シェリングの『学問論』


















2022年5月1日(日)

本屋さんで帯に惹き付けられ、手に入れた

新訳として出たばかりのシェリング(1775-1854)著『学問論

帯には「国家は哲学に対しては無制限の自由のみを与える義務がある」とあった


まず、後ろにあった本書の成立背景や解説に目を通す

わたしの中に出来上がっているものとほぼ完全に重なる内容のようである

シェリングの考えはその後のいろいろな本にも表れていると思われる

それをわたしも読み、納得したために自分の考えとして沈殿して行ったのかもしれない


「自分の考えを知るためには、過去人を読まなければならない」というフォルミュールを作ったことがある

そのメカニズムは、実はこういうことだった可能性がある

シェリングの主張は大体予想されるが、読み進むことにしたい



2022年5月2日(月): 第1講「学問の絶対的概念について」

この講義は1802年夏にイェーナ大学で行われたものである

第1講は、「講義の意図」、「根源知」、「知と行為」の3つのセクションに分けられている


まず「この講義の意図」について

大学に入っても学問研究の羅針盤がない場合、次の2つのケースが想定される

一つは、核心に迫ることなく、無秩序にあらゆる方向を彷徨い歩くケース

二つは、それほど素質がない場合に起こることで、低俗なことに没頭したり、あるいは将来の外面的生活に必要だと考えるものを機械的に、記憶力に頼って詰め込もうとするケース

このようなことが起こるので、研究の目的と方法に関する授業が必要である

もう一つの問題は、専門の中に埋没して普遍的なもの、絶対的なものについて考えが及ばないことである

専門に入る前に、全体の認識、全体における専門の位置の確認が欠かせないのである

「普遍、絶対」に我々の本性を解き放つためには哲学が相応しく、その仕事は哲学にのみ期待できる


「根源知」について

探求の基礎にあるものとして、それ自身において無制約な知、知の中の知である「根源知」がある

それは、観念的なものであると同時に実在的なものであるという統一性で、絶対者の理念である

つまり、あらゆる知が神的存在と結び付こうとする努力であることを示している

個別の知は「根源知」の部分として含まれているので、「根源知」に関わりのない知は実在性も意味もない

この統一性と全体性との精神において考えられていない思想はすべて空虚であり、廃棄されなければならない


「知と行為」について

よく「行動せよ!」という声が聞こえる

そう叫ぶ人は知に不得意な人である

知、特に哲学的な知は、誰でもできることではない

行為の目的となる知とは、どのような知なのか


絶対者の本性は、絶対に観念的なものが同時に実在的なものであることであった

絶対知はどの活動においても、この不可分の二重性がなければならない

時間の中にある知と時間の中にある行為では、知と行為は必然的に分離する

しかし、理念の中では知と行為はその絶対性のゆえに、一である


有限性の中で把握される限り、両者は対立する

知を行為への手段として把握する場合には、必然的に対立が生じるのである

それは知を日常の実践から得た概念でしか捉えられないからである

その場合、学問は何かの役に立つことに貢献すべきだと考える

彼らは絶対的な知と行為の関係を理解していない

そのため、一方を他方の手段と見なすことになるのである


根源知でないような真の知は存在せず、それ自身のうちに神の本質を表現しないような真の行為も存在しない

それは、絶対的な必然性による以外に真の自由は存在しないという関係と同じである



2022年5月4日(水): 第2講「大学の学問的および道徳的使命について」

この講義は、「大学における研究の制約」「現在の大学の実状」「大学の本来のあり方」「大学の道徳的・社会的使命」の4つのセクションに分けられている


以下、淡々と進めたい


「大学における研究の制約」について

大学における学問研究を理解するためには、第1講で触れた「根源知」に還らなければならない

それは、他に依存しない自立した最高の理念であり、現存する諸制度の形式に囚われないものである

しかしそのような形式や外面的制約は、近代世界においては必然であり、さらに洗練されるまでは残存する


真なるものは本性上永遠であり、時間の中にあっても時間とはかかわりを持たない

しかし学問は、個人によって語られるかぎりにおいてのみ、時間と関わる

ただ、知自体は個人のものではなく、理性が知るのである

学問が永遠であるということは、伝承されなければならない

個人が本能から意識へ、獣性から理性へと高めてきたわけではなく、人類の蓄積があったためだと考えられる


道徳も個人に固有のものではなく、全体の精神から流れ出たものである

学問と同様に、人類の公共生活と共有されて生命を得た

現代の精神には、既存のものそれ自体の究明が求められる

注意すべきは、過去そのものを学問の対象とすることと、過去についての知識を知の代わりにすることの違いである

後者の場合、「原像」(Urbild)には辿り着けない

アリストテレスも自然そのものを問題としたのである


「現在の大学の実状」について

大学は歴史的な知を学ぶことに充てられ、知があらゆる孤立した特殊学問になり、普遍的な精神や知そのものが失われて行った

このような状況において、大学に対してどのような要求を出すことができるのか

それは、普遍的なもの、絶対的知の精神においてすべての学問を扱えということである

そのために、教師に精神的自由のみを与え、学問以外の考慮で彼らを束縛するのを止めることである

そうすれば、教師はその要求に沿うように自らを形成しようとするだろう


国家が大学を学問的な機構と見做そうとしているならば、理念を生かし、最高に自由な学問活動を求めなければならない

もし、大学が国家の意図の完全なる道具となる僕を形成するものに成り下がってしまえば、学問は死滅する

役に立たない、有用性がない、使えないといった理由で理念が斥けられるような場合がそれである

総合大学が目指すべきものは有機的な生命で、絶対的な学問から導かれた共同の精神(という生命原理)が必要である


「大学の本来のあり方」について

普遍的なものだけが理念の源泉で、理念は学問の生命である

個別の専門の中に埋もれ、それが全体との連関について目が行かない者は、学問の教師の資格がない

この要求は、専門分野を全体の手段と見做すことではなく、むしろその逆である

学問を役に立つものとしてのみ捉える人たちは、大学を単なる知識伝承のための施設と見做しがちである

たとえそうであっても、伝承は精神を込めて成されなければならない

その必要を認めない場合には、易しい教科書や資料の寄せ集めを読むだけに終わるだろう

自らの学問全体を自分自身の力で構成し、内面的な生きた直観で叙述することができない時、単なる歴史的講述をせざるを得なくなるのである

これほど精神を駄目にしてしまうものはない

優れた教師は、単に結果を示すのではなく、結果に到達する方法そのものを叙述し、学問全体を学生の目の前で生起させる


「大学の道徳的・社会的使命」について

市民社会は理念と現実との決定的な不調和を顕わにしている

それは、理念から生まれる目的とは違う目的を追求しなければならなかったり、目的が生み出した手段が強力になり目的が見えなくなったりするからである

市民社会は絶対的なものを損なってでも、経験的な目的を追求しなければならない

大学では、学問以外のものが重視されるべきではなく、才能と教養による差異以外は存在すべきではない

そうならないとすれば、それは大抵教師の責任である


学問の世界は、民主政治ではなく、いわんや衆愚政治でもない

最も高貴な意味での貴族政治なのである

最も優れたものが支配しなければならない

無能な者が引き立てられることさえなければ、才能あるものを保護する必要もない

この政策が行われれば、その機関は充実し、内には品位が、外には名声が高まるであろう


理性的思惟への教養――人間の本質そのものの中に浸透する唯一真なる学問的な教養――は、理性的行為への唯一の教養でもある

教養を完成し、自身の特殊な学問から絶対的な知へと到達した者は、明晰と思慮の王国へと高まっている

人間が絶対的意識にまで透徹し、完全な光明のうちに生きるならば、一切は得られたのである

学問は絶え間ない自己形成であり、直接自己との同一性へと、またそれによって真に浄福な生へと導く直観へと向かわせる



2022年5月5日(木): 第3講「大学における研究の最初の前提について」

本講の構成は、以下のようになっている

「本講の意図」
「学問・研究の歴史的側面」
「学問・研究の芸術的側面」
「手段となった学問・研究の弊害」
「大学以前の勉学」
「語学の学習と文献学」
「以下の講義の展望」
では、早速始めたい



