前1世紀という古代哲学の凋落の世紀の間、アリストテレスの著作は殆ど忘れ去られていた

まず彼自身、殆ど出版していなかった

残されたものは、原稿、講義の草稿、講義の筆記録などであった

これらの材料をどうするのか、アリストテレス哲学を学校でも使えるようにしたいと考える人たちがいた

そこで彼らが直面したのは、アリストテレスが書き残した全体を搔き集めて整理することであった

そこでごく自然だったのは、当時あった3つの見方、すなわち論理学、自然学、倫理学に則って分類することであった

しかし、彼の著作の中にはこれらに当て嵌まらない存在一般、存在が在るところのものに関する「哲学することそのこと」が含まれていた

整理する人はこれらをどこに入れるのか分からなからず戸惑いが生まれたが、それを除くことは最も避けたいことであった

そこで生まれる問題は、学校は3つの学科をどうするのかを決める立場にないので、どうするのかということであった

この状況について明確にしなければならないことがある

それは、哲学において本質的なことは、収めることができないということである

学校の哲学は、哲学することに直面して困惑したのである


この困惑から抜け出す方法が唯一つ残されている

「哲学することそのこと」が学校では当たり前になっていることと関連がないのかどうかを検討することである

そうすると、両者は確かに関連している

アリストテレスが「第一哲学」で扱った問題と学校の哲学が「自然学」の中で論じたことの間に関連性がある

勿論「第一哲学」での議論は、より広くより根源的ではあるのだが、、

従って、「第一哲学」を物理学の中に分類することはできないが、唯一可能なのは自然学と「並行して」、「背後に」、「後に」置くことである

「背後に」、「後に」のギリシア語が「メタ」で、哲学することそのことが自然学の後ろに置かれて「メタ・タ・ピュシカ」となり、そのタイトルが『タ・メタ・タ・ピュシカ』となったのである

ここで重要なことは、この名称はその内容や問題点によるものではないということである

我々がメタフィジックス(形而上学)と呼ぶものは困惑のタイトルであり、何をしてよいのか困ったところから生まれた純粋に技術的な表現だったのである



2022.2.23(水)

b)内容に関する「メタ」の意味:「を超えて」(trans
超感覚の科学.スコラ学としての形而上学


このように、長い間『タ・メタ・タ・ピュシカ』は技術的なタイトルであった

それが、いつ、誰によって、どのように行われたのかは分からないが、ラテン語の「メタフィジカ」という一つの言葉に圧縮されることになった

すでに見たように、ギリシア語の「メタ」には「後ろ」という意味があるが、「何かから離れて別のものに向かう」という意味もある

「メタフィジカ」という言葉になることによって、「メタ」は意味を変えた

自然学の後に来るという意味ではなく、「ピュシカ」から離れ、別のもの――存在一般、あるいは適切に存在するもの――に向かうものは何でも扱う学となったのである

1つの領域としての自然から哲学そのものが離れたことは、個別の存在を超えて他の存在に向かうことである


形而上学は感覚を超えた知識、超感覚の科学と知識となった

ギリシア語の「メタ」はラテン語では後ろを意味する post だが、trans (超えて)という第2の意味もあることからも理解できるだろう

技術的な意味から内容に関する意味に変わったのである

これをスコラ哲学に分類したことが、哲学そのものを形而上学とするという解釈の原因になった

このような変化は決してどうでもいいことでも害がなかったとも言えないことに十分な注意が払われていない

西洋における哲学そのものの運命がこのことにより決定されたのである

哲学そのものが前もって第2の意味におけるメタフィジックスとされることは、特定の方向性や特定のアプローチに強制される

そこから同様の言葉の使われ方が生まれた

例えば、「メタ論理」、ユークリッド幾何学を超えた「メタ幾何学」、哲学体系に基づく政治を実践する「メタ政治家」、アスピリンの効果を超える「メタ・アスピリン」などという話まで出ている・・・・・<現代では、「メタ」と名乗る企業まで現れている>

技術的意味から内容による意味への変化、そしてそれがどのようにして他のスコラ学と同列に分類されたのかを記憶しておくことは重要である

それについて多くのことを言うことができるが、形而上学の生きた問題からそれを理解するのでなければ不毛である



2022.2.24(木)

形而上学の伝統的な概念に内在する不一致


形而上学をスコラ学の教科として排除したことを考えれば、何の正当性をもって「形而上学」という名前を保持しているのか、それは同時にそこにどのような意味を与えているのかという問題に我々は関わり合っている

この言葉の歴史を通してその答えを探した

その歴史は何を我々に語ったのか

それは2つあった

最初の技術的な意味とその後の内容に関する意味である

最初の意味はさて置き、我々が哲学とは形而上学的問い掛けであるという時の2番目の意味で形而上学を考える

超感覚の知識に関する内容として形而上学は捉えられた

形而上学を単に「第一哲学」(πρώτη φιλοσοφία)のタイトルとしてではなく、哲学そのものを表す言葉として理解している

ここで問題になるのは、「第一哲学」の真の理解から形而上学が解釈されたのか、形而上学(メタ)の内容から生まれた解釈に基づいて「第一哲学」が構想されたのかである

実際には後者で、形而上学は超感覚に関する知識とする第2の意味において捉えられた

これは我々の仮定とは異なっているかもしれない

我々が求めたのは、「第一哲学」の元々の理解から生まれた意味を手に入れてから名前を与えることである

つまり、内容から考えられた形而上学との関係で「第一哲学」を解釈するのではなく、アリストテレスの「第一哲学」で問題にされたことを解釈することにより、「形而上学」という表現を正当化することである

このような問いを出すということは、超感覚の知識としての形而上学は「第一哲学」の元々の理解から生まれたものではないという考えがベースにあることを意味している

そのための2つの根拠を示さなければならない

1つは、「第一哲学」の元々の理解がどのようにアリストテレスの中で得られるのか

2つは、形而上学の伝統的な概念がこの点で欠けていることである


最初の点を示すためには、我々自身が哲学それ自体のより根源的な問題点を展開していることが必要である

その後に初めて、「第一哲学」の、すなわち古代哲学の隠され、未だ発掘されていない基盤を照らし出す松明を持ち、そこで基本的に何が起こっているのかを決めることができるかもしれない

ここで、形而上学という伝統的な概念に内在する不一致について指摘しておきたい

形而上学の伝統的概念について、3つのことを主張する

1)形而上学は矮小化されている

2)形而上学は内在的に混乱している

3)形而上学は明示されるべきことの現実的な問題には関わらない


▣ これら3つの点については次回以降に論じる


2022.2.25(金)

a)形而上学の伝統的概念の矮小化:より高いものであるが手元にある存在としての形而上学的なもの(神、不滅の魂)


形而上学の伝統的な概念は矮小化されている

今日、「形而上学」とか「形而上学的」という言葉が使われる時はいつも、何か深く、神秘的で、直接は近づけない、日常的なものの背後にあり、究極の領域にあるものという印象を伝えるためである