「本講の意図」について

学問を目指すものの目的、学問の理念については、これまでに触れた

ここでは、学問を職業とする者に求められる一般的要件について述べる


「学問・研究の歴史的側面」について

研究の概念には、二つの側面がある

一つは歴史的側面で、それ故、只管学習することが求められる

これはすべての基礎になるもので、好みによって恣意的にやるのではなく、やらなければならないことをやり通さなければならない

この訓練により、気紛れなやり方や断片的思考から離れることができ、求められるものをすべて汲みつくした総体へとまとめ上げることができるようになる


しかし、最上位の学問が通俗的な色調を帯び、万人の理解力に適うべきものと見做され、概念を大雑把にしか受け取らない緩み、表面的な当たりの良さ、浅薄な満悦が欠かせぬものになっている

これは近代の教育学が不徹底さの潮流に掉さしたためである

大学の退屈、冗長、精気のない徹底性に対する怨嗟が、不徹底性の潮流を引き入れたのである


「学問・研究の芸術的側面」について

第二の側面は形式の側面で、これは芸術と共通する

形式は訓練を通してのみ我がものとすることができる

従って、授業は訓練を主眼とすべきなのである

学問には特殊な形式があるが、そこには普遍的で絶対的な形式が宿っている

ただ、既成の特殊な形式を学習しても何かを体得したことにはならない

真の消化吸収は、自己自身への内的変容なしにはあり得ない

要約すれば、「自分自身で創造するためにのみ学べ」である

産出というものは、普遍と特殊の出会い、相互浸透に基づいている


「手段となった学問・研究の弊害」について

認識には理性的認識と歴史的認識がある

前者は根拠の認識を担い、後者は単なる事実の学問とされる

より直接的に生活の用に資する学問は、「口過ぎの学問」(パンの学問)と呼ばれる

学問を自分にとってどのような有用性があるのかという観点からしか考えないからである

結果を知るという一点が目的になり、根拠は完全に無視されるのである


こうなるのは、学問を単なる経験的使用のために習得しようとするからである

それは自分自身をも手段と見做すことになる

この道を選んだ場合、第一に、真に体得することにはならない

知識が記憶によって維持され、特殊を普遍の中に包摂するための判断を欠いているからである

第二の結果は、進歩する能力が全くないということである

真の進歩は絶対的原理から評価しなければならないため、特殊なものしか学習できない場合にはそれができなくなる

真の発見は普遍において成されるのである


「大学以前の勉学」について

大学以前に習得されるような知は、「知識」と呼ぶ以外にはないようなものである

上級の学問(神学部、法学部、医学部)を知識という形で獲得することはできない

また、真の意味で絶対性に到達することがあり得ない年代に対して、絶対性に立脚する知を先取りして与えるのは賢明ではない

全体の連関の中でのみ真価を発揮し得る知識についても同様である

一つひとつの学習段階に留まることが肝要なのである

大学に入る前に習得すべきは、将来の補助手段となる機械的な要素である


「語学の学習と文献学」について

語学学習は後年のあらゆる段階の学問形成にとって必要不可欠なステップで、避けて通ることはできない

ここでは、若年期の語学学習に絞って話す

若年期に古代言語を学習することに対する異論が、近代教育学の側から唱えられている

その根拠は薄弱で、反駁には及ばない

その主たるものは、暗記中心の教育に反対する的外れな熱意によって吹き込まれたものである

偉大な指揮官も、偉大な数学者、哲学者、詩人も、記憶の容量と活力なしには存在し得ない

近代教育学は、このような人間ではなく、勤勉で有用な市民的人間の養成を目的にしていたのである

若年期に機知や洞察力や着想力を訓練するには、古代言語に取り込む以外に適切なやり方を知らない


文献学という高い目的にとって、言語知識は手段に留まる

文献学者は単なる語学者とは異なり、芸術家と哲学者とともに最高位を占める者である

生き生きとした直観の中で芸術や学問の歴史を捉え、描出するのがその任務である

大学では、文献学のみを教授すべきなのである

我々にとって生命を失ってしまった言葉の中に、生き生きとした精神を認識することは、感受性の直接的陶冶となる


「以下の講義の展望」について

これから大学での研究の個別分野を論じるが、研究の土台を築き上げるには学問の有機的全体を構成することが不可欠となる

そのためにはすべての学問の相互連関を明らかにし、内的有機的統一が大学を通して持つに至った客観性について説明しなければならない

このシリーズでは対象を論じ尽くすことはせず、語るべきでないことを語らぬよう用心したい


2022年5月7日(土)~5月8日(日): 第4講「純粋な理性学である数学と哲学一般の研究について」

総論が終わり、これから各論に入る

本講は次の5つに分かれている
「根源知と学問」
「特殊知と普遍知の対立」
「空間と時間」
「理念の認識と数学」
「哲学とその直観」
いつものように、粛々と進めたい


「根源知と学問」について

根源知とは、全ての学問が生じる源であると同時に、帰着する終極である一なるものである

そこから末端の諸分肢に生命(認識を学問として体系化する原理)を導かなければならない

根源知は、学問(哲学と数学)の中で自己を反省する

反省する側の知と反省される側の根源知は一つに合一している


「特殊知と普遍知の対立」について

根源知を会得するには、そうでない知との対比による他ない

特殊なものの認識に至る方法を説明することはできないが、それは絶対的認識でも無制約に真なる認識でもあり得ないことは言える

ただ、これを経験主義的懐疑論や粗雑な経験主義一般の意味で理解しないでほしい


経験主義的懐疑論は、特殊なものに向けられた表象の真理性を感覚器の錯覚を基に疑うものである

その場合、錯覚がなければ自らの感性的認識を確実なものと見做してしまう

また、粗雑な経験主義一般は、感性的表象そのものの真理性を疑う

表象は触発を介して心にのぼってくるが、触発が持つ根源性が疑わしいとするからである

しかし、知と存在の因果関係(知を触発によって説明すること)自体が感性的錯誤なのである


知はそもそも限定された知であるので、依存的で制約付けられ、常に変化し、多様で異なったものになる

知において限定されたものは「形式」である

知の本質は一であり、すべてのものにおいて同一なので限定されることはない

つまり、知と知を区別するものは「形式」である

「形式」は特殊な知の中では本質と関係なく現れるので、実在ではなく仮象であり、それゆえ真の知ではない


特殊な知に対する純粋に普遍的な知は、特殊知から抽象されたもので、抽象的な知と呼ばれる

これが如何に生じるのかについても説明できないが、特殊知は形式が本質に合致していないのに対して、普遍知は形式を欠いた本質として悟性の前に現れてこざるを得ない

形式が本質を通じて認識されなければ、実体の持つ特殊で感性的なものが普遍的概念からは永久に洞察できない


真に絶対的な認識の究極の根拠と可能性は、普遍的なものが同時に特殊なものであるという点になければならない

これが諸理念を理念たらしめる理念であり、絶対者の理念である

すなわち、絶対者はこの同一性でのみあるのだから、対立項のどちらでもない


「空間と時間」について

一切の活動の否定を伴う純粋な存在が空間である

空間も抽象的概念でもなければ、具体的事物でもない

空間はそれ自身である通りのもので、存在はそれ自身のうちに概念を汲みつくしている

空間は、絶対的に実在的であるがゆえに、絶対的に観念的でもある


空間が一切の活動の否定を伴う純粋な存在として現象するならば、空間に対立する形式は、一切の存在の否定を伴う純粋な活動として現れなければならない

純粋な活動という理由から、それは自己とその対立物との同一性で、それは純粋な時間である

如何なる存在もそれ自体としては時間のうちになく、存在の様々な変化のみが時間のうちにある

この変化は活動の表出、存在の否定として現象するのである

空間に当て嵌まることは時間にも当て嵌まり、時間は普遍的なものと特殊なものとの同一性として、抽象的概念でも具体的事物でもない

時間と空間のうちに表現された統一が学問の基礎となるとすれば、学問自体は、理念の単なる反映である世界に属するものの、それにもかかわらず形式の点では絶対的なものでなくてはならない


「理念の認識と数学」について

数学を構成する解析学と幾何学の各々において、形式は絶対的な認識の仕方が支配していなければならない

数学的認識は単なる抽象的概念の認識でも具体的事物の認識でもなく、特殊な直観のうちに表現された普遍的理念の認識である

普遍的なものと特殊なものをその統一において表現することは一般に「構成」と呼ばれる

それは「論証」と同じである


科学におけると同様、日常の知識においても支配的な「因果結合の法則」を純粋な理性同一性の領域へ高める認識様式は、外的目的を必要としない

数学が、例えば天文学や物理学一般に大きな影響を与えたとしても、その結果からだけでは数学が持つ絶対的性格を認識したことにはならない

そのためには、まず数学自身がその根源へと立ち還り、そこに表現された理性の範型をより普遍的に把握する必要がある


数学の諸形式とは、象徴(記号)である

現代の数学者からは、ユークリッドが所有していた象徴を解くための鍵が失われている

それを見出すには、象徴を徹底して純粋理性の形式――客観的形態をとって他のものへ姿を変えて現れる理念の表現――として把握するだけである

しかし現代の数学の授業は、これらの形式が持っていた意味へと遡ることはしない

そこで重要になるのが哲学である

学生には根源的学問としての数学の可能性、そして幾何学と解析学との対立に注意してもらいたい

これは実在論と観念論との対立に対応しているのである


「哲学とその直観」について

根源知の他に依拠すべき如何なる原像も持たない学問とは、あらゆる知の学問、哲学である

哲学が根源知の学問であるという万人が認める証明はできない

しかし、そのような根源知の学問が必要だということは証明できる

しかも、そこに出される概念は哲学のものではないだけではなく、そもそも学問たり得るものの概念ではないことも証明可能である


哲学と数学は、ともに普遍的なものと特殊なものとの絶対的同一性に基づいている点で等しい

しかし、哲学の行う直観は数学のものとは異なり、反省的な直観ではあり得ない

哲学の直観は直接的な理性直観(知的直観)で、その対象(根源知)と同一である

知的直観において何かを表現することは、哲学的に「構成」することである

あらゆる統一の根底にある普遍的統一性と同様に、特殊な諸々の統一も、根源知が有する絶対性と同じ絶対性をそれぞれのうちに受容しているので、理性直観のうちにのみ含まれることができる

つまり、哲学は理念の学問、事物の永遠の原像についての学問である


知的直観なしに哲学はあり得ない!

哲学の場合、直観もことごとく理性のうちへと帰っていくので、哲学的直観を持たない者は、その直観について語られていることを理解することができない

つまり、哲学の直観は目に見える形では与えられないのである

哲学的直観を持つための条件は、一切の有限な認識が空虚であることを明晰に心の底から洞察していることである

我々はこの直観を自分の中で培うことができる

哲学者においては、直観が一切を理念において現れるがままに見る熟練した能力にならなければならない


哲学の効用について語ることは、この学問の品位に関わると思う

そもそも哲学の効用を問題にし得るような人間は、きっとまだ一度たりとも哲学の理念を持つことができなかったのである

哲学はそれ自身によって有用性との関係を全く離れて語られる

哲学はそれ自身のためだけに存在するのである

もし他のもののために存在するとすれば、哲学はその本質そのものを直ちに廃棄してしまうだろう


一方、哲学に対する非難について語ることが全く無駄だとは思わない

哲学はその有用性のゆえに推奨されるべきではない

しかし、哲学が有害な結果をもたらすという虚構によって、外の社会との関わりを持つことが制限されるべきではない


2022年5月9日(月)~5月10日(火): 第5講「哲学の研究に対して通常なされる非難について」

前講を引き受ける形で、次の5つの非難を迎え撃っている
「哲学は国家にとって危険であるという非難」
「通俗的な悟性の立場からの非難」
「功利主義の立場からの非難」
「さまざまな学問からの非難」
「哲学は流行に属するものだとする非難」
では早速、始めたい