普通の経験を超えたものという時は、超感覚的なものを指している

神智学やオカルトなどはそれと関係している

形而上学の復活などと言われるのはこのようなもので、キリスト教のドグマと関連している

それは古代哲学に由来し、順序の問題ではなく、内容の解釈に関連する形而上学である

キリスト教が関心を持つこの世界を超えるものは、神と不死である

それが形而上学そのものになるのである

近代哲学の始めから、デカルトが『省察』の中で言ったように、神の存在と魂の永遠の証拠を見つけることが第一哲学の目的だったのである

アリストテレスにおいては、第一哲学を存在そのものに関する問いと存在の本質に関する問いの2つに分けた

それは全体としての存在に関する問いであり、究極、最高のものに関する問いに戻っていった

アリストテレスはこれを「テオス」に関する「ロゴス」=神学(テオロギー)とした

このテオスは創造主や人格を持つものではなく、神的なものである

このように、アリストテレスにおいては形而上学と神学は結び付いていた

日常的な意味における形而上学的なもの、超感覚的なものは神学的知とされるものになったのである

それは信仰の神学ではなく、理性の神学であった

形而上学が科学などの他の存在に関する知と同じレベルに入ってきた

「メタ」は特別な思考の方向性を指すものではなく、単に他のものの後、上にあることを意味するようになった

形而上学が独自に立つという基本的な方向性が消え、日常的な知の中に矮小化されることになった

one of them になったのである

しかし、これは「メタ」の完全な誤解である

形而上学的なものをある存在として理解する時、形而上学という概念の矮小化と浅薄さに出会うことになる



2022.2.26(土)

b)形而上学の伝統的な概念の混乱した状態:超感覚の存在に関係する超えて在る「メタ」と存在の本質に特徴的な非感覚の「メタ」が結び付いている


形而上学の伝統的概念は内在的に混乱している

アリストテレスにおいては、超感覚の知である神学の横にもう一つの問いの方向性があった

それは元々、存在そのもの「オン」の知に関する問いに属していた

トマス・アクィナスはアリストテレスの2番目の方向性を引き継いだ

存在一般が「第一哲学」の対象になったのである

したがって、存在そのものに関してわたしが問う時、必然的に個別の存在を通り越していくことが明らかである

単一性、他と異なっていること、差異、対立などに向かう

ただ、個別のものを超えて存在していることは、特定の存在を超えて在る神とは全く異なっている

このように根本的に異なる種類の超えて在るものが一つの概念に結び付けられている

問題はそのことについて問われないことである

より一般的に言うと、

第1の神学の知の場合、存在そのものとして感覚を超えて在るという意味における非感覚的なるものの知である

第2の場合、単一性、他と異なっていること、差異、わたしが味わうことも重さを測ることもできないものをわたしが強調する時はいつも、超感覚ではなく非感覚な何か、感覚からは近づけない非感覚な何かのことである

このように見ると、アリストテレス哲学の中にあった問題が引き継がれた限りにおいて、形而上学の概念そのものは混乱しているのである



c)形而上学の伝統的概念の問題とはならない性質


形而上学の伝統的概念はこのように矮小化され混乱しているので、形而上学そのもの、あるいは適切な意味における「メタ」は問題にされない

逆に言えば、人間が完全に自由な問い掛けをすることとしての哲学は中世では不可能であったので、アリストテレス形而上学を2つの方向性に則り引き継いだことは、最初から信仰の教義だけではなく第一哲学そのものの教義が生まれるように体系化されたのである

古代哲学がキリスト教の信仰へ、そしてデカルトで見たように近代哲学に引き継がれるという奇妙な過程は、適切な問い掛けを確立したカントによって初めて断ち切られたのである

カントは初めて形而上学自体を問題にすることを試みた

ここでそのことを詳細に論じることはできないが、詳しく知りたい人はわたしの『カントと形而上学の問題』を読んでいただきたい

そのすべてを理解するためには、19世紀のドイツ観念論などを通して生まれ、標準になっているカントの解釈から完全に自由にならなければならない
























2022.2.27(日)

トマス・アクィナスにおける形而上学の概念:伝統的な形而上学の概念の3つの特徴に関する歴史的証拠


私がこれまでに提示した伝統的な形而上学の概念の3つの特徴、すなわち、その矮小化、混乱、問題とならない性質についていくつかの証拠を提供したい

そうすることにより、これがある特定の立場からの見方ではないことが分かるからである

その証拠はトマス・アクィナスの形而上学の概念を通して提供できるかもしれない

アクィナスは折に触れて、体系的にではないが、アリストテレス形而上学についての注の中で形而上学の概念を語っている

アクィナスは「第一哲学」、「形而上学」、「神学」(神の科学=scientia divina=神的なるものの知)を同一のものとしている

scientia divina は天啓から生まれる知、人間の信仰に関係した知を意味する scientia sacra(聖の科学)とは別のものである

上の3つを同列に並べることはどれだけ驚くべきことなのだろうか

アリストテレスは形而上学という言葉は知らなかったが、アクィナスの見方はアリストテレスのものでもあったのである


アクィナスは最も高度な知(彼は常に形而上学的知と呼ぶ)は、全ての知を支配するscientia regulatrix であるという前提から進める

最も知り得るものを3つに分ける

1.何かが最も高度な意味において知り得る

中世においては、知るということは「もの・こと」をその原因で把握することである

究極の原因、第一原因に戻る時、何かは最も高度な意味において知られる

この考えによれば、第一原因は世界の創造者である神になる

この原因が知ること、すなわち第一哲学の対象になる

これはアリストテレスの思考とは相容れない思考の流れになる


 2.何かを感覚的な知との比較で理解する

他方、知性とは個別、特定のものではなく、すべてに共通するものに関するものである

これはアリストテレスが「オン」についての知で光を当てたかったことである

アクィナスはこれを transphysica、すなわち物理的なものや感覚的なものを超えたものについての決定であるとした

つまり、この知を形而上学と定義したのである

第一哲学と神学と同列に置いた形而上学を特別にこのように定義したということは、存在論(ontology、後に metaphysica generalis と呼ばれることになる)と同義に理解していたことになる


3.何かが知性そのものの知に関して最も知り得る

アクィナスは最も知り得るものは物質がないものとした

それは霊的なもの、超えたものの知で、神に関する知 scientia divina、神学になる



2022.3.1(火)

トマス・アクィナスにおける形而上学の概念:伝統的な形而上学の概念の3つの特徴に関する歴史的証拠(つづき)


アクィナスは形而上学の伝統的概念にある3つの意味を纏め、統一された科学(scientia regulatrix)とした

その結果、第一哲学は第一原因、存在一般についての形而上学、神とともにある神学の3つを扱うことができるようになった

そこに内在する問題についてはもう触れないが、それがここでは問われることなく体系化され、一つは信仰によって決められるものである

つまり、このような曖昧さの中にある形而上学という概念は、それ自体の問題に向かうのではなく、「超える」ことに関する別々の決定が一つに纏められたのである


さらに進む前に、もう一度お浚いをしておきたい

形而上学の曖昧さはプラトンやアリストテレスにおいて生まれた第一哲学という概念の中にすでに見られる

アリストテレスは、哲学すること自体を二つの方向に導いた

1つは存在そのものについての問いで、もう1つはそれぞれの存在に関する統一、多数性、対立などについての問いである

アリストテレスはこの問題に気付いていなかった


問題は中世の神学に顕著に見ることができる

正式の範疇に関する問いは、神の問題以外の何かである

そこで矛盾が生じないのは、問いが物質的なものではなく非感覚的であるものについての知である場合だけに限られる

平等の正式な概念は抽象的であり、そこでは感覚的なものは無視される

神は抽象的ではないどころか最も具体的なものであるが、物質ではなく純粋の精神である

哲学すること自体に2つの方向性があるという不調和は、中世に激しくなる

それは、アリストテレスの神学がキリスト教の天啓に方向付けられた絶対的人物としての神の意味で理解されたからである

こうして形而上学の中身がキリスト教における神学に方向付けされたのである

つまり、アリストテレスにおける神学は存在一般に関する問いと並んで分類されていたが、そうではなくなったのである

それはカントにおける形而上学が神学として捉えられるところに繋がった


アクィナスの解釈の中では、因果関係における究極なもの、抽象の意味における最も一般的なもの、特定の存在様式の意味における至高の存在に関する知が、普遍という曖昧な概念の中に融合されている