「哲学は国家にとって危険であるという非難」について

この非難は広く行き渡っているが、それを取り上げることにしたのは、これまでの反論が適切ではなかったからである

哲学は自分自身の内的根拠にのみ従うもので、国家や宗教のような人間が造ったものには煩わされないのである

そのような哲学の何が国家にとって危険なのか、何が哲学から出てきたのかを問えば答えは明瞭である


「通俗的な悟性の立場からの非難」について

学問のうちの一つの方向性は国家に対して有害であり、もう一つの方向性は破滅的である

第一の方向性は、通俗的な知が絶対的な知に背伸びしようとしたり、絶対的な知を判定する地位になる場合である

もしこの傾向を国家が助長する場合、通俗的悟性は自らが理解できない国家の上に立つことになるだろう

ここで言う通俗的悟性とは次のようなものである

粗雑でまったく無教養な悟性であり、偽りの皮相な文化によって空っぽな理屈をこねる教養に至った悟性である

通俗的悟性は俗っぽい根拠で国家の根本形式に攻撃を仕掛けることがある

教養主義を自称しているこのあり方は、哲学と正反対のところにある

理屈をこねる悟性を理性の上に引き上げて悲惨なことになったのは、フランスで見たところである

だからと言って、哲学は法の維持にとって危険であるというようなことは馬鹿げている

フランスではあらゆる学問において理屈をこねる人たちが哲学者の名を奪い取ってきた

一方、我が国では真の哲学者であれば、そのような人に哲学者の名を許すことはないだろう

通俗的悟性を祭り上げてしまうと、学問に衆愚政治を引き入れ、やがて学問以外のところにも粗野な人間の台頭を引き起こすことになる


「功利主義の立場からの非難」について

第2の破滅的な方向性は有用なものだけを目指すことで、それはやがて国家体制にも当て嵌まることとなる

しかし、これほど移ろいやすいものはない

なぜなら、今有用なものが明日にはそうでなくなる可能性があるからだ

この傾向が拡大していけば、国民の中にあるすべての偉大なものや活力は窒息させられることになる

国家も個人も私利私欲に走ることになり、個人と国家を結びつきは危ういものになる

真の絆は、無制約的なもののみを意志するがゆえに自由であるような、神的なものでなくではならない

哲学がある国民を偉大にすることがあり得るとしたら、それは全く理念のうちにあるものだろう

ドイツでは古い国民的性格はすでに解体しているが、それを呼び覚ますことができるのは内的絆だけであり、宗教や哲学だけである

偉大なる使命に召されておらず、小さくて平穏なだけの小民族には、偉大な動機も必要とされない

こうした民族にとっては、ただ飲食に事欠かぬこと、産業に専念することができればそれで十分である

政府が功利的精神に親しむようになると、芸術や学問に対しても功利的精神だけを追求するよう指示することとなる

このような国では哲学は何の役にも立たず、諸侯たちも一般民衆と同じようになろうとし、国王もその地位を恥じ、単に市民の筆頭であろうとする

哲学も崇高な領域から卑俗なところへと落ちることは間違いない

粗野な人間さえ著述を始め、どんな平民でも裁判官の地位に上るようになって以来、高貴と低劣との区別がつかなくなっている

この潮流に歯止めをかけられるのは、哲学である

哲学の本性を表す格言はこの一句である
私は下劣なる愚民を憎み遠ざける(ホラティウス)

「さまざまな学問からの非難」について

哲学が国家や教会にとって危険であるという声が出始めて以来、学者の方も哲学に反対の声を挙げるようになった

しかし、ある学問が哲学と対立するとすれば、それは学問ではないだろう

あらゆる学問は哲学によって一つになっているのである

学問に対する尊敬を注ぎ込むのに、哲学を徹底的に研究する以上に相応しいものはないのである

哲学で真理の理念に到達した人が、他の分野で根拠なくバラバラになっているものから、もっと深く、もっと根拠づけられた、もっと密接に連関し合ったものを求めるようになれば、その学問にとっても有益なことになる

如何なる学問を究める場合でも、哲学から真理の理念を受け取っていなければならない

実際、わたし自身、哲学の影響によって自然科学のあらゆる分野に対する熱意が、より広範に蘇ってきたのである

哲学は、包括的なもの、普遍的なものへと向かおうとする

しかし、哲学によって掻き立てられた包括的、普遍的なものへの衝動に釣り合うだけの豊かな古典の教養がなければ、学問は均衡を失い倒壊してしまうだろう


「哲学は流行に属するものだとする非難」について

哲学が青年に及ぼす害悪について語る人たちは、哲学を手にしていたか、いなかったかのいずれかである

後者の場合、一体どうしてそのようなことが言えるのか

前者の場合、哲学が効用を持たないことを洞察するという効用――それはソクラテス以来のものであるのだが――は知っているはずだが、なぜそのことを言わないのか

彼らが自分たちの忠告に何の効果もないことが分かると、こう言い始める

哲学は流行に属するもので長続きせず、新しいものが現れては過ぎ去っていくものである

哲学の見かけ上の変化は、無知なる人々にのみ存在し、哲学には何の関係もない

哲学と自称しているものに哲学の欠片もないことがある

それをはっきりさせるために、哲学は研究されなければならないのである


あるいは、見かけ上の変化が哲学に関係することもある

この場合、哲学の本質は古代ギリシアから変わっていないが、哲学の形に変様があることになる

このようなことが起こるとすれば、哲学が未だ究極的、絶対的な形態をまだ獲得していないことを意味している

新しい哲学とは新しい形式を持ったものでなければならない

哲学者に固有な優れた点は、それぞれが等しく独創的であり得るということである

絶対的形式を獲得するためには、精神はあらゆる事柄において自分自身を試さなければならない

哲学が流行に属すると中傷する人は、それほど真剣に考えているわけではないことがあり、安易に哲学と和解する

流行には追随したがらないが、流行遅れにもなりなくないので、最新の哲学から何かを掴み取り、自分の身を飾ることも厭わないのである



2022年5月12日(木)~5月13日(金): 第6講「とくに哲学の研究について」

興味深い議論が展開されるのではないかという期待を抱かせるテーマである

項目は以下のようになっている

   「哲学は学べるか――弁証法と哲学」
   「哲学の真の目的」
   「論理学と哲学」
   「心理学と哲学」
   「近代世界と二元論」
   「主観性の哲学の流れ」
   「哲学の使命」

では始めたい


「哲学は学べるか――弁証法と哲学」について

哲学は訓練や勤勉さによって学ぶことができるのか、あるいは、天性のもので神意によって与えられるものなのか

哲学はそのものとして学ぶことができない

哲学の形式に関する知識(哲学史の知識)は訓練や勤勉さによって獲得できるが、それは絶対者を捉える能力とは別ものである

ただ、哲学は学べないというのは、自然に哲学できるということを意味しない

哲学は学べないが、訓練できる部分がある

それが弁証法という技術的な側面である

弁証法の技術なしには学問としての哲学はあり得ない!

哲学の意図は、あらゆるものを一つのものとして記述し、根源知を表現しようとすることである


「哲学の真の目的」について

絶対的なものとは、普遍と特殊とを一つに形成する永遠の試みであり、この絶対者の内的本質から現象する世界に理性と想像力が流れ出てくる

この理性(理念的なものの内にある)と想像力(実在的なものの内にある)は同じものである

想像力によって生み出された真の芸術作品であれば、理念の内に統一されている矛盾と同じ矛盾の解決である

しかし、単なる反省的悟性は、対立するものの総合を矛盾として捉えるのである

哲学の創造的・産出的能力は、自らを形成し、高め、無限なものにまでポテンツを高めていく

理念に対する感覚がない場合、人はそれを創り出すことはできない


ものの本質を探究したいという衝動や欲求は、例外なく人間の中に深く植え付けられている

そのため、その目的に合いそうなものがあれば、中途半端なものでも喰いついてしまう

そうでもなければ、哲学の皮相極まりない企てが興味を引き起こすことを理解できない

非哲学(啓蒙哲学か)は常識的であるだけで健全な悟性とするが、それは真理という現金を欲し、そのための手段の不十分さに目もくれない

そのため、粗野な独断論哲学の怪物を作り出す

それは、有限なものを無限なものへと拡張しようとする


意識の事実を超えて、それ自身において絶対的であるようなものへと出ていくこと、これこそがすべての哲学の根源的な意図なのである

事物に関する通俗的で有限な見方について疑うだけでは、哲学にならない

そうした見方の空虚さを明確に認めるところまで行かなければならない


「論理学と哲学」について

論理学と呼ばれているものは、哲学における経験的な試みに属している

第一に、論理学が形式の学、哲学の純粋な技術論だとすれば、弁証法と同じ性格のものでなければならないが、それは存在していない

第二に、論理学が有限性の形式を絶対者との関係において叙述すべきものだとすれば、学問的懐疑主義でなければならないが、それには該当しない

第三に、論理学が純粋に形式的で、知の内容や実質と反対の学問であるとすれば、哲学に対立する科学になる

この論理学は、通俗的な悟性の法則を絶対的なものとして立てる経験的学理である

これは有限性の領域では正しいが、思弁においてはそうではない

第四に、法則が反省された認識にとって必然的な法則であることを、思弁的根拠から証明することに携わるのが論理学だとすると、それは絶対的学問ではなく、普遍的な体系における一つの特殊なポテンツ(展相)になる