形而上学はすべての存在に共通すること、そして神に関することを扱うことができるとアクィナスは考えた

しかし、両者はいずれも最高のもの、究極のものではあるが、その内的構造は全く異なっていたのである


2022.3.3(木)~3.5(土)

フランシスコ・スアレスにおける形而上学の概念と近代形而上学の基本的特徴


中世の形而上学の概念と古代とのつながりと真の問題を完全に覆っていることは、近代の形而上学、その発展、カントの位置、ドイツ観念論の発展について知ろうとする時には心に留めなければならない

アクィナスと中世哲学は、近代形而上学の発展にとって少しではあるが重要であることにも注目しなければならない

近代形而上学の発展に直接の影響を与えたのは、16世紀に生きた一人の神学者にして哲学者フランシスコ・スアレス(1548-1617)である

彼はアリストテレス形而上学を新しく解釈し直そうとしていた

スアレスの哲学者、神学者としての重要性はもっと認知されるべきで、彼の明察力や問いの独立性などに関してはアクィナスの上に置かれるべき思想家である

彼の重要性は、彼の影響の下で形而上学の分野が特定の形を採ったというような儀礼的なものだけではない

同様に重要なことは内容に関する問題を象ったことで、それは近代形而上学で再度呼び覚まされることになった

サラマンカにあったイエズス会が彼の活動に重要な役割を果たした


1597年、主著の Disputationes metaphysicae(全2巻)を刊行

サブタイトルにはその目的2つが示されている

1つは、自然神学(啓示に先立つもの)の内的構造全体を扱うことで、もう1つはアリストテレスの形而上学に属するすべての問題を適切に論じることであった

彼はアリストテレスの『形而上学』が秩序立っていないことを見ていた

この混乱を解消するために、主要な問題を体系的に並べようとしたのである

自然神学に関する全分野の議論はスアレスに行きつき、アクィナスにおいては形而上学的思考の応用とアリストテレス形而上学に対する注釈があるだけであった

デカルトは、ラ・フレーシュのイエズス会で形而上学、論理学、倫理学の講義を聴いていたので、スアレスについては熟知しており、後年に至っても折に触れてその書に当たっていた

Disputationes Metaphysicae の序文においてスアレスはこう書いている
形而上学的真理は神学的知そのものにとってなくてはならないものなので、もしそれが軽視されることになれば、啓示の神学という意味において、神学そのものが危ういものになる危険性がある
彼は、ここでは論理的な問題に過ぎない全ての問いを除外していると明確に強調している

第一の議論(Disputatio)は第一哲学あるいは形而上学の本質を扱っている

彼は形而上学がいろいろな言葉で表現されてきたことを議論している

sapientiaprudentiaprima philosophianaturalis theologia、そして metaphsyica

自然神学や第一哲学が形而上学と呼ばれたのは、それが神を扱っていたからであると彼は言っている

アクィナスは一般的な存在を扱う時に「メタフィジカ」を表現した

しかし、スアレスはそれが神学である時に形而上学と呼んだのである

形而上学は自然のものに続くものを扱う

それは本の位置ではなく、内容に関するもので、感覚的なものより超感覚的な知が後に来るという意味であった

「メタ」は「後ろ」(post)の意味ではあるが、感覚的なものから超感覚的なものに進む知識の段階を意味していた


形而上学という学問が本質的な発展を遂げたのは、スアレスの影響によるところが大きいことは強調しておかなければならない

言葉の歴史から言えることは、スアレスの影響を受けた中世哲学が近代哲学の発展に決定的な影響を及ぼしたことである


誤解を避け、今後の議論に備えるために、近代形而上学の基本的な性格について簡単に触れておきたい

古代、中世について行ったように、近代哲学を性格付けしようとする時、形而上学の概念が固定されてはいるが何か新しいことが起こっているという事実に直面する

近代形而上学の基本的な特徴は何なのか

伝統的な問題の全体が、「形而上学的自然科学」によって代表される新しい科学の下に来るという事実によって近代形而上学は決定される

もし形而上学が第一原因について、最も一般的で最も重要性の高い存在の意味について、つまり最も重要性が高く究極で至高のものについて問うことだとすれば、このような知は問われたものに相応しいものでなければならない

それは、その知が絶対的に確かでなければならないことを意味している

知を数学的に考えることを導きの糸として、伝統的形而上学の全問題は厳密に数学的に行うことが前提となる

形而上学を絶対的な科学のレベルに格上げすることになる

絶対的な確かさの問題は、近代哲学の基本的な問題である

これは近代哲学がデカルト、さらにフィヒテにおいて始まったところに明確に見ることができる

究極の確かさ、絶対的な確かさは、形而上学の中でどのような位置を占めるのか

デカルト以来の近代は、神の存在あるいは神の証明からではなく、意識やわたしから始める

わたしや意識は、形而上学の最も安全で不問に付される基盤に置かれる



2022.3.6(日)

形而上学そのものの基本的な問題のための名前としての形而上学

予備的評価の結果と形而上学的問い掛けによって心を掴まれた存在に基づいて形而上学の中で行動を起こすことの要請



形而上学という概念の議論全体を検討する時はいつも、この名前が「全体としての存在」に向かう知を表していることが分かる

同時に、「全体としての」という表現が「真の問題」を含んでいる用語であることも分かる

それは「一般的に最初に提起されなければならない」問題であり、伝統からのいろいろな意見を引き継ぐことによって存在しないようにはさせられない問題である

従って、「形而上学」という名前を単に伝統的な意味に取ることができないことは明らかである

我々は、「形而上学」という表現を一つの問題の名前として、さらに望ましいのは「形而上学自体の根本的な問題」――それは形而上学自体が何であるのかという問いの中にあるのだが――の名前として引き継いでいる

「形而上学とは何なのか、哲学するとは何なのか」という問いは、哲学と分かち難くそこにあり、哲学の変わらぬ友なのである

哲学が適切に行われれば行われるほど、この問いは益々鋭く提起されることになる

哲学そのものが何であるのかという問いは、哲学に後から付け加えられたものとしてあるのではなく、哲学そのものに内在している

それに対して、数学、物理学、文献学とは何なのかという問いは基本的に提起されないか、これらの科学によっては解決されないのである


もし、予備的評価から我々が求めるものを考える時、同時に形而上学という概念とそれに対する我々の立場の議論を検討しているとすれば、これらすべての議論は形而上学とは何かについて何も明確にしなかったと言わなければならない