悟性に従属する理性は推論する能力と見做され、どこまでも制約されたものである

しかし、本来の理性は絶対的な認識方法である

悟性形式を持った理性以外に理性がないとすれば、無制約的なものや超感覚的なものの直接的で確固とした認識には至らない


「心理学と哲学」について

本性的に無味乾燥な論理学を人間学的・心理学的知識によって変えられると考えるのは間違ってはいない

ただそれは、哲学を論理学に置換しようとする者が心理学に向かう性向を持っていることと同じである

心理学は魂と身体が対立するという想定に基づいている

しかし、身体に対置された魂など存在しない

真の学問は、魂と身体との本質的で絶対的な統一の中にだけ求められるものである

従って、心理学が齎すものについても容易に想像がつく


真の哲学と同様、真の自然科学もすべての事物における魂と身体との同一性(すなわち理念)からしか生まれない

なぜなら、魂に生きているのが理念であれば、自然のあらゆる事物の中に生きているのも理念だけだからである

この点で対立させられた心理学が、哲学に取って代わり得るなどということはないだろう


心理学は理念の中にある魂を知らない

心理学は魂が現象したあり方(身体)との対立においてのみ、魂を知っているのである

従って、人間の中のすべてのものを因果関係に従属させ、絶対的で本質的なものから現れてくるものを認めない

そのため、人間の内では何も神的仕方では生じないという考えになり、絶対的なものについての学問である哲学に反対し、それが宗教、芸術、道徳にまで適用される

哲学の理念は、お粗末な心理学的錯覚のいくつかから説明されることになる

その帰結は、全てのものは似たり寄ったりであるとする一般的体系になる


事実に立脚しようとする経験的な哲学、単に分析的で形式的な哲学は知へと至ることはできない

絶対知には至ることができないのである


「近代世界と二元論」について

近代世界は、一般的に対立の世界である

古代世界では一緒にされていた有限なものと無限なものが、絶対的対立として現れたのである

二元論は近代世界の必然的現象である


「主観性の哲学の流れ」について

主観的なものと客観的なものとの対立は頂点に達した

二分化を明確にしたデカルト以来、スピノザを除いて二分化に反対する現象は存在しない

このように理念が引き裂かれてしまったことで、無限なものもその意味を失い、無限なものの意味も単に主観的なものになった

デカルトは「我思う、故に我あり」によって、絶対者の理念に主観性に向かう方向を初めて与えた

彼は神・世界・魂についての考えを、哲学よりは自然学の中で語っている

何らかの対立を残しているような哲学、絶対的な調和を打ち立てていない哲学は、絶対知にまで突き進むことはできないし、絶対知にまで自己を作り上げることもできない


「哲学の使命」について

自らの哲学に課さなければならない課題は、本性上絶対者の認識でもある真に絶対的な認識を追求すること、総体性にいたるまで、一切を一者のうちに完全に把握するまで追求することである

近代世界の最後の使命は、真にすべてを包括する高次の統一を表現することである

そのような統一が存在するためには、あらゆる対立を分裂しなければならない



2022年5月16日(月)~5月17日(火): 第7講「哲学にとって外的ないくつかの対立、とくに事実的な学問との対立について」


以下のような内容になっている
「哲学と道徳の対立」

「哲学と宗教の対立」

「哲学とその他の学問との関係」 

「哲学の内的組織」

「事実的学問の区分」

「学部相互の関係――カント『学部の争い』に触れて」 

それでは始めたい


「哲学と道徳の対立」について

知と行為の対立は、本来存在するのは実践哲学だけであり、理論哲学は存在しないとする似非啓蒙主義の直接の子孫である

道徳とは神に似た心情であり、具体限定的なものを超え、普遍的領域へと高まることである

これは哲学でも同様で、両者は分かち難く一致している

それは哲学が道徳に服属するのではなく、両者は本質的、内的に等しいからである

行為の世界は知の世界と同様にそれ自身絶対的であり、倫理学は理論哲学に劣らず思弁的な学問である

従って、倫理学も哲学同様構成なしには考えることができない

道徳は普遍的な自由――公になった道徳――において客観的なものとなる

この道徳的な組織の構成は、思弁的な理念に基づいている

道徳という概念は長らく消極的なものでしかなかったが、それを積極的な形式において明らかにすることが哲学の仕事になるだろう

思弁を恐れ理論的なものから立ち去り、実践的なものに急ぐとすれば、そこには知におけると同じ浅薄さが表れるだろう

厳密に理論的な哲学研究だけが、行為に強さと道徳的意義を与えるのである


「哲学と宗教の対立」について

これは、古くから言われている理性と信仰の対立という意味ではなく、無限なものの純粋直観としての宗教と純粋直観の同一性から出ていく哲学との対立である

哲学は本性上絶対性の内にあり、その外には出ていかない

哲学は無限なものから有限なものへの移行を知らない

哲学は特殊性を絶対性において、絶対性を特殊性において把握できるという可能性に基づいている

絶対的なものに関わる精神の最高の状態は、できる限り無意識的であり続けるか、全く無垢な状態でなければならない

哲学は絶対的なものの理念を確立し、主観性から理念を解き放ち、できる限り客観的な形式で示そうとしてきた

しかし、絶対的なものは、学問を軽視するための主観化の最後の手段とされてしまった

この種の無能力や意欲のなさが、より高い要求から逃れるために宗教へと撤退するのは不思議なことではない

哲学によって宗教を手に入れることはできないし、宗教が哲学を与えたりすることもできない

内なる美となる自己自身との調和は、客観的能力と関係なく手に入れることができる

主観的なものでしかない内なる美を、外に向かって客観的に示すには別の能力が求められるのである

一切の芸術は、自然と宇宙の直観から出発して再び直観へと帰る

しかし、そう聞いている人も経験主義に従って、個々の現象あるいは特殊なものを自然だと考え、それを感情状態の比喩で表現することになるのである

最高の学問すなわち哲学においては、自然と神、学問と芸術、宗教と詩とが(つまり、あらゆるものが)一つに根源的に結び付けられている

この学問が自分の内であらゆる対立を捨てていれば、自分の外においても他のものと対立することはない


「哲学とその他の学問との関係」 について

哲学は根源知そのものの学問であるが、それは観念的にであって実在的にではない

もし知性が知るという一つの働きによって、絶対的なものの全体を実在的に捉えることができるとすれば、それは知性が有限であることを止め、一切を現実に一として捉えるだろう

根源知の実在的な表現は、哲学以外のすべての知である

両者を分けているのは具体的なものという要素で、分離と区分が後者を支配している

後者の知は個人においては実在的に一にはなれず、人類全体においてのみ一となる

現実の知は根源知の継起的な顕示であるため、必然的に歴史的な一面を持つ

あらゆる歴史は、理念の表現として外的な組織を実現することへ向かう

学問の方も客観的現象と外的な組織を与えようと必然的に努力する

学問のこの外的現象は、根源知すなわち哲学の内的な組織の表現としてのみあり得る

しかし、根源知においては一なるものも、外的現象になると分離して表現されるのである


「哲学の内的組織」について

純粋な絶対性そのものは必然的に純粋な同一性でもある

この同一性の絶対的形式は、永遠に主観でありかつ客観であるということである

主観的なもの、客観的なものはそれぞれ絶対性を持つのではなく、両者にとって等しい本質であるものが絶対性である

両者に等しい本質は、絶対的産出作用(純粋な絶対性が絶対的な形式を得ること)の客観的側面と言われるものでは、観念性として実在性の内に造形され、主観的側面においては実在性として観念性の内に造形される

絶対的なものは純粋な同一性だが、同一性であると同時に二つの統一の必然的本質でもある

このように絶対的なものを把握すれば、形式と本質の絶対的無差別点を把握したことになる

すべての学問と認識は、この絶対的無差別点から流出するのである

哲学は二つの統一を絶対性においてのみ考察する

それは実在的対立においてではなく、観念的対立においてのみなされる


「事実的学問の区分」について

根源知と哲学の内的組織は、さらに諸学問という外的な全体の形で表現されなければならない

あらゆる知の客観化は行為を通じてのみ生まれる

この行為は観念的所産を通じて外的に表現される

この観念的所産の中で最も普遍的なものは国家である

国家は必然的に知そのものにとっての外的組織、すなわち理念的で精神的な国家を含んでいる

学問が国家に関連して客観性を得ている場合、それは事実的な学問と呼ばれる

客観性への移行は、諸学を個別の学問として分離する

その際の外的図式は哲学の内的範型に従って描かれなければならない

この哲学的範型は次の三点に依拠している

第一点は、実在的世界と観念的世界が一つに見てとられる絶対的無差別点である

第二点は、実在的なものにおいて表現された絶対的な点であり、実在的世界の中心である

そして第三点は、観念的なものにおいて表現された絶対的な点であり、観念的世界の中心である

したがって、知の外的組織も三つの学問に基づくことになる

第一は、絶対的無差別点を客観的に示す学問、絶対的かつ神的な本質を直接探求する学問、すなわち神学である

第二は、哲学の実在的な面を外に提示する自然学で、有機体の自然に意識を集中し、有機体との関係がただ事実的である時は医学ということになる

そして第三は、哲学の観念的な面を分離して客観化する学問、すなわち歴史学である

歴史の最も優れた仕事が法制度の形成であるとすれば、法学となるだろう


「学部相互の関係――カント『学部の争い』に触れて」について

諸学が国家により、あるいは国家の中で客観的存在になる場合、それぞれを結び付けるものを学部という

上級学部(神学部、法学部、医学部)のうち神学は、哲学の最内奥が客観化されたものとして最高の学部でなければならない

次に、観念的なものが実在的なものより高いポテンツ(展相)にあるとすれば、法学部が医学部の前に来ることになる

哲学部に関して言えば、そもそもそのようなものは存在せず、存在もし得ないというのがわたしの主張である

なぜなら、一切のものである哲学は、一切であるがゆえに個別のものではあり得ないからである

三つの事実的学問において客観的になるのは根源知としての哲学であるが、いずれの学問によっても総体として客観的にならない

哲学を総体として客観的にするのはただ芸術だけである

つまり、哲学部は決してあり得ず、あり得るのは芸術学部だけである

芸術は外的な力ではあり得ず、国家によって特権を与えられたり制限されることもあり得ない

国家によって特権あるいは制限を加えられるのは上記の三学問だけである

国家は哲学に対しては無制限の自由のみを与える義務がある <これが帯になっていたのだ

無制限の自由を与えなければ、哲学を完全に否定してしまうことになる

昔の大学において、現在の哲学部が意味していたのは、芸術(学芸)の自由な結合体であった

現在の哲学部はかつてコレギウム・アルティウム(Collegium Artium)と呼ばれ、その構成員はアルティスト(Artist=芸術・学芸に携わる人)と呼ばれていたのである

哲学部は他学部とは異なり、国家の義務を負ってもいる教師(Doctores)を作るのではなく、自由な芸術・学芸のマイスター(Magistros=上級三学部進学の資格者、自由学芸学部での教授資格者)を作り出すところである

その使命からすれば、哲学部は最も高く最も普遍的な尊敬を受けるべきであったにもかかわらずそのようには見做されず、全体としても個別のものとしても戯画となり、世間一般の嘲笑の的となってしまった



2022年5月23日(月)~5月26日(木): これまでのまとめ


まず一番印象に残ったことは、これまで遠慮しがちに使っていた「絶対的」という言葉が至るところに散らばっていたことである

それは、わたしが遥か彼方にあると想像していた「絶対的なるもの」が急に身近に感じられる効果を齎してくれた

ここで各講義のリキャップをしておきたい


第1講「学問の絶対的概念について」

専門と普遍的なもの、絶対的なものとの関係が論じられている

結論から言うと、普遍的なもの、絶対的なものの認識のない専門には意味がなく、その認識に至るには哲学が不可欠である、となるだろう

それから「根源知」なるものが出てくるが、これは何の制約も受けない知であり、観念的であると同時に実在的でもあるという統一性を持つ絶対知である

すなわち、絶対知には観念的なものと実在的なものが不可分の状態になければならない


これはどういうことだろうか

観念的なものを哲学が生み出すものとし、実在的なものを科学が生み出すものと仮定し、それが不可分の状態になければならないと言うのだとすれば、わたしが言うところの「科学の形而上学化」の意図と極めて近いように見える