「形而上学」という言葉についての議論において、我々が「哲学する」とは何を言うのかという問いで終わるのである

その意味で、我々の予備的評価は完全にネガティブである

ただ我々は、哲学を特徴付ける一般的なやり方を放棄し、哲学が我々を求めるという意味で、究極のものであり、それ自身で立つ何かとして哲学を問うことを決めた

我々は形而上学や哲学を科学として解釈したり、芸術や宗教と比較したりするのではなく、形而上学や哲学がそれ自身で立つ何か、それ自身が決めた条件で理解されなければならない何かであるという事実を考慮に入れたのである

従って、ここで求められるのは哲学を前にして逃げるのではなく、哲学自体について問うことであった

あるいは、我々は哲学を前に逃げたのだろうか

我々は哲学自体を直に扱ったが、まさにそれ故、哲学の前で逃げたことを認めなければならない

これは目立たない曖昧な形で起こっただけであった

確かに我々は、科学、芸術、宗教というような他のことは語らず哲学について語ったが、それは「哲学の中から出たところから」直に具体的にではなく、「哲学について」語ったのであった

「哲学の中から出たところから」語るのは、我々が前もって「形而上学的問い掛け」の中に入る時だけである

しかし、これは起こらなかった

我々は単に包括的な問い掛け「について」語っただけであった

包括的問い掛けとは、いずれの問いの中でも全体としての存在を含み、問い掛ける人自身も問われることになるものである

どれだけ「それについて」我々が関わろうとも、そのような問い掛けに心が掴まれていなければすべては誤解のままである

我々は哲学に「ついて」語ったが、「そこから出たところから」は語らなかった

確かに、哲学を扱ったが、哲学自体の中で行動は起こさなかった

しかし決定的なことは、「形而上学自体の中で行動を起こすこと」から我々が現れることである

これは、我々が実際に適切に問いを出さなければならないということを意味している


すでに我々は、提起する問題を示した

世界とは、有限性とは、個性化とは何か

ただ、これらの問いは偶然に出されたものであった

もし、これらの問いを形而上学的であると認めたいのであれば、かなり空疎で一般的であり、あまりに漠然としているので我々を無関心の状態に置き、根源的に我々を動かすことがないのである

このようにことを進めるとすれば、我々が放棄したいと思った元のレベルに戻ることになる

理論的議論(科学)をやり、その結果世界観について成果を生み出すだろう

しかしそのことにより、哲学することの浅薄さが回復されるのである

これらの問いを理論的なものとして発展させ、調和を「・・・に加えて」あるいは「・・・の横に」もたらすことではない

そうではなく、我々はまずこれらの問いをその必然性の中に、「根源的な調和の中から出て」立ち上がらせ、それを自立と明瞭さの中に保持しようとしなければならないのである

これがこの講義の最も重要な基本的務めであり、実際に生きた哲学をすることの始まりなのである


------------------------------------------------------

これでイントロが終わったことになる

読み始める前よりは、ハイデッガーの考える形而上学の姿がよりよく見えるようになってきた

そこにほとんど違和感を覚えない

ただ、形而上学を知るためには、形而上学的問いの中にいなければならないというところ

プラトンが言う、何か知るためにはそのことについて少しは知っていなければならないということを思い出す

これからどのように展開するのだろうか

もう少し追ってみたい































2022.3.7(月)

第1部 我々が哲学する際の基本となる気分を呼び覚ますこと

第1章 基本となる気分を呼び覚ます務めと我々の同時代のダーザインにおいて隠された基本となる気分の指摘

16.基本となる気分を呼び覚ますことの意義について予備的理解に至る

a)呼び覚ますこと:手元にある何かを確かめることではなく、眠っているものを目覚めさせること


我々の基本的な務めは、我々が哲学する際の基本的な気分を呼び覚ますことにある

わたしは、任意に哲学するとか哲学そのものにおいてとは言わずに、意図的に「我々が」哲学する際と言ったが、一般的に哲学するということは存在しないからである

それは、我々が哲学することを支える一つの基本となる気分を呼び覚ますことであって、一般的な基本となる気分ではないのである

従って、その気分は一つではなく、我々に関係するのはどれであり、そのような気分はどこから来るのかという疑問に導く

ここで、どの基本となる気分を選び、どのような道を進むのかという問題に直面する


気分は我々が作り上げることができる何かであったり、我々のところにわざわざやってきたり、呼び出したりできる何かではないのか

もし知らない間に入り込むものであるとすれば、そのような気分を人工的に齎すことはできない

それはすでにそこになければならないのである

我々ができることはそれを確認することである

しかしどうやって哲学することの基本となる気分を確かめるのか

それは普遍的に認められた事実として証明できるのか


基本となる気分を所謂客観的に確認することは疑わしく、不可能な企てである

従って、一般的に気分の普遍性を問い、このように確認されたものの普遍的な有効性について熟考することは無意味である

どれだけ注意深くしていても、観察によって見出されるものは何もない


従って、我々が哲学する際の基本となる気分を「確認する」ことに関しては語らず、それを呼び覚ますことについて語ることにしたい

呼び覚ますとは、何かを目覚めさせるということで、眠っているものを目覚めさせることである



2022.3.8(火)~3.9(水)

b)気分がそこに在ることとないことは、意識と無意識を区別することによっては把握できない


奇妙ではあるが、眠っているものは何でもそこにないと同時に在る

我々が気分を呼び覚ます時、それはすでにそこに在ることを意味している

同時に、それはある特定のやり方でそこにはないという事実を表している

気分はそこに在ると同時にない何かである

これは奇妙である

もし慣例に則って哲学することを継続したいと願うならば、我々は直ちにこう言うことができるだろう

そこに在ると同時にない何かは、内在的に矛盾する存在である

そこに在ること(Da-sein)とそこにないこと(Nicht-Da-sein)は、完全な矛盾である

しかし、矛盾するものはあり得ない

伝統的な形而上学の古い命題であるが、丸で四角があり得ないように、それはあり得ないのである

我々はこの由緒ある形而上学の原理を問題にしなければならないだけではなく、その基盤を粉砕しなければならない


結局のところ、我々が一般にものについて知っていることは、曖昧な「あれか、これか」に関して知っている

確かに、誰かはそこにいるかいないかである

しかし、ここで問題にしているのは、石の場合とかなり違うことである

人間としての経験から、何かが手元にあるがまだないこと、我々の意識に入り込んでいない過程があることを知っている

つまり、手元にあるが、意識にはないのである

「手元にあると同時に手元にない」という奇妙な状態は、無意識な何かを意識している可能性から生まれる

無意識という意味でそこにないことと意識している意味においてそこにあることとの違いは、眠っているものを呼び覚ますことに相当するように見える

しかし、眠りと無意識を単純に同一視できるだろうか

眠りは単なる意識の欠如ではない

実際には多くの場合、眠りでは夢のように非常に活発な意識が動いている

従って、意識と無意識の差異で目覚めていることと眠っていることの問題は解決できない


ある気分を呼び覚ますことは、単に以前は無意識だった気分を意識させることを意味しない

ある気分を呼び覚ますことは、目覚めるようにさせること、任せることである

気分を知識の対象にしたりすれば、気分は破壊されるか、弱まったり変質したりするのである


しかし、我々が気分を呼び覚ます時は常に、それはすでに在ったと同時になかったというところに導くという事実は残る

そこに在ることとないこととの差異は、意識と無意識の差異と同等ではないことは見てきた

そこからさらに、もし気分が人間に属するもので、人間が気分を持ち、意識と無意識によっては明確にできないとすれば、我々が人間を意識があり、理性を具えた動物であるとして物質から区別される何かとして捉える限り、この問題に近づくことはできないだろう

生きて理性を持った存在としての人間という概念からは、気分の本質を理解するところには全く辿り着けなかった

気分を呼び覚ますこと、この奇妙な仕事の口火を切る試みは、我々の人間の概念を完全に変容させることを要求することになるだろう


始めからこの問題を複雑にしないために、眠りとは何なのかという問題には入らない

なぜなら、方法論的に言えば、眠りと目覚めが意味するところを明確にした時にのみ、我々は呼び覚ますことの本質に関する情報を得ることができるからだ

眠りと目覚めのような現象を明確にすることは、一つの特別な問いとして外から提起できるものではないということだけ言っておきたい

むしろ、そのような明確化は、我々がそのように存在は構造的に決定されて寝たり起きたりできるのかという基本的な概念を持っているという前提の上でしか起こらない

石が寝ているとか起きているとは言わないが、植物はどうだろうか

植物が起きているのか寝ているのかに関して、我々は答えられない

動物が寝ることは知っている

しかし、その眠りは人間と同じかどうかは分からない

これは異なる存在(石、植物、動物、人間)の構造に関する問題と密に結び付いている


現代において眠りが多くの誤解を生んでいるの対して、古代の哲学者の中に眠りの根本的な特徴がもっと基本的、直接的に捉えられているを見る

目覚めと眠りに関する論文を書いたアリストテレスは、眠りを意識と無意識と結び付けていなかった

彼は、眠りを縛られた状態であると見ていた

それが他の存在には入り得ないという意味において、受容や本質も縛られている

このように眠りを特徴付けることは、形而上学的な意図では捉えられなかった広いパースペクティブを開くものである

基本的な形而上学的理由で、我々は眠りの問題に入ることを断念しなければならず、気分を呼び覚ますことの意味を他の経路で明らかにする試みをしなければならない



2022.3.10(木)~3.11(金)

c)人間存在がそこに在ることとないことに基づく気分がそこに在ることとないこと


これは意識と無意識とは何の関係もない

逆に、そこにないことは優れて意識的であり得る

離れて在るという潜在性は人間一般の在り方に属するものである

我々は人間存在をそこに在る(Da-sein)ものと名付けるが、その内容はこれから決定される

離れて在るということは、そこに在るDaseinの本質に関わるものである


気分は呼び覚まされるものである

しかし、それはそこに在ると同時にそこにないことを意味している

それが在る同時にないということは、人間存在の内奥の本質と関係している

気分は人間存在に属している

ただ、それは何かのもの(石など)が手元に在るのかないのかという事態とは全く異なっている

離れて在るということ自体、人間の存在である

それは存在しないことではなく、Da-seinがそこに在る1つの在り方である

石の場合にはそこに存在しないが、人間の場合、離れることができるためにはそこにいなければならない


気分(喜び、満足、至福、悲しみ、憂鬱、怒り)は心理的、霊的な何かであり、感情の状態である

それが我々の中にあることは確認できる

気分や感情は常に変化している

ただ、気分が人間存在に属しているとすれば、それは単なる感情の1つの状態ではない

従って、我々はこう問わなければならない
人間の本質に属するものとしての気分をいかにしてポジティブに捉えるのか

そして、我々が気分を呼び覚ましたいのであれば、どのように人間自身と関連付けるのか

この問いを追求する前に、我々の講義の務めについて何が言われてきたのかを振り返っておこう

我々が哲学する際の基本となる気分を呼び覚ますという仕事に向き合っている

気分とは、普遍的に有効な方法で直ちに確認できない何かである

気分は確認できないだけではなく、それができたとしても確認すべきではないのである

なぜなら、全ての確認は意識の状態に持って行くことを意味しているからである

気分に関しては、意識させる全ては破壊、変更を意味する一方、気分を呼び覚ます際には我々は気分があるがままにさせることに関心を持つ

呼び覚ますとは気分がそうあるように任せることである

ある意味で、気分はそこに在ってないのである

それはすでに言ったように、石がそこに在るのとないという差ではない

それは完全に逆のことである

それに対して、離れて在るということはそこに在るということの反対ではない

寧ろ、離れて在るすべては、Daseinに関係してそこに在ることが前提になっている

我々は離れて在ることができるために、そこにいなければ(da-sein)ならない

つまり、離れて在ること、あるいは「そこにいていない」ことは奇妙なことで、気分はまだ曖昧なやり方で存在の奇妙な在り方と関係している


気分がそこに在ると言うことは基本的に誤解を招くということについては触れた

なぜなら、その場合、気分を存在する性質のような何かとして捉えているからである

この概念に対して、心理とか伝統的なものの見方で見られるものとしての普通の意見を持ち出した

気分とは、思考とか意志の横に在る感情とするものである

この分類は人間を理性的な存在として見る考え方に基づいて行われている

我々は、まず気分は存在ではないこと、単純に魂の中に表れる何かではないこと

第二に、気分とは最も不安定で儚いものではないこと

我々のネガティブな主張と対比して、ポジティブであるものを示すことが問題になる

我々は気分とその本質を少しだけ我々に近づけなければならないのである


2022.3.12(土)、3.14(月)

17.気分の暫定的な特徴付け:ダーザインの基本的な在り方としての気分、ダーザインに生きる糧と可能性を与えるものとしての気分.ダーザインとしてのダーザインを把握するものとしての気分の呼び覚まし