もしそうだとすれば、わたしの日常は「絶対知」を求めての歩みということになるのだが、、

急に力が出てくる推論になるが、それでよいのだろうか


ところで時間の中、有限性の中では、観念的なものと実在的なものは対立する

よく言われる「知と行為」の対立は、こうした中から生まれる

知を行為の手段と考えてはいけないのである

絶対知はそのものだけのためにあるということになる



第2講「大学の学問的および道徳的使命について」

大学の研究は、他に依存しない自立した最高の理念である「根源知」によらなければならない

真なるものは永遠であるが、個人のレベルでは有限なので、学問は伝承されなければならない

それは道徳についても同様である

しかし、現在の大学では、知が孤立した特殊に陥り、普遍的な精神が失われている

これらを鑑みる時、大学に要求すべきは普遍的なもの、絶対知の精神を呼び覚ませということである

役に立つもの、有用性のあるものが推奨され、大学が国家の道具となれば、学問は死滅する

大学は本来、学問の生命の源泉である普遍的なものを求めなければならない

そして、才能と教養だけが判断基準とならなければならない

理性的思惟への教養は理性的行為への唯一の教養だという

そして自分の専門領域から絶対的な知へ到達したとすれば、明晰と思慮の世界に至る

絶え間ない自己形成である学問は、自己との同一性へ、真に浄福な生へと導く直観へ向かうという

この状態は意識の第三層レベルにおける幸福を指しているのではないだろうか

パリ心景』でも論じているように、学問(真理に至ること)は幸福の問題と深い繋がりを持っている

シェリングの中にもその証左が見つかったことになる



第3講「大学における研究の最初の前提について」

本講では、学問を職業とする者の一般的要件について語る

研究には、歴史的側面芸術的側面がある

前者は必要になるものを只管学習することが求められる

後者は形式の側面があり、訓練を通してのみ我がものとすることができる

「自分自身で創造するためにのみ学ぶ」のである


認識には根拠の認識を担う理性的認識と、単なる事実を学ぶ歴史的認識がある

「口過ぎの学問」は生活に役立つためのもので、根拠は完全に無視される

この場合、普遍の中で特殊を捉えられていないので真に体得できず、進歩するということがない

真の進歩は絶対的原理から評価しなければならないからである


大学以前においては、機械的に知識を習得する以外にない

真の意味で絶対性には至らない年齢の人に絶対性による知を与えるのは賢明ではない

それぞれの学習段階に留まることが重要なのである


語学学習はその後のあらゆる学問形成にとって必要不可欠である

若年期に古代言語を学習することは、機知や洞察力や着想力を訓練するために欠かせない

近代教育学は暗記教育に反対するという立場から古代言語の学習に異議を唱えている

しかし、偉大な人物は記憶の容量と活力なしには在り得ない

そのような人物ではなく、勤勉で有用な市民的人間の養成を近代教育学は目指していたのである


言語知識は、生き生きとした直観の中で芸術や学問の歴史を描写する文献学の手段に留まる

文献学者は哲学者や芸術家とともに最高位を占め、大学では文献学のみを教えるべきなのである



第4講「純粋な理性学である数学と哲学一般の研究について」

根源知は全ての学問の源であると同時に帰着する終極であり、そこから諸分野に命を吹き込まなければならない

普遍知に対する特殊知は、絶対的認識でも無制約に真なる認識でもない

知はそもそも限定された知なので、依存的で常に変化し、多様で異なっている

ただ、知の本質はすべてのもので同一なので限定されることはない

特殊知に対する普遍知は、特殊知から抽象されたものである

真に絶対的な認識の究極の根拠と可能性は、普遍特殊が一になっていなければならない

これが絶対者の理念である


根源知の他に依拠するものを持たない学問が、哲学である

哲学と数学は、普遍と特殊が絶対的同一性に基づいている

ただ、数学は反省的直観を用いるが、哲学が行う直観は理性直観(知的直観)で、根源知と同じである

哲学は事物の永遠の原像についての学問であり、知的直観なしに哲学はあり得ない

哲学的直観を持つためには、一切の有限な認識が空虚であることを洞察していることが条件となる

これは、日常世界(地上生活)における有限なるものの認識を離れる必要があるということなのか

もしそうだとすれば、これまでの天空での生活は哲学的直観を持つための最良のトレーニングだったとことになる


哲学の効用について語ることは、哲学の品位を汚すものである

哲学は有用性とは関係なく、それ自身のためだけに存在する

これが崩されると、哲学の本質も崩壊することになる

この点にも深く同意せざるを得ない

こうして読んでみると、わたしの場合、やはりフランス、ドイツの大陸哲学に親和性があるように見える

そのためだろうが、これまでのところ違和感なく読み進むことができている



第5講「哲学の研究に対して通常なされる非難について」

哲学が国家にとって有害であるという非難があるが、それは2つの方向性から生まれている

第1は、粗雑で無教養な悟性、空虚な理屈をこねる教養に至った悟性で、通俗的な知が絶対的な知を判定する立場になる場合である

このような通俗的悟性を祭り上げてしまうと、学問の世界以外のところにも衆愚政治や粗野な人間の台頭を許すことになる

第二の方向性は、有用なものだけを目指すもので、それが国家にも及ぶことになる

考えて見ればわかることだが、有用なものほど不安定なものはない

なぜなら、今日有用なものは明日そうではなくなることがあるからだ

功利主義が広まると、全ての偉大なものや活力は窒息させられることになる

この潮流を止めることができるのは、哲学である


学者の中にも哲学は危険であると批判する人がいるが、哲学と対立する学問はそもそも学問ではないだろう

哲学は各分野において散らばっている事実から、もっと深く、もっと根拠付けられ、もっと密接に連関し合ったものを求めるようになる

そしてそれは、その分野にとっても有益である

哲学は包括的なもの、普遍的なものに向かおうとするのだが、そのためには豊かな古典の教養が求められる


こういう記述を読むと、新たに出ることになった免疫に関するエッセイも哲学のこの精神に裏打ちされていることを感じる

結果は判断できないが、少なくとも動機においてはシェリングの言う哲学の本質に近いものがあったことが分かる


哲学は流行に属するものだという非難があるが、哲学の本質は古代ギリシアから変わっていない

ただ、哲学の形に変化が見られるのは、哲学がまだ究極の形態を獲得していない証左ではないかと言っている



第6講「とくに哲学の研究について」

よく出される問いに、哲学は学べるのかというのがあるが、答えはそのものとして学ぶことはできない

哲学の形式や哲学史に関する知識は学べるかもしれないが、絶対者を捉える能力は別物である

ただ、訓練できる技術として、弁証法がある


哲学の根源的意図は、あらゆるものを一つのものとして記述すること、事実を超えて絶対的であるようなものへと出ていくことである

絶対に至る哲学は、普遍と特殊、理念的なものと実在的なものを一つに形成する永遠の試みである

哲学の創造的・産出的能力は、自らを形成し、高め、無限なものにまで高めていく


これは私見だが、有用性を言うとすれば、これほど有用なものはないのではないだろうか

ここで発見に至ったことは、有用性にも特殊あるいは実在的な世界でのものと、普遍あるいは理念的な世界におけるものがあり、世に言われる有用性は前者で、わたしが哲学に認める有用性は後者ということになる