我々が共にいる人間が悲しみに打ちひしがれている

これは、この人が我々は共有していない生きた経験の状態にあるが、他のすべては以前のままということだろうか

そうでなければ、ここで何が起こっているのか

悲しみに打ちひしがれている人は自らを閉じ、我々に敵意を示しているわけではないが、近づき難くなる

しかし我々は、以前と同じように彼とともに在り、ひょっとすると彼を以前より受け入れるようになっているかもしれない

彼の方も態度を変えない

すべては以前のままであると同時に、すべてが違っている

我々が共にいるあり方が違うのである


このような気分においてこの人間が近づき難くなるということは何を意味しているのか

我々が彼といるあり方が変わったのである

お互いにいる我々の存在(我々のダーザインがそこに在ること)が違い、その気分が変化したのである

この状況を詳しく見れば、気分は内(他者の魂の中)に在るものでも我々の魂の中でどこかに共にあるものでも全くないことが見えてくる

そうではなく、気分がすべてに押し付けてくるのである

一体気分はどこに、どのようにあるのだろうか

気分とは魂の中に表れる何かではなく、我々がお互いにそこに在るあり方なのである


ここで、他の可能性について考えてみよう

上機嫌の人間は生き生きとして雰囲気をもたらす

細菌がヒトの間を行ったり来たりするように、感情の経験を他の人に伝えているのだろうか

確かに、気分には伝染性がある

また、別の人間はすべてを憂鬱にし、全てに水を差す

これは何を語っているのか

気分は副作用などではなく、我々がお互いに存在するあり方を予め決めている何かである

気分はそれぞれの場合にすでにそこに在るかのようなものである

そう見えるのではなく、そうなのである

この事実に直面すると、感情や経験や意識の心理学を無視しなければならない

それは、ここで起こっていることを「見て、言う」という問題なのである

気分は存在――ダーザイン(そこに在るもの)――の基本的なあり方なのである

ダーザインのそこに在るあり方であり、それは離れて在ることである

気分は単なる形ではなく、あり方なのである


つまり、気分は特定の存在ではないという第一のネガティブな考えに対するポジティブな表現を我々は持っている

それは、気分はダーザインとしてダーザインが在る基本的なあり方ということである

それから、気分は不安定で儚い単なる主観的な何かではないという第二のネガティブな考えについても対抗する考えがある

気分はダーザインのまさに基盤において生きる糧と可能性を与えるということである


我々はこれらのことから「気分」と言われるものを正しく理解することの意味を理解しなければならない

それは心理学と反対の立場を採ることでも、感情の経験をより正確に限定することでもない

寧ろ、人間のダーザイン(そこに在る状態)について、全体的なパースペクティブをまず開くことである

気分とは我々自身がそのような状態に置かれていると認める基本的な方法で、そのような状態にあることに基づく"how"のことである

我々はしばしばこれを、「何」をやろうとしているのか、「何」に従事しているのか、「何」が起こるのかということと対比して理解する

しかし、我々がそのような状態にあるということは、我々の思考、行動の結果や副次的なものでは決してないのである

我々が全く注意を払わない気分、我々が恰もそこに気分が全くないように感じさせる気分

これらの気分が最も強力なのである


我々は、喜びや悲しみのような極端に向かう特別な気分によってのみ影響を受ける

全くそこにないと同時にあるのは、我々が機嫌が悪いのでもよいのでもないという気分の欠如である

しかし、この状態でも我々は気分なしではいない

上機嫌な一人の人間が生き生きとした雰囲気を齎すと言う時、それはそのような気分が齎されるということを意味するだけで、それ以前に気分がなかったということではない

気分というのは魂の空きスペースに現れ、そして消えるようなものではない

寧ろ、ダーザインとしてのダーザインは常にすでにそこにあり、それが変化するだけなのである


気分とは思考と行動のための前提であり、環境であると暫定的に言った

その中で我々は初めてそこに在るものとして、ダーザインとして、我々自身に会うのである

まさに気分の本質はその存在の中にあり、単なる副次的なものではなく、ダーザインの基盤に我々を戻すものである

そのため、気分の本質は我々から隠されたままなのである

このことから、気分を呼び覚ますとは、ダーザインを把握する方法を意味していることが明らかになる

ダーザインを在るものとして在らしめる特別な方法で把握することである

このような呼び覚ましは奇妙な企てであり、難しく、殆ど分かり難いものである

我々の務めを理解したとすれば、気分について熟考を始めるのではなく、我々は行動しなければならない


2022.3.17(木)~3.20(日)

18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する


我々がこのことを守るとしても、困難に出会うだろう

それは必然であり、基本となる気分を呼び覚ますことは、例えば花を摘むというように簡単にできることではないことを我々に明らかにするのである



a)我々の同時代の状況の4つの解釈:オスヴァルト・シュペングラールートヴィヒ・クラーゲスマックス・シェーラーレオポルド・ジーグラーにおける生命(魂)と精神の対立


我々は基本となる気分を呼び覚まさなければならない

すぐに現れる問題は、どの気分を呼び覚ますのかということである

我々に基本的に広がっている気分なのか

そこで言う「我々」とは一体誰なのか

我々とは、この教室に集まった人間を言うのか

あるいは、この大学で特定の科学研究をしている限りの我々なのか

あるいはまた、大学に所属して精神教育の過程にある限りの我々なのか

そして、精神の歴史は単にドイツだけの現象なのか、あるい西洋、ヨーロッパのものなのか

あるいはさらに大きな円を描かなければならないのか

如何なる状況における「我々」であり、その状況にどのような境界を定めるのか


この状況について広いパースペクティブを持てば持つほど、我々の地平はぼんやりし、我々の仕事は益々漠然としたものになる

しかし、広いパースペクティブを持てば持つほど、この状況は情熱的に断固として我々一人ひとりを掴むと感じる


もし我々の中に基本となる気分を呼び覚ますとすれば、そのために「我々の状況を確認」しなければならない

しかし、「今日の我々」のためにどの気分を呼び覚ますのか

この問いに答えられるのは、我々が「我々の」状況を十分に知った時だけである

本質的で究極的な何かは基本となる気分を呼び覚ます際に明らかに問題になるので、我々の状況は可能な限りの広さで見なければならない

この要求をどう満たすのか

事をより詳しく検討すれば、我々の状況を特徴付ける要求は新しいものではなく、多くの意味ですでに行われている

それは我々の状況が提示された纏まったやり方を強調し、広がっている基本的な特徴を保持すればよいだけなのである

我々の同時代の状況を明白に特徴づけているものを見渡すと、4つのものに集中してざっとではあるが知っておくことだろう

その場合、選択は曖昧さを完全に取り除くことはできない

しかし、そのような曖昧さは我々が得るものによって無害なものになるだろう


我々の状況の最もよく知られた解釈は、「西欧の没落」というキャッチフレーズで表現されたものである

我々にとって重要なのは、この「予言」の基礎となっているものである

フォルミュールに還元するとすれば、精神における、そして精神を貫いている生命の衰退である

特に、理性(ratio)としての精神がテクノロジーや経済や世界貿易や都市によって象徴される存在の再構成において作り上げたものが、今や魂や生命に敵対し、圧倒し、文化を衰退と退廃へと強いている


第二の解釈も同じ方向に進むが、魂(生命)と精神の関係が異なって捉えられている

これは精神を介する文化の没落という予言には落ち着かず、精神を拒否するところに行く

精神は魂に敵対すると見られる

魂を解放するために、精神は祓い清めなければならない病気なのである

つまり、精神から自由になるということは、生命に還ろうということなのである

しかしここで言う生命は、今にも爆発しそうな衝動のようなもの、神秘的なものが育つ基盤として捉えられている

これはルートヴィヒ・クラーゲスによって表明された見方で、主にバッハオーフェン、とりわけニーチェによって決定されたものである


第三の解釈も上の2つの次元に留まるものだが、生命における精神の衰退を認めたり、精神に対する生命の闘いを擁護したりするものではない

その代わり、生命と精神のバランスを見出そうとすることをその責務とした

これはマックス・シェーラーの最後の段階の哲学に代表される

レッシング・カレッジにおける講義「バランスの時代の人間」に明確に表れている


第四の解釈は、基本的に第三の解釈の影響下にあり、同時に第一・第二の解釈を含んでいる

比較すれば、これが最もオリジナリティを欠き、哲学的にも最も脆弱である

この解釈は、レオポルド・ジーグラーの『ヨーロッパ精神』に代表される


これは今日知られ、部分的にはすでに忘れられていることを類型化して纏めたものに過ぎない

我々に関わる基本的なことはこれらの解釈の根本的な特徴で、それは生命と精神の関係になるだろう


生命と精神という言葉を人間の2つの構成要素(魂=生命、精神)を指すと理解するのは誤解である

これは人間の基本的な2つの方向性に関するものである

そう理解すれば、ここで問題になっていることが両者の関係の理論的解説でなく、ニーチェがディオニュソス的とアポロ的という言葉で意味したものであることがよく見えてくる

4つの解釈が共通の源泉ニーチェに行き着くのである

全ての解釈はニーチェの哲学の特定の受容によってのみ可能になる

これは、これらの解釈の独創性を問うものではなく、単に対立が起こるはずの場所と源泉を示すためのものである


b)我々の同時代の状況の4つの解釈の源泉としてのニーチェのディオニュソス的なものとアポロ的なものの基本的な対立


ここではニーチェが考えていた詳細に入るのではなく、今問題になっていることを知るために必要な程度に止めて特徴付けを行いたい

ディオニュソス/アポロの対立は早くから維持され、ニーチェの哲学を導いている

それは彼自身が知っていた

古代に取られたこの対立は、文献学と手を切ろうと思っていた若き古典的な文献学者に必然的に現れたのである

しかし、この対立が彼の哲学の中に維持されてはいたが、哲学する中で変容していったことも知っていた

ニーチェは「自分自身を変容される者だけがわたしに関係する」ことを知っていた

完成には至らなかった彼の主著で決定的な作品『権力への意志』の中で行った最終的な解釈を引いてみたい

第四書の第二セクションのタイトルは「ディオニュソス」となっている

ここに一風変わったアフォリズムがあり、全体には本質的な思想、要請、評価が集められている

ニーチェが亡くなる直前に、この対立が早い時期から彼にとって決定的であったと見ていた証拠を示したい

彼は博士号を取る前の1869年に、24歳で特別教授(Professor Extraordinarius)としてバーゼル大学に呼ばれている

彼はこう書いている(以下、引用はすべて原佑訳による)
一八七六年ごろ、いまやヴァーグナーがどこへ到りつこうとしているのかがわかったとき、私のこれまでの全意欲が危険にさらされているのを見てとって、私はぞっとした。だが私は、深く一致した欲求のあらゆる紐帯によって、感謝によって、掛けがえのないものを失い、絶対的な窮乏しかのこらないという私の見とおしによって、彼ときわめて固く結びついていた。

ちょうどそのころ私には、私が文献学と教職とにがんじがらめに縛られていると思われた――私の生涯の一つの偶然や応急策に――。私はもはやどうして逃れでたらよいかも知らず、疲れはて、精魂もつきはてた。

ちょうどそのころ私には、私の本能はショーペンハウアーのそれとは反対のことをめざしているということがわかった。すなわち、生が、最も恐るべき、最も曖昧な、最も欺瞞的なものであるときですら、その生を是認することをめざしているということが、――そのために私は「ディオニュソス的」という定式を手中にしたのである。

後の方には、こうある

アポロンの迷妄とは、美しい形式の永遠性のことにほかならない。「つねにかくあるべし」という貴族主義的立法のことである。

ディオニュソスとは、官能性と残酷性のことにほかならない。 移ろいやすさは、生産し破壊する力の享楽であると、不断の創造であると、解釈されうるかもしれない。


それから、ニーチェがこの対立をおそらく最も美しく決定的な形であり、その源泉と結び付けるものの中で解釈している段落が続く
「ディオニュソス的」という言葉で表現されているのは、統一への衝動であり、個人、日常、社会、実在を越えでて、消滅の深淵を越えでてつかみかかるはたらき、すなわち、より暗い、より豊満な、より浮動的な諸状態のうちへと激情的に痛ましく溢れでるはたらきであり、あらゆる転変のうちにあって変わることなく等しきもの、等しい権力をもつもの、等しい浄福をめぐまれているものとしての、生の総体的性格へと狂喜して然りと断言することであり、生の最も恐るべき最も疑わしい諸固有性をも認可し神聖視するところの、大いなる汎神論的共歓と共苦であり、生産への、豊穣への、回帰への永遠の意志であり、想像のはたらきと絶滅のはたらきの必然性の一体感である。

「アポロン的」という言葉で表現されているのは、完全な孤立への、典型的「固体」への、単純化し、際立たせ、強め、明確ならしめ、一義的ならしめ、典型的ならしめるすべてのものへの衝動、すなわち、法則の下での自由である。

これら二つの自然の芸術的威力の敵対関係に芸術の発達が結びつけられているのは、人類の発達が両性の敵対関係に結びつけられているのと同じく、必然的である。権力の充実と抑制、冷ややかな、高貴な、とり澄ました美しさにおける自己肯定の最高形式、すなわち、これがギリシア的意志のアポロン主義にほかならない 。

そして、この解釈の起源についての彼の特徴付け、すなわちギリシア世界の最も深い分析が続く
ギリシア人の魂内におけるディオニュソス的なものとアポロン的なものとのこの対立性が、私がギリシア的本質に当面して心ひかれる想いを感じた大きな謎の一つである。私が骨折ったのは、根本において、なぜまさしくギリシア的アポロン主義がディオニュソス的地底から発育せざるをえなかったのかを見ぬくことにおいてほかにはない。ディオニュソス的ギリシア人こそ、アポロン的となることを必要としたのである。言いかえれば、物すごいもの、多様なもの、不確実なもの、恐ろしいものへのその意志を、節度への、単純性への、規則と概念に従属することへの意志でくじくことを必要としたのである。節度なきもの、荒涼たるもの、アジア的なものを、ギリシア人は心の底にもっている。だから、ギリシア人の勇敢さはそのアジア主義との闘争にある。美はギリシア人にとっては贈与されたものではなく、論理も、慣習の自然性もそうではない、――美は、征服され、意欲され、戦いとられたものであり――それはギリシア人の勝利なのである。
この対立が「ディオニュソスと十字架にかけられた者という二つのタイプ」にどのように変容したのかを示すための最後のポイントである
ここから私はギリシア人の神ディオニュソスを立てる。すなわち、生の、否認され折半された生ではなく、全き生の宗教的肯定を。(典型的なのは――性的行為が、深みを、秘密を、畏敬を呼びおこすということである。)

ディオニュソス対「十字架にかけられた者」、そこに君たちは対立をもつ。・・・十字架にかけられた神は、生の呪詛であり、おのれをこの生から救済しようとする指示である、――寸断されたディオニュソスは生の約束である。それは永遠に再生し、破壊から立ち帰ってくるであろう。


ニーチェにおいて対立は生きており、我々の状況について提示された4つの解釈では決して明らかにならず、単に文学的形態として伝えられた材料としての効果しか齎さなかったことが分かる

4つの解釈の中でどれがニーチェの意味においてより正しいのかはここでは決めない

ニーチェ哲学――風変わりな基盤に基づくものではあるのだが――の本質をすべて間違えている限りにおいてどれも正しくないことを示すこともできない

これらの基盤は普通の、形而上学的には非常に疑わしい「心理学」に基づいている

しかし、ニーチェにその資格はあるが、これは白紙委任状(carte blanche)である


我々が知っているのは、ニーチェがすでに述べた解釈の源泉であるということだけである

それを言うのは、これらの解釈にはオリジナリティがないことを責めるためではなく、理解が得られたところからの方向性と、対立の場所そのものがどこにあるのかを示すためである(ゲオルゲクライス、精神分析、参照)