哲学に入ってから感得し続けていることは、後者の意味における哲学の力である

それは、生きることを直接的に支える力のことである

「これほど有用だ」という意味はそういうことである

前者に哲学を応用しようとするところでは、哲学の持つ根源的な力が完全に破壊されるのである


心理学が哲学に取って代わるということはあり得ない

なぜなら、真の学問は魂と身体を絶対的な統一の中だけに求めるが、心理学は両者が対立すると考えるからである

従って、全てのものを因果関係の下に置き、絶対的、本質的なものを認めない

事実を重視する経験的で分析的な哲学は、絶対知に至ることができないのである


古代では有限なものと無限なものが一緒だったが、近代世界は二元論の世界になった

主観的なものと客観的なものが引き裂かれ、対立することになったのである

近代世界における哲学の使命は、この対立を破壊し、全てを包括する高次の統一を表現すること、絶対的認識を追究することである


高らかに謳うシェリングの言葉には、終わりなきその道を歩んでいきたいと思わせてくれるものがある



第7講「哲学にとって外的ないくつかの対立、とくに事実的な学問との対立について」

まず、道徳との対立である

知と行為を対立させるのは、本来、理論哲学は存在せず、あるのは実践哲学だとする間違った啓蒙主義に由来する

道徳は限定的なものを超え普遍へと高まるもので、その点では哲学と同じである

両者は本質的、内的に同等である

思弁的、理論的なものから離れて、実践的なものに急ぐとすれば、道徳も知も浅薄さが表れる

思考することは、それ自体が行動なのだと言ったハイデッガーを想起させる


第二に、宗教との対立がある

無限なものの純粋直観としての宗教と純粋直観の同一性から出ていく哲学との対立である

しかし、哲学は絶対性(無限なもの)の中にあり、その外(有限なもの)には移行しない

最高の学問である哲学においては、すべてのもの(自然と神、学問と芸術、宗教と詩など)が一つに根源的に結び付けられている


第三は、その他の学問との関係について

哲学は根源知を求めるが、それは観念のレベルであって実在的にではない

しかし、絶対的なものの全体を実在的に捉えることができるとすれば、その知性は一切を現実的に一として捉え、有限であることを止めるだろう

根源知の実在的な表現は、哲学以外のすべての知である

そこには区分があり、歴史的側面を持つ


第四は、哲学の内的組織について

純粋な絶対性は必然的に純粋な同一性で、それは永遠に主観であり客観であることである

主観と客観には絶対性はないが、両者に等しい本質があるものが絶対性である


第五は、事実的学問の区分について

学問が国家に関連して客観性を得ているものは、事実的学問と呼ばれる

客観性への移行は、個別の学問として分離する

その外的図式は、以下の哲学の内的規範に依拠する学問に基づいている

一つは、絶対的無差別点実在的世界と観念的世界が一つになる)を示す神学

二つは、実在的な面を外に示す自然学、それが有機体であれば医学になる

三つは、哲学の観念的な面を分離して客観化する歴史学であり、その中で最も優れたものが法制度の形成だとすれば、法学になる


第六に、学部相互の関係に触れている

国家によって客観的存在にされた諸学を結び付けるものが学部である

上級学部(神学、法学、医学)の中で神学が最高で、観念的なものが実在的なものよりポテンツが高いとすれば、法学、医学の順になるだろう

哲学に関しては、一切であるがゆえに個別のものではないのだから、哲学部など存在しようがない

哲学を総体として客観的にするのは芸術だけである

芸術や哲学が国家によって特権を与えられたり制限されることもあり得ない

それがあり得るのは上級学部だけである

国家は哲学に対して無制限の自由の身を与える義務がある

そうしなければ、哲学を完全に否定してしまうことになる

現在の哲学部の構成員は、かつてアルティスト(芸術・学芸に携わる人)と呼ばれていた

国家の義務を負っている教師を作るのではなく、自由学芸に携わる人を育成するのが哲学部である

ただ、本来ならば最も普遍的な尊敬を受けるべき哲学部が世間の笑いものになってしまったとシェリングは見ていた



2022年5月27日(金)~5月28日(土): 第8講「キリスト教の歴史的構成について」

第8講は、以下のような構成となっている
「考察の目的」
「キリスト教の根本性格」
「歴史の三つの時代」
「キリスト教の歴史的構成」

本講の「考察の目的」について

実在的学問は、観念的、絶対的学問と歴史的要素によってのみ区別される

神学はこの歴史との関係の他に、思弁的理念の内にある

つまり、神学は哲学的知と歴史的知との最高の総合であり、これを表現するのが本講の目的である

最近の理念を欠いた試みの中に人類史がある

そこでは、最初の状態が未開民族の野蛮なイメージになっている

シェリングは、文化の状態は人類の最初の状態と考えているようだ

それは、国家、学問、宗教、芸術の始めは同時であるか、それらは一つであり、完全に浸透し合っていたということである

これを読んだ時、なぜか意識は生物の誕生と同じであるという考えを思い出した



「キリスト教の根本性格」について

神学の歴史的関係は、歴史的にのみ認識されるということだけに基づくのではない

キリスト教における絶対的関係とは、宇宙が歴史として道徳の王国として見られるということである

この普遍的な見方がキリスト教の根本性格を形成している

古代ギリシアの宗教では、無限なるものは有限なるものにおいてのみ直観される

これに対してキリスト教は、無限なるものへ直接的に向かうという違いがある

それ自身無限なるものであり、いかなる方向にも完結、限定されない世界である

そこでは、種々の姿は永続する自然存在者ではなく、歴史的形姿である

ギリシアの宗教では無限なるものは多ともなり得るので多神教が可能であるが、キリスト教では無限なるものは一のままで多神教とはなり得ない

ギリシアの宗教が同時として持つものを、キリスト教は継起として持っており、歴史的なのである

自然と歴史は、実在的統一と観念的統一、ギリシア世界の宗教とキリスト教の世界と関連している

キリスト教では、神的なものは自然の中に顕示するのではなく、歴史においてのみ認識できる

異教においては、自然は顕わなもので、観念的世界は神秘として退いた

逆にキリスト教では、観念的世界が露わとなり、自然は神秘として退かねばならなかった

ギリシア人にとっての自然は、それ自身において神的であった

神々は自然を超えたものではなかったのである



「歴史の三つの時代」について

歴史には、自然、運命、摂理の三つの時代を想定しなければならない

これらは同じ同一性を別のやり方で表現している

自然は無限と有限が抗争に至らず、有限なるものの萌芽の内に閉じ込められている

ギリシアの宗教と詩の開花期がそうであった

人間が自然から断絶するようになると、古代世界が終わる

運命は実在的なものにおいて認識された摂理であり、摂理は観念的なものにおいて直観された運命である

キリスト教は歴史の内に摂理の時期を導き入れる

キリスト教における宇宙の直観は、宇宙を歴史として、摂理の世界として見る直観である

これがキリスト教が歴史と不可分であり、一でなければならない理由である


歴史と哲学との対立は、歴史を一連の偶然な出来事として、あるいは単なる経験的必然性として理解する時に起こる

歴史も自然や何らかの知の対象と同様に永遠なる統一から由来し、その根を絶対者の内に持っている

通俗悟性は、出来事や行為の偶然性を個人の偶然性によると見做す

しかし、その行為を行った者は一人しかいないだろう

あらゆる行為において、一段低いところから見た時にのみ、自由が存在する

つまり、個人は絶対的必然性の道具なのである

歴史におけるキリスト教の形成、民族移動、十字軍などの偉大な事件は経験的原因によるとされるが、すぐれた感性の持ち主ならば信じないであろう

たとえ経験的原因によるとして、それは永遠なる秩序の道具に過ぎないのである



「キリスト教の歴史的構成」について

歴史一般においてそうであるように、宗教の歴史も永遠の必然性に基づいている

キリスト教の歴史的構成は、次の地点から出発する

すなわち、宇宙はそれが歴史である限り、必然的に二つの側面に分かれるという見解である

古代世界では、支配している理念が有限なるものにおける無限なるものの存在で、歴史の自然的側面である

古代が終わるのは、真に無限なものが有限なものの中へ来た時であるが、それは有限なものを神化するためではなかった

そうではなく、有限なものを固有な人格において神に捧げ、神と和解するためであった

つまり、人となった神、古代の神々の世界の頂点であり終焉であったキリストが、キリスト教の第一の理念となったのである

キリストが身に付けるのは高みにある人間性ではなく、卑賎の内にある人間性である


種族の内に詩として生きているギリシアの宗教は、歴史的基礎を必要としない

それに対してキリスト教では、神的なものが永続的姿では生きておらず、儚く過ぎて行く

そのため永遠にするためには伝承が必要で、秘儀のほか、公教的な神話が存在する

(以下、略)