2022.3.23(水)、3.24(木)、3.26(土)、3.30(木)

c)文化の哲学が提供する我々の状況の解釈の隠された基本となる気分としての深い退屈


これらすべての問題は我々にとって二次的である

我々はこれらの解釈が正しいのか正しくないのかさえ問うていない

しかし、それを言うことは重要である

これらの解釈で何が起こっているのか

それは、前述の生命と精神という範疇の助けを借りた文化の診断であると我々は主張している

我々自身は全く気に掛けていないし、我々がどこにいるのかという世界史的な決定に影響を受けることなどない

反対に、全体の出来事がセンセーショナルなもので、常に認められていないことを意味している

文化的な診断というアプローチは、発展され予測へと再構成されることにより、もっと興味深いものになる

何が来るのか知りたいと思わない人はいるだろうか

文化の世界史的診断と予測は我々に関わらず、我々を攻撃することもない

反対に、我々自身から我々を解き放ち、世界史的状況と役割の中に我々自身を提示するのである

この文化の診断と予測は「文化の哲学」と言われるものの典型的な現れである

この哲学は我々の同時代の状況の中で我々を把握することはなく、せいぜい我々のいない同時代性を見るだけである

それは永遠の昨日以外の何ものでもない

もし、文化の哲学が我々の同時代状況の解釈において我々を把握することもできないのだとすれば、我々の基本となる気分を理解するためにはまず我々の状況を確かめなければならないと考えたことは間違っていたことになる


いずれにせよ、我々は今立っているところを見るための指標を必要とするだろう

確かに「文化」は我々の魂の表現であり、文化と文化の中の人間の両者は、哲学的にだけ表現や象徴の概念を通して理解される

今日、文化の哲学は表現、象徴、記号的形に関係している

魂と精神としての人間は内的意味を持つ形で表現され、この意味を基にして存在(Dasein)に意味を与える

大雑把に言えば、これが現代の文化の哲学のスキームである

ここでもまた、殆どすべては本質に至るまで正しい

ただ、我々は新たに問わなければならない

人間のこの見方は本質的なものだろうか

これらの解釈――それは文化の哲学による文化における人間の分類からはかけ離れているのだが――では何が起こっているのか

人間はこのようにその人が成し遂げたものの表現として提示される

ただ、問題は残る

このように人間を提示することは、「その人の Dasein に関わり捉えることになる」のかという問いである

このように表現することに向けて提示することは、事実として人間の本質を逃すだけでなく、全ての美学に関わらず必然的に本質を逃すはずである

すなわち、そのような哲学は単に人間を提示するだけで、その Dasein に達することはない

なぜなら、それは本来的に Dasein への道を阻害するからである


もし我々が基本となる気分を呼び覚まそうと努めているのであれば、我々が提示されているだけの「表現」から前に進まなければならない

おそらく、基本となる気分の呼び覚ましは、確かめることのように見えるが、提示や確認とは別の何かである

従って、もし我々が言う全てが我々の状況の提示のように見え、この状況の底にある気分を確かめ、その状況の中で表現しているように見えるという事実から逃れることができないとすれば、そしてもしこの類似を我々が否定できないとすれば、それは曖昧さが初めて始まったということを言っているに過ぎない

これは驚くべきことだろうか

もし我々が哲学することの本質的な「曖昧さ」についての予備的な特徴付けが中身のない常套句であったとすれば、「曖昧さ」は「始まり」においてその力を加えるはずである

前もって、我々の精神的状況を提示することと基本となる気分を呼び覚ますこととの間に理論的な違いがあると宣言することによって、そのような曖昧さが軽減されることになるとは信じたくはない

そうすることによって我々は何ものからも解放されないのである

我々の始まりが適切なものであればあるほど、我々はこの曖昧さをそのままにし、各個人が自分自身で本当に理解しているかどうかを決めることが益々難しいものになるだろう



------------------------------------------------------

今日の部分を自己流に解釈して一般化すれば、次のようになるだろうか

ある現象や問題について明らかにしようと思ったとする

そのことについて考えた時、Aのようにも見えるし、Bのようにも見えるということが起こったとしよう

これは、そこに曖昧さがあることを意味している

その時、AとBはそもそも違うものなのだと言い募っても、そこにある曖昧さが消えることにはならない

問題の解決にはならないのである

問題に正面から向き合うということは、このような曖昧さを抱え込んで考えることを意味している

最初にこの点を胡麻化すと大きな問題が残されたままになる


さらに一般化すると、次のようになるだろうか

問題に対する時には、最初に感じたものをすべて受け止めて歩み始めなければならない

真の解決にならない条件を付けて、問題を狭めないことである

大きく難しい問いを開いたままにして始めることである


この解釈が間違っているのかいないのか、今後明らかになるかもしれない

------------------------------------------------------


もし文化の哲学が提示する我々の状況の解釈というものが間違った道に導くとすれば、「我々はどこに立っているのか」と問うのではなく、「ものことは我々とともにどのように立っているのか」と問わなければならない

もしものことが我々とこのようにかあのように立っているのだとすれば、これは空の中で起こっているのではなく、我々はまだどこかに立っていることになる

従って、我々はまず我々の状況をはっきりさせなければならない

おそらく、前述の解釈とは違うように特徴付けしなければならない

しかしそれは全く必要がない

そのような解釈に入ることなく我々の状況についてはすでに十分に知っているからである

それらの解釈が間違っているとして拒絶する必要もない

これらの解釈が存在し、それらが我々のDaseinを多くのやり方で決めていること(それを正確には言えなくとも)を確認することにより、我々の状況について十分に知っているからである


我々は新らたに問う

これらの文化の診断が我々の中に支持者を見つけるという事実が、ここで起こっていることについて何を我々に告げるのか

この高度なジャーナリズムが我々の精神的空間を制限し満たしているという事実の中で、何が起こっているのか

これらすべては単なるファッションなのか

我々がそれを流行りの哲学と特徴付けて矮小化すれば何かが乗り越えられるのか

我々はそのような安っぽい方法に訴えることは望まない


文化の哲学は我々の状況について何が同時代的であるのかを明確にするが、我々を把握することはないと言った

さらに、我々を把握できないだけではなく、我々に世界史における役割を与えることにより、我々を我々自身から引き離す

我々の逃避、混乱、幻想と喪失感はさらに深刻になる

決定的な問いは、我々がこの役j割を我々自身に与え、それをやらなければならないという事実の背後に何があるのか

我々が我々自身にとってあまりにも取るに足らない存在になり、役割を必要としているのか

なぜ我々は我々自身の意味を見出さないのか

ただ、我々は我々自身の役割を求めるのである

ここで何が起こっているのか

新たに問う

我々は再び、我々を我々自身にとって興味深いものにしなければならないのか

なぜそうしなければならないのか

おそらく、我々自身が我々に飽きたからなのか

人間は自分自身に飽きるものなのだろうか

なぜ

ものことは結局のところ、深い退屈がDaseinの奈落で静かな霧のように行ったり来たりしながら我々とともにあるのだろうか


我々は我々の状況を確かめるために、文化の診断や予測を必要としていない

なぜならそれは、我々を発見するのを助ける代わりに、我々に役割を与え、我々自身から引き離すからである

しかし、どのようにして我々自身を発見するのか

無駄な自己省察で?

あるいは、我々が在るところのものになるという務めを与えられることにより我々自身を発見するのか

我々のDaseinに我々自身を縛り付けることによって、我々自身を発見しなければならないのである

誰もが最初は知らなかった「深い退屈」の兆候を通して、我々自身を発見することになるのだろうか

この疑わしい深い退屈が、求めていた呼び覚まされなければならない基本となる気分なのだろうか